わたしの小さな幸せ
「ねえ、お母さん」
早めの夕食を終えて、リビングで音楽を聴いていた、お母さんに声をかけた。
「え……? あ、何? 花」
「お父さん、今日も病院?」
「そうじゃないかな。うーん……今の気分的には、こっちな気がしてきた。CURE の『kiss me, kiss me, kiss me』」
何やら深刻に考えていると思ったら、次に聴くCDのことか。
「嫌じゃないの? お母さん」
「何が?」
きょとんとした目で、わたしを見る。
「まさか、お父さんに下心があるとは思ってないけど。亮太郎のお母さんって、綺麗じゃない?」
「まあねえ……お母さんも憧れてたよ、菜乃子ちゃんには。『どうあがいても菜乃子にはなれない』って、お父さんに言われつくして、あきらめたけど」
「お父さん、そんなことまで言ってたの?」
さすがに、いい気持ちしないんじゃない?
「ちょっと控えさせたら? せめて、回数を減らさせるとか。入院生活、まだ続きそうなんだから」
「うん……」
めずらしく、お母さんの歯切れが悪い。
「実は、何日か前に、加瀬くんも電話くれたんだけどね。わたしに気を遣ってくれて。でも、お父さんが行くと菜乃子ちゃんもうれしそうだっていうし、こういうときくらいね。それに」
「それに?」
「多分、菜乃子ちゃんがいなかったら、今のお父さんはいないっていうくらい、お世話になったんだと思うから。そんな菜乃子ちゃんが、弱気になっちゃってるんだもん。お父さんが力になってあげたいと思う気持ち、わかるよ。お父さんのそういう優しいところ、お母さんも好きだしね」
お母さんが寛大って、まんざら間違ってないのかもしれない。今、お母さんのこと、少し見直した。ただ、何か引っかかる。
「あのね、お母さん。わたし、亮太郎に聞いちゃったんだよね」
かまをかけて、聞き出しちゃおうっと。
「えっ? な、何を?」
気持ち、うろたえてる?
「亮太郎のお母さんと、うちのお父さんの関係」
「…………!」
動揺したのか、床に積んであったCDの山を崩してしまった、お母さん。
「き、そ、聞いちゃったの? そう、でも、昔の話だから。遊佐くんと菜乃子ちゃんがつき合ってたのは、大学の初めの頃のことで」
やっぱり、そうだったんだ……と、わたしが反応しようとした、そのときだった。
「あ」
まずいかも。
「どう……わ、遊佐くん?」
話に夢中で、気がつかなかった。半開きだったリビングのドアの前に、お父さんが立っていたことに—————これは、前回以上のタイムングの悪さだ。
「花に何話してるんだよ? しょうもない」
見たこともないくらい、冷たい態度。そんなお父さんに、お母さんがあわてふためく。
「わあ、おかえりなさい、遊佐くん。あ、や、今のはね……!」
「そう、わたしが悪いの。わたしが、しつこく聞いたから」
「ううん、花は悪くな……」
「向こうで、仕事するから」
お母さんを遮って、リビングを後にしてしまう、お父さん。
「遊佐くん、ごはんは?」
消え入るようなお母さんの声が、廊下から聞こえてきたけれど。
「だめだなあ、わたしって。遊佐くんの奥さん失格だね」
やがて、いつもの笑顔で、お母さんが戻ってきた。
「ごめんね、お母さん。わたしのせいで」
今回の原因は、わたしにある。
「大丈夫だよ。こういうこと、何度もあったから。しょうがないよね。菜乃子ちゃんみたいに人の気持ちをわかってあげられればいいんだけど、こればっかりはなあ。お母さん、こんなだもんね」
なんて、気にしていない素振りで、さっきのCDを片付け出したんだれけど。どうも、今までとは……。
「ん? どうしたの? 花」
「ううん。べつに」
まあ、大丈夫か。亮太郎のお母さんがこんなことになる前は、仲良くやってたもんね。
「今度、お母さんも気分転換でもしてきなよ」
「部屋で音楽聴いてるだけで、十分楽しいよ」
「そう?」
うん。そのうち、亮太郎のお母さんの状態が落ち着いたら、何の問題もなくなるはず。そうも思ったんだけれど……お母さん孝行、してあげようか。
「感謝してね、お母さん」
「えっ?」
「何でもなーい」
この前、お母さんも響くんと話したがってたのを思い出したから、簡単な近況を添えて、お母さんの携帯にも電話をしてあげてほしいと、響くんにメールで頼んでおいた。
昔、お父さんと亮太郎のお母さんがつき合ってたという事実には、それほど驚きもしなかったけれど、お母さんにしてみたら、内心複雑なところがあるのも想像できるし。
「お母さん! スープ、吹きこぼれてる」
「え……あ、わっ!」
お父さんは休日出勤中の、土曜日の午後。後ろから声をかけると、お母さんが飛びのいた。
「ありがと、花。ぼーっとしちゃって……わあ、ジャガイモが崩れてる!」
「そんなのはいいけど、床にまでこぼれてるよ」
まあ、この程度のことは、日常茶飯事。
「あ。今、インターホンが鳴ったね。花、出てみてくれる?」
「うん」
モニター画面を確認しに、ソファから立ち上がる。そういえば、この前送った、響くんへのメール。わかったっていう返事をくれたけど、お母さんと話はできたのかな……と、そこで。
「嘘……」
思わず、声を漏らして、目の前の小さな画面を見返した。
「響くんだ」
「ええっ? ひ、響くん?」
床をふいていた、お母さんも声を上げる。
「響くん……! 来てくれたんだ」
数十秒後に響いた、玄関のチャイム。夢じゃない。響くんが来てくれた……!
「電話なんかより、来た方が早いと思って」
ドアを開けたら、本物の響くんが笑っていた。
「璃子は? いる?」
「うん。 今、夕飯作ってる。入って、響くん」
まだ、信じられないような気持ちで、響くんを部屋に通す。
「何やってんの?」
「わわ、本当に、響くんだ……! あ、待って。ここのところだけ、ふいちゃうから。元気だった? 響くん」
「普通に」
なんとも、お母さんらしい再会のしかた。わたしも手伝おうと、フロスを手に取ろうとすると。
「花、ちょっと」
キッチンから離れるように、響くんに視線で促された。お母さんは、床をふく作業に夢中。
「何? 響くん」
「璃子、最近、まともに寝れてないだろ」
お母さんに目をやりながら、さらりと聞かれる。
「お母さんが?」
意外な言葉に、反応がすぐに返せない。
「えーと……夜は、ちゃんとベッドに入ってるし、朝も全然眠そうにしてないけど。いつもと変わらないよ」
「そう。なおさら、悪いな」
微妙な口調でつぶやくと、響くんがわたしを見た。
「花、お願いがある。今日一日、類の世話してやって」
「え……?」
「璃子」
わたしの返事を待たずに、お母さんの名前を呼ぶ、響くん。
「はー、やっと終わった。ごめんね、響くん。せっかく来てくれたのに。とりあえず、お茶を……」
「いいよ、そんなの。映画観に行くから、着替えてきなよ」
「映画?」
わたしもお母さんも、あっ気に取られてる。
「や、遊佐くんも、もうすぐ帰ってくるかもしれないし。それに、なんとなく、気分じゃないというか。あ、映画だったら、花の方が好きだよね? 連れて行ってもらったら?」
「80年代のイギリスの高校生が、CURE とかに憧れて、バンド組む話なんだけど」
「ええっ? 何? それ」
そこで、お母さんの目の色が変わる。CURE といえば、ちょっと前、お母さんが聴いてたバンドだ。
「『In Between Days』とか、使われてるらしいよ」
「み、観たい……! でも、遊佐くんが帰ってきちゃうし」
「お父さんのことなら、心配いらないよ。スープ、もうできてるじゃん。もっとも、今日も食欲ないとか言って、無駄になりそうだけど。お母さんの料理、意地で食べないようにしてるんじゃないかと思うよね」
「え?」
「そっか。じゃあ、行こ? 花も。楽しみ……!」
さっきのわたしの言葉に、一瞬眉をひそめた響くんに気づかないふりをして、お母さんがはしゃぐ。そうなんだよね。お母さんって、こういうときに、お父さんの立場が悪くなるようなことは匂わさない。
「いいよ、わたしは。あんまり興味ないから、待ってる。たまには、お母さんも遊んできなよ。響くんとゆっくり」
わたし、知ってるんだ。そういうお母さんだから、いざというとき、響くんが助けにきてくれるんだって。
「じゃあ、行かせてもらっちゃうよ……?」
「うん。行ってらっしゃい」
準備を終えた、お母さんに手を振る。なんとなく、響くんの顔は見れなかった。
「よかったね。やっと、安心できたね」
亮太郎からの電話を切って、息をついた。退院の日も決まったし、そのあとのリハビリを頑張れば、支障なく生活できるようになるだろうとのお墨付きももらえたらしい、亮太郎のお母さん。これで、お父さんの気持ちも安定するはず。
最初のあのお母さんのしゃべり方や表情だけで、響くんはいろいろ感じとったんだろうな。わたしが思っていたより、お母さんは無理してたということだよね。映画は、とっくに終わった時間。今頃、お母さんと響くん、何してるんだろう?
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
玄関から聞こえてきたのは、お父さんの声。
「亮太郎のお母さんが退院できることは、お父さんも聞いてるよね。今日は食べられるでしょ? お母さんが、手羽元と野菜のスープ作っていってくれたよ」
「ああ」
お父さんが入ってきて、部屋の中を見回す。手には、お母さんの好きなお店のタルトの箱。心配がなくなったとたん、単純というか、何というか、もう……。
「璃子は?」
「出かけてる」
「出かけてるって、もう9時だろ?」
見る見るうちに、取り乱していく、お父さん。
「大丈夫だよ。響くんもいっしょだから」
「響?」
「お母さんのこと心配して、名古屋から今日来てくれたの」
わたしのことは、目にも入らないようす。いつもみたいに体裁をとりつくろおうともしないで、必死に iPhone を操作してる。お母さんの携帯には、何度電話しても、つながらなかったよう。一度、大きく息を吐いたあと、今度は……。
「響……!」
響くんが電話に出たようだ。
「璃子は、一緒か? 今、どこにいるんだよ?」
お母さんのことがそんなに大事なら、最初から、もっと気にかけてあげてればいいのに。だいたい、お母さんと響くんがどうにかなるわけないのに、動揺しちゃって、バカみたい。
「あ? パークハイアットのスイート? 何考えてるんだよ?」
「…………!」
わたしも、息をのんだ。
「おい、響! ふざけんな、響……切りやがった」
「いつもの冗談じゃないの……?」
声が震える。なんか、想像したくない。
「冗談だったら、途中で切らないだろ。行ってくる。新宿の方か」
「お父さ……」
追いかけようとして、パジャマだったのを思い出した。今出かけても、終電には全然間に合う。わたしも着替えると、駅まで全速力で走るのだった。
勢いで駆けつけたものの、行き場がなくて、一人ロビーのソファに座っていたら。
「花?」
「あ……」
響くんに、のぞき込まれていた。
「何してんの? こんなところで。そんなに、璃子が心配だった?」
けげんそうに、眉をひそめている。
「お母さんは?」
「上の階の部屋で、よく寝てるよ」
「お父さんは?」
「一緒にいる。手がかかるね、本当」
少し疲れた表情で、響くんがわたしの隣に座った。
「あの……何してたの?」
「え?」
「このホテルの部屋で。お母さんと、何してたの?」
泣き出したい気持ちを抑えて、質問をくり返す。
「なんか、変な想像してない?」
「そんなの……想像したって、おかしくないじゃない」
こんなときでも、わたしを軽くあしらおうとする響くんが、もどかしかった。
「だったら、どうして、お母さんをこんなところに連れてきたの?」
「そうだね。ごめん、花。心配したに決まってるのに」
数年ぶりに、頭をなでられた。 わたしが成長していくにつれて、響くんにしてもらえることが減っていったっけ。抱っこしてもらえなくなって、手をつないでもらえなくなって、こんなふうに触れてもらうことも、ほとんどなくなっていた。
「まず、有楽町で例の映画観てね。さんざん笑って、泣きつくして」
「それで?」
「そのあと、銀座のインド料理の店で夕食をすませてから、ボーズでスピーカー2個買って、そのままタクシーでここまで来て」
「ボーズのスピーカー?」
しかも、ふたつ。
「そう。順番に好きな曲選んで、いい感じにつないでいく遊び、昔から璃子が好きでね。大音量でできて、楽しかったよ。途中で眠ったから、起こさないようにベッドに運んで。一息ついてたところで、類から電話があった。目が覚めたら、隣に大好きな類がいるってわけ」
「…………」
ここまでされて、お母さんもお父さんも気づかないの? ただの友情で、響くんがここまでするわけがない。響くんは……。
「わたし、心配だよ」
「大丈夫だよ。きっちり、類には反省させておいたから。真面目な話、璃子はうつの一歩手前の状態だったけどね」
「そうじゃない。お母さんもお父さんも、勝手にやってればいい。だって、お母さんは、お父さんを好きで選んだんだもん。そうじゃなくて、心配なのは、響くんの方だよ」
「ああ……」
一瞬、顔を強張らせてから、響くんはバツが悪そうに笑った。否定してくれることも、期待していたのに。やっぱり、今までの響くんのお母さんへの素っ気ない態度は、隠していた愛情の裏返しだったんだ。
「……本当は、お父さんなんかいなければよかったって、思ってる?」
「え? 何言ってるの?」
つい、口から出てきてしまった質問に、不本意そうに反応する、響くん。
「それじゃあ、花に会えなかった」
きっと、それは、響くんの本心だ。お母さんとかお父さんのことは関係なく、わたしを特別に思ってくれている。
「家まで送る? それとも、どっかで遊んでく?」
「遊びに行きたい! 響くんと」
とっさに、声を上げていた。
「ちょうど今、この近くで山口がオールナイトのイベントやってるけど。それか……」
「そこに連れてって」
響くんといられるなら、どこでもいい。どさくさにまぎれて、手をつないだら。
「高校生にもなって」
そう言って、まんざらでもなさそうに笑ってくれた響くんが、ただうれしかったの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます