転生したら公女殿下の下着でした

すぎやま よういち

第1話 蒸発した魂と、五百三十七枚のパンケーキの夢

Ⅰ. 死の風味と布の感触

二〇二五年、福岡県久留米市。


遥斗はるとは、午後三時三十分、西鉄久留米駅前のスクランブル交差点で、五百三十七枚のパンケーキをどうやったら綺麗に積み重ねられるかという、誰にも理解されない哲学的な思考の真っ最中だった。彼の趣味は、「数字と食べ物」を絡めた無意味な思考実験である。今日は、五百三十七という半端な数が、ふと、彼の頭の中に浮かび上がり、それがそのまま、彼の人生の終焉を飾る数となる。


「いや、五百三十七枚となると、もう塔だろう。地盤が大事だ。せめて二百五十グラムのバターと、十リットルのメープルシロップは必要だ」


彼がそんな軽妙でふざけた比喩を思考しているその瞬間、「きぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいい」という、まるで巨大なナイフが分厚いガラス板を上から下まで、ぐぎゃっと引き裂くような、生理的な不快感を極限まで高めた金属音が、彼の鼓膜を突き破った。


その直後、どぉぉぉぉぉぉんという、世界中の三百頭のゾウが同時に腹を空かせ、一斉に砂漠の水を飲み干すかのような、重く響く爆発音が全てを掻き消した。


彼の視界は、一瞬の白、永遠の黒へと転換する。


(あぁ、まずい。この鉄の臭い、八枚切りの食パンを焦がした時の、あの独特の焦げ臭さ……それに、全身が三千度の鉄板の上で、じゅぅぅうううと焼かれているような熱と、まるで十万本の針で同時に刺されるような激しい痛みが、波のように――否、津波のように、五感の全てを呑み込んでいく。)


彼は、自分が大きなトラックに跳ねられたのだと、十秒遅れで理解した。身体は宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる瞬間、彼の意識は古いカセットテープの再生が突然止まったように、かちゃりと音を立てて途切れた。


――転生中――


意識が遠退き、そして戻るまでの間、遥斗は、自分がどこにも存在しない、広大で無機質な空間をふわふわと漂っている感覚に襲われた。無重力のタピオカミルクティーの中に、自分だけが二十四時間放置されたストローになった気分だ。


(……これは、何だ?粘着質な、古いチーズのような匂いがする……。そして、全身を包む、この優しく、それでいてどこか冷たい、絹のような感触……。まるで、最高級の羽毛布団が、巨大な羊羹に包まれているような……)


彼の魂は、古いラジオの周波数を合わせるように、ぶつぶつ、ざぁざぁとノイズを立てながら、ようやく新しい「器」へと定着した。


そして、彼が目覚めて最初に見、そして感じたのは、微かな土の匂いと、古めかしい木造建築の、落ち着いた色合いだった。そして、彼を包むのは、肌理の細かい布の、ひやりとした滑らかな触感。


(……待て。ここ、どこだ?そして、俺の身体……俺、布じゃねぇか?)


目覚めた彼は、自身の「器」が、見紛うことなき布切れであることに気づき、内面でぎゃあああああああああああああああああああああああと絶叫した。単なる「ギャー!」という短い悲鳴では伝わりきらない、「もはや言葉にならないほどのパニック」が、彼の内部でマグマのようにぐつぐつと煮え滾る。


彼は、自分が淡いエクリュ色(生成り色)の、レース飾りが施された、非常に上質な下着へと転生したことを、視覚と、何よりもその「形状」が持つ羞恥心によって、瞬時に理解する。


「よりによって下着かよ!?Tシャツとかタオルで良かっただろ!カレーうどんの染みとかコーヒーのシミとか、そういう現実的な試練で良かっただろうが!」


彼のコミカルなモノローグが、この極限の状況において、彼の正気をどうにか保とうと努めている。心の中では、二つの感情ががっちゃん…がっちゃん…とぶつかり合っていた。一つの感情がひゅう…と風を切り、もう一つの感情がどすんと重く落ちる。その不協和音は、静かにむずむずと胸を掻きむしり、やがてぐつぐつと煮え滾る怒りへと姿を変えていった。


しかし、その怒りも束の間、周囲の状況が彼の意識を現実に引き戻す。ここは、どうやら中世ヨーロッパを思わせる異世界の、豪華な寝室のようだ。机には、異世界特有の光るキノコが、まるでガラス細工のように輝くランプの横に、五つ並べられている。その隣には、インク壺と、鷲の羽のペン。本棚には、十冊の分厚い革表紙の本が積まれており、その中には、「王家の歴史と七つの魔法」と題された古書が見える。


そして、その部屋の主、公女殿下・リゼロットが、ベッドの端に座り、物憂げな表情で窓の外の三日月を見つめている。彼女の青みがかった銀色の髪は、まるで凍てついた滝のように光を反射している。


その時、リゼロットが立ち上がり、侍女に手伝われながら、遥斗(下着)を身につけようとする。


(ぐっ……!来る!来るぞ!)


初めて身につけられるその瞬間、遥斗は全てを直に感じ取ることになった。布地に張り付いたかのような肌の滑らかさ、三十六度五分という、生命の温かさ。小さな鳥の羽ばたきのようにとくとくと響く心臓の鼓動。そして、何よりも、彼女が抱える深い悲しみからくる、身体の微かな震え。



その夜、リゼロットが寝静まった後、遥斗は湿度の高まりと、わずかな鉄の匂いを感知する。それは、彼女が独りで涙を流していることの証拠だった。彼女の内面的な葛藤が、彼女の心の中で、二つの鎖が「じゃらじゃら」と絡まり合う音として、遥斗には聞こえる気がした。


(静かに暮らしたい……俺の願いはそれだったはずなのに。なんで、こんな世界の根幹に関わるような大問題に巻き込まれてるんだよ……)


遥斗は、転生前の単調で穏やかな日常を回想する。大学のレポート作成に追われながらも、十円パンや明太フランスを頬張る幸せな日々。だが、今、彼の「願い」は、形を変えようとしていた。


リゼロットの微かな、しかし確かな震えを感じながら、遥斗の心の中で、硬貨が地面に落ちる「チリン」という小さな音のように、一つの感情が芽生える。


(泣くなよ。俺は、下着だけど……。最前線の下着だけど……守りたい)


下着という最弱の立場から、公女殿下の秘密の騎士へと至る、逆転劇の伏線が、ここに静かに敷かれた。


Ⅱ. 毒の味覚と布の警告

翌日。宮廷の豪華絢爛な晩餐会。


会場の空気は、八種類の香辛料と、五種類のリキュールが混ざり合ったような、甘美で、それでいてどこか毒々しい匂いで満ちていた。壁には、十枚の巨大なタペストリーが飾られ、騎士や貴族たちの六十以上の視線が、リゼロットに集中している。


遥斗(下着)は、リゼロットの肌に密着しているため、彼女の身体の電気信号を、微細なノイズとして常に感知していた。


リゼロットの目の前に、赤い琥珀のような毒入りワインが注がれる。それは、遠くの三つの都市のブドウ畑で採れた、千本のブドウから作られた最高級品だ。


(まずい。なんだこの、血流が鉛のように重くなるような感覚。リゼロットの体温が、まるで冷たい水の中に、熱した鉄を落とした時の「しゅうぅぅ」という音の速度で急降下している……!これは、毒だ!)


遥斗はパニックに陥る。布の彼は、物理的な行動はとれない。思考する。


(どうする?どうする?スキル、魔法?『布の硬化』?いや、ワインを落としても不審がられるだけだ。『布の伸縮』でグラスを割る?いや、周りに誰もいない、密かな場所でなければ……)


彼の内面では、「思考の過程」が、プロの編集者が原稿を高速で校正していくようにカチカチカチカチと音を立てる。


(そうだ、布は肌に密着している!この繊維、静電気のような微細なエネルギーを操れるか?いや、そんな描写はプロットにない。しかし、五感を刺激する比喩で、この危機を伝える手段は……)


遥斗は、「布の弾性」を極限まで高め、リゼロットの皮膚細胞に、微細な刺激を与えるという、物理法則を無視した突飛な比喩のような現象を引き起こした。それは、リゼロットの肌にとって、まるで一万匹の小さなアリが、同時に、そして静かに這い回るかのような「強烈な痒み」として認識された。


リゼロットは、完璧な微笑みを保ったまま、ワイングラスに手を伸ばすが、その指先がぴくりと動く。


(痒い……?なぜ今?この、まるで全身の神経が、乾いたトウモロコシのひげを掴んで引っ張られているような、猛烈な痒みは……)


「ごめんなさい、皆様」


彼女は、百三十キロの鉛の重さを乗せたような声で、完璧な淑女の仮面を被ったまま、立ち上がる。


「わたくし、急に体調が優れなくなりました。大変失礼いたします」


彼女は自室に戻るなり、急いでワインを吐き出した。口の中に広がる、鉄の錆びたような、重くて苦い味。リゼロットの身体は、三日前の夜に焼いたビスケットのようにぐらぐらと震え、胃の奥からごぽっという重い音と共に、赤い液体が流れ出る。


(どくどくと脈打つ心臓。ざぁざぁと耳鳴り。危なかった……なぜ、わたくしは急に身体の異変を感じたの?この、下着の布地の奥から、何かが警告しているような、奇妙な感覚は……)


暗殺は未遂に終わり、リゼロットは「私を守ってくれた“何か”がいる」と、初めて確信する。彼女の瞳は、遠い宇宙の星々のように、二つの光を宿していた。


一方、遥斗は内面で疲労感に打ちひしがれていた。


(ぐたぁぁぁ。布なのに、全身が水に濡れた古いTシャツみたいに重い……。俺の役割が「下着探知機」ってどういうことだよ……!「毒」とか「暗殺」とか、もっとチーズケーキとかエクレアとか、平和な単語で構成される日常が、俺の静かな願いだったはずなのに!)


彼のコミカルなモノローグは、このシリアスな展開の緊張感を一気に緩め、笑いへと転化させる。


Ⅲ. 宰相の画策と孤独な公女

その数日後、宮廷は政略結婚の噂で、まるで巨大な蜂の巣を叩いたかのように騒然となる。


宰相・オルヴァルト。彼は、四百歳の老木のように皺が刻まれた顔に、一ミリの表情も浮かべず、五人の貴族を従えてリゼロットの前に立っていた。


「殿下は、隣国『鉄と塩の王国』の王子と婚姻し、十年の不戦同盟を結ぶべきです」


彼の言葉は、まるで冷たい鎖が石の床を引きずる「じゃりじゃり」という音のように、容赦なくリゼロットの心を締め付ける。


リゼロットは、完璧に、そして冷淡に微笑む。


「ええ、喜んで。わたくしの身体は、十個のネジで組み立てられた、この国のための道具ですから」


その返答に、遥斗は内面で「おい、嘘だろ!」と叫ぶ。彼女の肌の下で、まるで二つの感情が「きゅるきゅる」と音を立てて絡まり合っていることを、彼は直に感じ取っていたからだ。


(その言葉、千枚の紙の裏に書かれた真実とは違う!あんたの心が、千三百メートル下の海溝みたいに深く沈んでいるのがわかる!)


その夜、リゼロットは再び独り、五十本の蝋燭の灯りが揺れる自室で、鉄の臭いのする涙を流す。彼女の心は、三つのガラスの破片のように砕けていた。


(なぜ、わたくしは、愛もない政略結婚を受け入れなければならないの?わたくしの人生は、誰かの食べた後の骨のように、何の価値もないの?)


遥斗は、その微かな震えを感じながら、心の中で五百三十七回、同じ言葉を呟き続ける。


「泣くなよ……俺はここにいる。淡いエクリュ色の騎士が、ここにいる」


その孤独な呟きが、ある晩、奇跡を起こす。


リゼロットが、ふと窓の外の巨大な満月に向かって、誰にともなく、まるで二十年前に忘れた約束を思い出したように、囁いた。


「……誰かいるの?」


その言葉は、静寂を切り裂く、一本の細い絹糸のようだった。


遥斗は、衝動的に、そしてほとんど無意識に、返事をしてしまう。彼の声は、布の繊維を微かに振動させることで、彼女の鼓膜に届く。


「……いるよ。ずっと、あんたの、一番近くに」


リゼロットの顔が、千度の熱湯に触れたように、驚きに歪む。


「えっ……? 今の声……私の幻聴?それとも、疲労からくる幻覚のキノコ?」


こうして、公女殿下と下着という、現実と非現実の融合から生まれた、秘密の会話が、幕を開ける。


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