第2話 1―2 脳みそ、吹っ飛ぶ

 眼前に立つ娘の姿に、私は一切の行動を制されてしまった。


 数か月前に買ってやったキャラもののTシャツは鮮血に血塗られ、お気に入りのズボンはあちこちが破け散り、小学校入学と同時に買ったランドセルは、何か強い力に引きちぎられたかのように、全体の半分ほどが見当たらなかった。


 脳が、理解を拒んでいた。


「っ…………」

「パパァ……タダ、イマァ……」


 娘が何か言っている。いや、娘――らしきものが音を出している。


 それは人の言葉のように聞こえるが違う。音に込められるはずの感情が、思いが、心が微塵も感じられない。その言葉を私に伝えようとする意志が宿っていない。


 ただ知っているから。そういう音が出せるから出しているだけだ。


「っ…………」


 ――縺シv繧薙縺輔v縺ョ薙vw縺スcks縺スcン+;――


 娘らしきものの頭上には、こんな文字が浮かんでいる。文字化けのような不可解な字列は不気味さを強調させ、この不可解な状況を複雑で狂気的なものであると私の意識に刷り込ませてくる。


 そしてこの化け物に相対して十数秒が経ち、やっと私は一つの解に辿り着いた。


『こいつは、私の娘じゃない』


 娘にこんな牙は生えない。人はこんなにも出血したら立ち上がれない。人の目は真っ黒にはならない。娘はこんな中身のない言葉は口にしない。


 こいつは人間ではない。もっと得体のしれない、本能的に人が相容れることのできない何か。


「――ナァンダ、マダコワガラナイカ」

「っっ!」


 その野太い声が聞こえた瞬間、私の中の驚愕は正真正銘の恐怖へと進化した。


 今のは音ではなかった。間違いなく言葉だ。明確な意思を持って、本心でそう思ったからこそ口から飛び出た、本来あるべき形の言葉だ。


 怖がらない? 今そう言ったのか? どういう意味だろう? 娘が言ったのか? 娘じゃないやつが言ったのか? どっちだ?


「チョットコワイ? デモタリナイナ……ジャアアッチイコウ」


 次にやつはそう言うと、住宅地の方へ突如として駆け出した。その子供の体力では絶対に出せない俊敏さと速度、そして両腕を振ることなく下半身の動きのみで走る姿は、完全に人外のそれであった。


「ちょ、ちょっと……」


 予感がした。


 この後、もっと凄い何かが起こる。言葉が出ないとか理解できないとかのレベルを超えた、脳みそが吹き飛ぶほどの感情が沸き上がる何かが。


「待て……待てよ……」


 車を置き、私は家へと戻る。その間、凄まじい破壊音が家の方から鳴り響き、同時に妻の耳をつんざくような絶叫が轟いた。


 破壊された玄関から、家に入る。ドアを開けてリビングに乗り込み、辺りに飛散した真っ赤な絵の具と、妻を見た。


 ――娘らしきものの牙が、妻の顔面に突き刺さっていた。


「グゥエ」


 牙を抜き、今度は潰した右目の残骸を食べる化け物。次に胸元、太ももへと牙を突き刺し、その度に妻の血潮が弾けた。


 ――0円――


 妻の脳天の数字がみるみるうちに下がっていき、やがてぴたりと止まる。化け物が妻から離れると、その肉体は一気に脱力し、新婚の時に買った絨毯を汚した。


「お、おい……おい……」


 呼びかけにならない声が漏れる。だが妻は立ち上がらない。私はその全身の傷からして、それが永遠のものであるとすぐに理解した。


 死んだのだ。妻が。私の家族が。


「ドォダ? コワクナッタカ?」


 妻――死体の上に乗り、あの野太い声で語りかけてくる化け物。問いかけてきた

疑問は、さっきと同じだ。


「……何で…………何で、殺しっ……」


 緊張による全身の震えが喉の動きを鈍らせる。両膝は身体を支えられなくなり、私は弱々しくその場に崩れ落ちる。


 そんな様子を見た化け物は、その真っ赤に染まった口元に三日月を作り、こう続けた。


「コワガッテル……コワガッテルナ。ヨシヨシ、コワガッタコワガッタ」


 最初は小さな微笑み。しかしそれは少しずつ大きくなり、やがて化け物は引き裂かれた娘のはらわたを抱えるようにうずくまる。


「グフフフ……ギャハハハハ! ギャハハハハハハハ! ヤッタヤッタ! コワガッタ! コレデオマエヲ……オマエヲ殺セル! ヤッタヤッタァァァ!」


 巻き起こる大爆笑。そこに存在するのは、一点の曇りもない純粋さと心からの歓喜、そして命への尊厳などまるで意に介さない狂気。混沌の具現化だった。


「お、お前は……お前は、何なんだ……?」

「イワナァ~イ。オマエ、イマカラ死ヌカライワナァ~イ」


 死ぬ。その一言にだけ、どうしてか強い意志がこもっていた気がする。絶対にやり遂げようとする、決意に近い気持ちが。


 もしこの感覚が本当なら、こいつはそろそろ私に襲いかかってくる。そして妻がされたようにあの鋭利な牙をこの身体に突き立て、果肉をかじるかのように美味しそうに、一口ずつ噛みしめながら殺される。


 そしたら私の命は、私の人生は、私の、夢は――。


『――よかったじゃねぇか。これでお前は自由だ』

「――ぇ――――」


 刹那、また声が聞こえた。嬉しそうな、楽しそうな声が鼓膜に届いた。


「な、何だ……何がよかったんだ?」

『おいおいなんだよノリ悪ぃなぁ。お前を祝福してやってんだろーが。自覚しろこのタコ』

「しゅ、祝福? わけわからないこと言うな……家族が、殺されたんだぞ?」

『あぁそうだとも。なんだお前、本気で自覚ねぇのか? はぁ……ったく、クソみてぇな生活が長すぎて脳がバカになってやがる』


 その声はこの危機的状況にもかかわらず、饒舌で愉快な雰囲気を崩さない。そして私も何故か、未知の怪物を前にして、その声に聞き入ってしまっていた。


『お前の邪魔をしてた枷がようやく外せたんだぜ? もっと喜べよ』

「……枷?」

『そうだろ? お前の人生を中身のねぇ空っぽなものにしまったのは、どう考えても家族がいたからだろ? 家族が大切だと思っちまったから、それを守るのが自分の役目だとかなんとか思いやがったから、これまで多くの時間を無駄にしてきた』


 化け物が近づく。娘を乗っ取り、妻を殺した存在が、クモのようにフローリングを這いながら距離を詰めてくる。


 しかし、私はそれに気づかない。


「む、無駄……?」

『お前は普通なんて求めてねぇ。ただ自分の願いが叶うことだけを望み、叶えてやるために生きてきた。それをセンスのねぇゴミどもに邪魔されて、世間体とかいうのに負けて平凡に生きるようになっちまった』


 化け物の腕が、娘のものだったはずの小さな腕が、私の右足首を掴んだ。


『だが、もう欲望を抑える必要はねぇ。こんな壮大なサプライズがあったんだ。これからはお前が勝手に終わったと決めつけた夢を、全部叶えていこうぜ』

「夢……私の夢……」


 子供の身体とは思えない力で押し倒される。化け物の牙から滴る血がスーツに付着する。獲物を捕らえた狩人の眼光が私の首に突き刺さる。


『考えろ。今のお前ならなんでもできる。思いついたことはなんでもだ。思い出せ。お前の夢を、願いを、欲望を!』


 ついに牙が突き立てられる。そして大きく口を開き、振りかぶって勢いよく――


『お前の……なりたかった自分を!』

「なりたかった…………自分」


 ――初めて抱いた夢。それは憧れ――


 ――テレビの中に映る架空の人物たち。世界を守るべく戦う英雄たち――


 ――そんな彼らを圧倒的な力でねじ伏せる、強大な敵――


 ――そうか、私は――


 視界が染まっていく。光彩を刺激する血の赤も、部屋の壁に塗られた白も、家具を構成する木材の茶色も、窓から差し込む太陽の光も、全て漆黒の闇に呑まれていく。


 やがて全ての色が奪われた孤独の中、私は――


 ――俺は、怪物の牙をへし折った。


「グア⁉」


 にやついた顔が一瞬にして驚愕に様変わりし、化け物は素早く数歩下がる。そして自身の折れた牙を手でなぞり、その事実を必死に受け止めようとする。


 が、そんな悠長なことはさせない。


「んな阿保面こいてる場合かよっ――――!」


 両腕による跳躍と共に体制を立て直し、その勢いと全身のバネを利用して即座に飛び込む。そして化け物の脳天を掴むと、全体重をかけてその薄汚れた顔面を地面に叩きつけた。


 さらに追撃でその頭を蹴り上げ、敵の上体を無理やり起こすと、今度はマウントを取るようにのしかかり、その首を一気に締め上げる。


 そこに躊躇なんてものは存在しない。ただ自分の命を狙ってきた存在に、力を見せつけたいという本能だけ。


「あはははははっ! 最高だなぁ! 昔っからこういう悪役になりたかったんだよ! 有無を言わさぬ圧倒的な力で相手をなぎ倒す、最強の悪役になぁ!」

「グゥ……グガッ、ガッ……」

「さぁどうしたよ? さっきまでのへったくそな日本語はもう言えねぇのかぁ⁉ それとも俺を舐め腐ってたことを後悔してんのか⁉ 残念だったなぁ! もう許してやらねぇよ!」


 沸き上がる闘志は俺の中の血液を沸騰させ、その熱は脳内の理性を完全に焼失させる。闘争本能というこれまでの人生で無縁だった意識が覚醒し、俺にこの化け物を殺せと訴えてくる。


 昔から病弱でろくに運動もできなかったはずの俺が、どうして急にこんな腕力と握力が出せているのか、自分でもわからない。だがそんなことはどうでもいい。


 今、俺はあの時の憧れを体現している。挫折と屈服だらけだった人生の中で、初めて夢を叶えている。家族の命を奪ったゴミクズと戦っている。こんなにも気分が高揚することなどあるだろうか。


 ない。ない。ないないないないないないないないないないないないないないないないない。


「あぁ最っっっ高の気分だ! こんなにも楽しいのは生まれて初めてだぜぇぇぇぇぇぇ!」


 興奮の咆哮と共に、握力は一段と強くなる。化け物は最初こそ抵抗を見せていたものの、武器である牙を折られ、体格的にもマウントを覆せるわけがなく、次第に抵抗力を弱めていた。


「グガッ、ガガガガガ――」

「――んあ? なんだおま――っっ!」


 その時、化け物は目と口を開くや否や、娘の人体にあるあらゆる穴からどす黒い液体を放出した。俺は咄嗟にマウントを解いて回避すると、その液体はまるで自我を持った生き物かのように地面を這いずり回り、やがて妻の死体に溶け込んでいった。


 そしてミシミシと全身を軋ませながら、その死体は眼球を黒く塗りつぶし、牙を生やして立ち上がる。潰れていない左目は、娘と同様に真っ黒に染まっていた。


「あぁなるほどな。てめぇの正体はドブか」

「ユルサナイィ……オマエハ、オレニクワレルベキ……ソシテカラダウバッテ、オレハサイキョウニ……」

「何? もしやてめぇ、俺の身体が欲しいのか? んだよ、鼻から狙いは俺だったんじゃねぇか」


 こいつはどういうわけか、真正面から戦えば勝てないのを理解していたらしい。だから家族を襲い、恐怖心を生み出して隙を作ろうとしたようだ。


「俺の力を見誤らなかったことは褒めてやるよ。だがなぁ、俺がてめぇなんかに食われるわけねぇんだ。ましてや、もうビビることだってねぇ」

「ウルサイッ! シネェェェェェェ――――!」


 飛びかかってくる妻だったもの。だが今さっきした宣言通り、俺はその勢いに気圧されることなく敵の牙を回避し、その懐に飛び込む。


「てめぇに俺は殺せねぇよ。なんてったって――」


 ――渾身の右アッパーが化け物の顎を直撃、全力の拳打は頭蓋骨を破壊し、脳内に宿っていたやつの本体は、肉片と共に四方へと弾き飛んでいく。


「てめぇの価値は――この俺以下のマイナスだからなぁぁぁ!」


 そう。この力を引き出してから、視界を黒の世界に捧げてから、俺は見えるようになっていた。

 文字化けしていたはずの、化け物の価値に。

 ―― -20000円 ――


 負の数にまで落ちた無価値以下のクソ。ただいるだけでこの世界にとって悪となる存在に、俺が怖気づくわけがない。


「――――」


 飛び散ったやつの本体は、再び一定の質量を保つべく集結を試みる。だがダメージは入っているようで、その動きが鈍い。


 俺は右腕の拳にこびりついた死体の血を払いながら、この戦いの決着を確信した。


「お前、どうせ宿主となる肉体がなけりゃ生きられねぇんだろ? 寄生生物系の敵ってのは、本体がクソ雑魚だっていうお決まりがあるからな」


 化け物からの反応はない。だが化け物の動きが止まり、腐っていくように灰になっていく光景を見て、この問いへの回答は示された。


「……………………ふぅ」


 勝った。『最強の悪役になりたい』という夢を叶え、そして自分の家族の仇も討ち、さらに自分の人生を縛り付けていた足枷もほどき、華々しい勝利を手に入れた。


 勝利……そう勝利だ。俺はついに自分の人生で意味のあるものを生み出せた。そしてきっとこれからも、この『黒い世界』があれば、俺は夢を叶えられる。


 今からでも遅くない。これまで諦めてきた夢をもう一度目指そう。まずはフィジカル系の夢だ。プロ野球選手とかプロサッカー選手みたいな、軟弱だった俺では夢見るだけ無駄だった憧れを実現させよう。そして散々モテまくって、極上の女抱きまくって、金も稼ぎまくって、それから、それから、それから――


「――――っ」


 その時、段々と視界に色が戻り始めた。


 部屋には肉片と血が散乱し、綺麗にアイロンがけされたスーツは返り血でぐしょぐしょ。妻と一緒に買い揃えた家具も汚れに汚れ、家族だった二人の死体はおおよそ人の原形をとどめていない。


 写真立てに視線を向ける。先月行ったばかりの家族旅行の写真。金はもちろん俺が全部出したし、妻に羽を伸ばして欲しかったから娘の面倒も全て俺が見た。俺はただ疲れただけの旅行だった。もう行きたくないと思ってしまった旅行だった。


 ――でも、美幸(みゆき)と優愛(ゆあ)と並んで撮った写真は、全て写真立てに入れていた。


「ぁ…………」


 この時、俺はやっと思い出した。


 妻の名前は美幸。娘の名前は、優愛だったことを。


「……は?」


 視界がぼやけてくる。だがそれは『黒の世界』ではない。


 透き通っていて濁りなく、暖かくて優しい。でも、何か心を押し潰してくるような、重苦しさがある世界。


 雫が音を立てずに落ちる。だが俺はその雫が意味する感情を、まだ理解できずにいた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 戦いが終わり、戻ってきた静寂。だが周囲に轟いた戦闘の残響は、すでにこの住宅街に住んでいた多くの人の耳に届いてしまっている。


 これ以上の観察は不要だ。一刻も早く対象個体を捕縛しなくては。


 首に垂らしたマイクを、口元に近づける。


「戦闘終了を確認。これより作戦をフェーズ2に移行。標的の捕縛及び無力化のための接触を行う。許可を求む」


 半壊した玄関を見つめながら、私――雪島かおりは言った。

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