23、約束

数学の時間になった。桜井先生が教室に入ってきた。

呼び出しを引きずっているのか、どことなく少しだけ元気がない気がする。


いつものように小テストが配られ、先生の号令で始まった。

残りの数分が余った。その間、俺は桜井先生を目で追った。

彼女はみんなのテストの進み具合を一通り見渡した後、窓際に立って秋の空を見上げていた。


太陽の光が、先生の綺麗な横顔を柔らかく照らす。授業中、先生がそんな行動をしたのは初めてのことだった。


俺は、小テストの端に「大丈夫か?」と書いたが、少し考えてから、上からジグザグに線を入れて消した。

翌日、返ってきた小テストに、赤ペンで「100」と「Excellent!」の他に、俺の「大丈夫か?」を消した隣に、「大丈夫」と書いてジグザグで消された赤い返事があった。


教壇に立っている先生を思わず見ると、すぐに目が合った。俺が読むのを待ってくれていたようだった。

俺が笑うと、先生もホッとしたように笑い返してくれた。






昼休みに、二階の校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、桜井先生に気付いた。

校舎に沿って並んでいる側溝の上に乗せられた溝蓋をしきりに気にしている。

渡り廊下の窓を開けて、俺は桜井先生に声を掛けた。


「どした?」

「……チョークホルダー、落としちゃった」

「そっち行くわ」


俺は階段を降りて、桜井先生の所へ向かった。

俺を見て、先生は申し訳なさそうに、でも、どことなく嬉しそうだった。そんな先生の表情に俺も嬉しくなった。


言われた溝蓋を覗くと、落とした一角だけ一番深くなっていて、先生がいつも使っているピンクのチョークホルダーが底に転がっていた。最終の吸い込み口になっているのか、ここだけかなり深い。水が引いていたので助かった。


とりあえず、溝蓋をはずす。


「これ持ってて」


上着を先生に渡して、腕まくりして膝をつく。

地面に顔すれすれまで近付け、いけるかな?と手を伸ばして手探りしていたらギリギリ指先に届いた。


「よっしゃ~っ」


チョークホルダーを見せて笑った俺に、先生も「良かった~っ、ありがとう~っ」と笑う。

その時、頭上から声がした。


「おい、楢崎、桜井先生を困らせるなよ」


担任の増田が、二階を繋ぐ渡り廊下から顔を覗かせていた。


「チョークホルダー、拾ってあげてただけだよ」

「そうか。でも、あんまり桜井先生にちょっかい出すな。受験生なんだから勉強に集中しろよ」

「分かってるよ」


増田が離れていくのを確認してから、俺は思わず呟いた。


「なんか……めちゃくちゃ見張られてる気分だな。二人だけで喋るのはもうやめようか……」

「そうね……」

「もう職員室には行かないことにしたから」

「うん……。でも、本当に分からないところはちゃんと聞くのよ」

「おう」


チョークホルダーを渡すために、先生に手を伸ばす。

先生が手を伸ばして受け取ろうとしたところを、俺はわざと先生の手を掴んだ。先生が驚いた顔をして、そのまま真っ赤になって固まってしまった。


もう一秒だけ、あと一秒だけ、もうあと一秒だけ――


俺は手を離した。


「俺、もう行くわ。それ、返して。すげー大事に持ってくれてたんだな」


桜井先生は、俺の上着を胸にキツく抱き締めるみたいに持ってくれていた。

俺に言われて初めて気付いたようで、先生は真っ赤な顔で慌てて返してくれた。


それから、辺りを見渡して、誰もいないことを確認してから、


「呼び出しになってごめんね……」


と、しょんぼりした。


「ああ、あれか。別に先生が悪いことしたわけじゃないし」

「あと……みんなの前で遼介のこと好きじゃないって言ってごめんね……」

「しょうがないだろ。あんなの気にしてないよ。周りは気付いてないし、バレなかったからラッキーだ」

「あと……」

「まだあんの?」

「遼介のこと、好きじゃないって私言ったのに、遼介のこと傷付けたのに……遼介、大丈夫かって私のこと心配してくれてありがとう……」


そんな風に思っていたのか。

俺からしたら、いつもちょっかいを出してあんな好き放題していた俺に、よくそんな優しい言葉をかけられるなぁと不思議に思う。


「どういたしまして」


と言ってみると、先生は優しく微笑んでくれた。

一気に半径三メートル四方が、お花畑になったかのような、ほんわかした空間に様変わりした。


反対に、俺の心臓が締め付けられたみたいに痛くなる。そんな顔を俺だけに見せられると、離れ難くなる。もう少しだけ先生と話していたい。


「卒業したら、二人でいろんな所に行こう。考えといて」


ずっと俺が思い描いていたことを言うと、先生の顔が見るからに、パッと明るくなった。


「うんっ、遼介は行きたい所ないの?」

「あるよ。もう三つ考えた。一つ目は俺の受かった大学。二つ目はお花見したい。三つ目は先生の家でお家デート。とりあえず、この三つは絶対だから」


ふふふと先生は柔らかく笑った。


「じゃあな」

「うんっ」


しょんぼりしていた先生に、笑顔が戻っていた。

先生の笑顔が見れたことも、卒業後のデートを了解してくれたことも嬉しいが、なにより俺のことで喜んでくれることがめちゃくちゃ嬉しい。


もっと話したい。ずっと先生に触れていたい。


俺は先生にとって、一番近い存在でいたいんだ。

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