第5話 2―2 奇人、漫画を描く

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 全力全開の大疾走。実に十数年ぶりとなった壮絶な追いかけっこに辛くも勝利した俺は、とある橋の下に座り身を隠していた。


『なんとか振り切れたか……いや、腕の可動域の外に出られたのかもしれねぇな。とりあえず、ここで一休みさせてもらうか』


 あの『黒い世界』も、息切れと共に消えていた。つまり今襲われれば、俺に勝ち目はない。こうなった以上、しばらくはここで潜伏するのが最善の策だろう。


 だが、思うように休めない要因が一つ。


「くはぁぁぁぁ楽しかったぁぁぁ! 何なんですかあの腕は⁉ あのマンションの廃墟の方から伸びてきてましたけど、なんかあそこにいるんすか⁉ この地球を狙う侵略者の技とかそんなのっすか⁉ そんであなたは、この世界を一人孤独に守るべく戦う孤高のヒーローとかそんなのっすか⁉」

「あぁ! もううっせぇんだよさっきからぴーちくぱーちく! こちとらお荷物抱えながら走り回って息あがってんだ! 少し静かにしろ!」

「はい! おかげさまで遊園地に来たみたいな気分になれました! あいや、割とガチで死にそうになった感じありましたし、それ以上の体験です! マジあざす! あざぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっす!」


 この不潔女子高生が、ずっとこの調子で喚き散らしている。橋の下というロケーションのせいで、ただでさえ高音でよく響く声が余計に反芻し、俺の鼓膜は震えがまるで止まらない。精神的なダメージはこいつのどでかい独り言の方が大きいくらいだ。


「くっそ……どうしてこんなクソガキの面倒見なきゃいけねぇんだ……」


 視界に色が戻ると、彼女の薄汚さがとてもよくわかる。


 制服の汚れは真っ黒な時からわかっていたが、靴下は何日洗ってないかわからないくらいに黄ばんでいて、たとえ使用済みが好きな変態でも触れないんじゃないかと思うほど匂いがきつい。丸眼鏡のレンズは指紋だらけだし、よく見ると耳にかける部分は踏みつけたのか少し曲がっている。さらに両手には黒い汚れがあって、肌色の部分を見つける方が難しい。


まさに、人型に進化した雑巾だ。だがそんなやつの頭には


――3990000円――


 やはり、この破格の値段が浮かんでいた。


『一体、こいつの価値は何なんだ? 俺の目はこいつの何からこの金額を見ている……?』


 そう考えていた時だった。


「あ、そうだ! 今のうちに!」


 彼女は何か思いついたような表情を見せると、自分の胸元から一冊のメモ用ノートとペンを取り出す。


 そして、さっきまでの行動が嘘のように黙りこくり、何かを凄まじいスピードでノートに何かを書き始めた。


「……? お、おい、何してんだよ」

「今あったことをメモしてます! 一つ残らず忘れないように!」

「メモ?」


 ただ書き留めるにしては手の動きが激しいことに疑問を持ち、俺は彼女の手元を覗き込む。


「――――え」


 次の瞬間、俺は呼吸を忘れた。


 そこには、もう一つの世界が広がっていた。街並みは写真のように精巧に表現され、そこに住む人々はとても表情豊かに、息遣いが感じられるほど繊細に描かれていた。線は滑らかで、かつ力強く動いていた。


 そんな白と黒の世界を、一人の主人公が駆け回っている。背後には無数の黒い腕。飛び掛かってくるその腕を間一髪のところで躱し続け、周囲には腕による被害が発生している。


 そんな怒涛の展開が、彼女の手によって瞬く間にノートに映し出されていく。


「お前……これ漫画か?」

「そうっす! 私、漫画が小さい頃から大好きで! 何か楽しいことだったりすんごいことが起こったら、こうして漫画にして書き残しとくんすよ! 今日のネタはマジ最高だったんで、絶対いい漫画が描けます! 改めてあざっす!」


 話している間にも、彼女の漫画はすでに数ページに及んでいた。恐ろしいほどの速筆である。


「……なるほどな。納得したぜ」


 彼女の脳天の数字。その正体はこれだ。


「? 何がっすか?」

「お前、まだデビューとかしてねぇのか?」

「デビュー? 何のっすか?」

「漫画家に決まってんだろアホか」

「してないっす」

「マジかよ……お前の実力でもデビューできないのか? じゃあ連載作家とかの額は一体いくらなんだ――」

「――だって持ち込みとか応募とか、何もしてないっすもん」

「しろよこのバカ! 今すぐしろ!」


 反射的に彼女の頭をひっぱたきそうになったが、なんとか踏みとどまった俺は、その振り上げた手を彼女のノートに向け、それを取り上げた。


「うわっ! なんすか急に! 返して下さい! まだ途中っすよ!」

「うっせぇ黙れ! こんだけ才能があって応募してねぇだと⁉ 許さねぇぞ絶対に! 世の中にはなぁ、どれだけ頑張ってもこのクオリティの十分の一にすら達せない漫画家志望がいくらでもいるんだ!」

「そんなの知らないっすよ! 才能ないのは私のせいじゃないっすもん!」

「ならなおのこと応募してデビューしろ! 人が命を引き換えにしても欲しい才能持っといて、こんなノートだけに収めとこうなんて卑怯なんだよ! 卑怯! ずる! 人でなし!」

「何で私は説教されなきゃいけないんすか! 早く返して――下さいよっ!」


 彼女はノートを取り返すと、再び漫画の続きを描き始める。今の彼女の意識は、手元の傑作を完成させることでいっぱいのようだった。


「はぁ……まぁわからなくてもいい。とりあえずお前は、今からでも漫画家になれ。お前なら、絶対に面白い漫画が描ける。俺が保証する」

「マジっすか⁉ あざっす!」

「これまで完成させた作品は残してるか? 今日家に帰ったら、すぐそれを持って編集者に行け。来週にでも読み切りの掲載が決まるだろーよ」

「う~ん……」


 太鼓判を押した直後、あれだけ激しかった彼女のペンが急に動きを止める。


「やっぱりなんか違うんすよねぇ」


 そしてそう呟くと、ノートとペンは再び胸ポケットへと戻っていった。


「違う? 何が?」

「えーと、なんか私が求めてるものじゃないというか……もちろん漫画は大好きですし、作品も描いたことあるっす! 尊敬する漫画家さんもたくさんいるっす! でも、どの作品を見ても結局嘘というか、どれだけ面白い漫画でも、現実にはそんな世界はないというか……なんかそれが嫌なんすよ」

「……は、はぁ? そりゃあ漫画なんだから、嘘は嘘だろうよ。んなの気にすることじゃ――」

「――嘘はいらないっす! リアリティとか整合性とか社会性とかそういうのじゃなくて……私は、本当の漫画を描きたいんすよ! 嘘偽りない本当の漫画を!」

「…………」


 やっっばい。言ってるか全然わからない。


「えっと……つまりはその、ドキュメンタリーとかが描きたいのか?」

「違うっす! ドキュメンタリーなんて、偉そうなこと言っておいて実際は赤の他人の自画自賛オナニーでしかないっすから! そんな心底下らない駄作に時間使うくらいなら、自分の人生を漫画にして一人鑑賞会した方がよっぽどマシっす!」

「お、おぉ……お前、友達いないだろ?」

「はい! 私の周りには誰もいないっす! 昨日まで叔父さんと叔母さんがいたんすけど、蒸発しました!」

「だろうな。お前とやってける人間なんて、脳みそにカビが生えた変人じゃねぇと……え?」


 その言葉はあまりにも軽率に、極めて適当に放たれた。何の重みも苦しみもなく、ただただ事実として彼女は口にしたのだろう。


 後頭部を殴られたような感覚に陥り、言葉が詰まる俺。だがその張本人はその雰囲気など意に介さず、話を続ける。


「私、小さい頃から漫画のことしか考えられない人間で、それ以外のことは覚えられないんす。だから気が付いたらお父さんとお母さんは別れてて、お母さんもいつの間にかいなくなってて、いつからか親族の間でたらい回しにされてました」


 テンションは低くない。むしろこれくらいが普通だ。だが明らかに、目に光が宿っていない。俺が彼女の部屋に飛び込んだ時からずっとあった輝きが、今は泥を被ったように黒く濁っている。


「みんな何故か同情してくるんすけど、正直邪魔なんすよね。だって全部嘘っすもん。私の境遇を聞いて勝手に気持ちが落ちて、その気持ちに相応する言葉を言ってるだけっすから。多分やつらのせいなんすよ。私が嘘嫌いになったの。おかげで最近は、漫画ですら十分に楽しめなくなってきちゃってるっす」


 本当に悪意のない、それでいて善意もない、無味乾燥な発言の数々。心の底からどうでもいいんだ。きっと彼女にとって、世の中の全てが空虚なものに見えているんだろう。俺のような、無価値なものに。


「っていうか、私の話はどうでもいいっす! それよりもあなた! あなたのことを教えて下さい! 頭のつむじから指先の水虫まで、包み隠さず!」

「え、あ、あぁ……って! 中年の全員に水虫があると思ってんじゃねぇよ! あと俺の話なんてするわけねぇだろ! 俺はな、この世界で最も生きてる価値のない生ゴミで――」

「――そんなことないっす! あなたは最高っす! だってだってだって! あんな芸当できる人間なんて、あなた以外にいないっすよ! あなたに抱かれて変なのから逃げ回ったあの時間は、これまでのどんな漫画よりも面白かったっす!」


 また顔を近づけて、前のめりになりながらまくしたてる彼女。匂いはきつかったが、その臭みの下に、間違いなく若い女の甘い香りがした。


「あなたこそ漫画家になるべきっす! 私が描く漫画より、嘘だらけの人気漫画より、何よりもあなたの存在が面白すぎっす!」

「えっ、っっ、っえ…………そ、そそ、そう、か?」

「はい! 間違いなく最高傑作っす! 全人類あなたを読むべきっす! それでそれでそれで! 私もあなたを見習って、最高の漫画が描きたいっす! お願いします! どうしたらそんな面白い人生を歩めるのか、ぜひともご教示下さいっす! 先生!」

「せ、先生……俺が、天才の先生……」


 何だ? 何なんだこの高揚感は。初めて『黒い世界』に入った時みたいな全能感が沸き上がってくる。


 冷静になれ。考えろ。今、この大天才少女が俺に教えを求めてきている。これはつまり師匠ポジ。そして漫画家の師匠ポジとはそれすなわち、同じ漫画家に決まってるはずだ。


 俺の人生がもとになった漫画がこれから描かれれば、俺は原作者か? そしてこの子が作画担当? もし、もしその構図が実現すれば、俺は人生初めて夢見た漫画家になれ――


「――っ」


 刹那、俺の脳内は気持ちいい妄想から、突如として出現した危機に支配権を移すこととなる。


 それは、地面より這い出てきた理不尽な無数の暴力――どす黒い無数の腕だった。

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