エルフ症候群の女性の日記
1335年9月8日
今日は勲章を受けた日。
森の長老たち、若い研究者たち、遠方から来た学徒。
私の手が描き、指が計算し、頭で紡いできた理論が、ここに認められた。
胸の奥が温かい。歓声より、手の動きの喜びを思い出す。
このために私は生きてきた。分野への愛が、私を支えていたのだ。
1335年12月21日
研究室に戻る。
しかし、達成の後に、次は何を目指せばいいのかが、ぼんやりと見えない。
書物は読むものすべて知っている。数値は既に手の内にある。
それでもまだ世界には未知が残されているのに、指が水に刺さらないような、上ずる感覚が時折ある。
1336年6月17日
弟子たちの理論を見守る。理解し、正しいと頷く。
だが、自分で新しいものを生み出す力は弱まりつつある。
何が楽しいか、何が意味を持つのか、次第に分からなくなっていく。
1337年3月9日
球技を始めて十五年。
初めは喜びと興奮があった。勝利も、体の躍動も刺激的だった。
今はただ繰り返すだけ。時間が水の中で静止しているかのようだ。
指が水に触れても、何も得られない感覚が続く。
1340年1月1日
料理を試す。
手先は器用でない。卵焼きだけは上手く焼ける。
それ以上の喜びはない。知識と技術の愛でここまで来たが、手は何もつかめない。
1342年7月16日
人間の街に降りてみた。
文化、言語、服装、習慣――すべて理解不能。
三日で森に戻る。森ならまだ、私の知識は活きる。
街の人々の会話は、符号のようで意味が解けない。
1345年11月19日
若者エルフたちの言葉も、理解が追いつかない。
笑顔も歌も遠く、心に届かない。
自分の手が水に刺さらない感覚は増していく。
森の音だけが、かすかに私を覚えてくれている。
1348年6月30日
大図書館。書棚は無限のように見えるが、読むものすべて知識済み。
研究の愛で支えてきた日々も、手が虚ろに浮く感覚には抗えない。
まだ未開の世界は広大なのに、私ができることは限られている。
1349年2月14日
ある朝気づいた。
私は分野への愛でひたすら走っていただけで、それほど頭脳が抜きんでているわけでもないし、技の幅も少ない方だった。
世界は無限に広がるのに、私ができることは極めて限定的だった。
寿命はあと800年ほど残されている。私は何をすれば正気を保って
生きていける。
1350年1月1日
虚無が広がる。
指が水に触れても、反応がない。
森の風だけが動く。
1350年6月3日
エルフ症候群になり始めているのかもしれないと言われた。
正気を少しだけ意識して保つ。
手の感覚が薄れないよう、呼吸に意識を置く。
時間を止めないように、毎朝の観察を続ける。
1351年9月12日
座る。
立つ。
呼吸。
森の音だけ。
森の声だけ。
1352年2月21日
何もすることがない。
できることもない。
時間が進まない。
指先が水に刺さらない。
1352年12月5日
目を開ける。森がある。風がある。
鳥の声。遠くで若者が笑う。
それを聞くだけ。
1353年7月18日
静止。
風も。
自分も。
1353年12月31日
することなし。
時間なし。
指なし。
手なし。
1354年3月15日
静か。
空。
水。
森。
息。
1354年12月31日
風。
無。
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