ゴエティアと七十二柱の悪魔 ~偽りの魔術師は辺境スローライフを楽しむのか?~

くろねこ教授

第1話 ソロモン家の末弟

 ひび割れた石畳、苔むした噴水、そして、かつての栄華を虚しく語るかのように傾いた屋敷。それが、僕が生まれ育った家の全てだった。没落貴族ソロモン家。その名は、今や近隣の笑い草でしかない。

 僕の名前はエラン・ソロモン、ソロモン家の五男。


 朝の食卓はいつものように冷え切っていた。長いテーブルの最下座に腰掛けた僕の存在など無いかのように、兄たちの醜悪な会話だけが空間を満たしていく。


「父上、例の鉱山はさっさと売るべきです。あんな土地、持っていても税金の無駄だ」


 尊大な声は長兄ガレン。家の財政が火の車であることなど意にも介さず、今日も金の刺繍が施された上着を見せびらかしている。


「しかしな、ガレン。あれはソロモン家に代々伝わる土地だぞ」


 僕の父親にあたるアルドゥスは反論している。してはいるが、その声には力がなく、家長としての威厳など一欠けらもない。


「伝統、伝統と……そんなものに拘るから、我が家はいつまでも三流貴族なのです! それに、汚れた血が混じってからというもの、この家の運気も傾いたようですしねぇ」


 次兄ライルの嫌らしい笑みと、ねっとりとした視線が僕を射抜く。

 彼が汚れた血と呼んでいるのは、数年前に亡くなった僕の母親を指していた。彼女は一般庶民の出ではあったが、魔法使いとしての能力を認められていた。その能力が欲しいため、父は求婚したと聞いている。

 しかし、その母ももういない。僕が銀色の髪と青い瞳という母の外見を色濃く受け継いでいることは、この家では罪と同義だった。


「おい、エラン」

 三男のディランが、パンくずを僕に向かって弾いた。


「お前の母親が持ち込んだ厄災のせいで俺たちがどれだけ苦労しているか、わかっているのか?」


 僕は何も答えず、ただ静かにスープを口に運んだ。僕の沈黙が気に食わなかったのか、末兄のケインが甲高い声で嘲笑する。

「まるで出来損ないの人形だな! 母親そっくりで気味が悪い」


 兄たちの言葉は、もはや僕の心を傷つけることはない。ただの騒音として、頭蓋骨を通り過ぎていくだけだ。


 食事という名の拷問を終え、僕は逃げるように自室へと戻った。屋敷で最も陽当たりの悪い、物置同然の部屋。だが、ここだけが僕の聖域だった。


 扉を閉め、鍵をかける。その瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。


「おかえりなさい、エラン」


 鈴を転がすような、少女の声が僕を迎える。

 一人の少女がベッドに腰掛けていた。床まで届きそうな、艶やかな黒髪。暗闇でさえ光を吸い込んで輝く、黄金の瞳。黒いドレスは簡素で、飾りの少ないものだが、彼女の白い肌を際立たせている。

 少女の黒髪の間からぴょこんと覗く、愛らしい猫の耳が動いている。


「ただいま、バエル」


 僕がベッドに近づくと、彼女は黙って腕を広げた。僕はその華奢な体に吸い寄せられるように顔をうずめる。

 甘い香り。

 少し前まで僕の心を埋めていた、冷たく重苦しいものが、温かく溶けていく。



「今日も酷かったみたいね。あいつらの声、ここまで聞こえてきたわよ」

 バエルは僕の銀髪を優しく梳きながら、冷ややかに言った。


「いつものことだよ」

「……ねえ、エラン。もういいんじゃない? あんな奴ら、私が今すぐ消してあげましょうか?」


 見上げると、金色の瞳にはぞっとするほど冷たい光が宿っていた。それがただの脅しではないことを僕は知っていた。

 母の遺品である魔導書『ゴエティア』。

 その筆頭に記された王の名を持つ、僕の唯一の味方。


「駄目だ! まだ駄目だよ、バエル。まだ目立つわけにはいかない」

「あなたはいつもそう言うわね」


 バエルは不満そうに唇を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに、僕の頭をそっと自分の膝の上に乗せ、子守唄でも歌うかのように優しく撫で始める。その温もりが、兄たちによってささくれ立った僕の心を修復していく。もしかしたら、この瞬間のために僕は生きているのかもしれない。


 その時だった。


 ドンッ!!


 凄まじい音と共に、部屋の扉が乱暴に蹴破られた。

「おいエラン! 部屋に女を連れ込んでるのか!?」


 血相を変えて飛び込んできたのは、次兄のライルだった。その目は獲物を探す獣のように、部屋の中を見回している。同じ男として恥ずかしくなるくらいに、その目は男性の欲望に満ちていた。


 彼の目に映ったのは、信じられない光景だったはずだ。

 そこには、ベッドの上で驚いたように兄を見上げる僕と、その傍らで「にゃあ?」と不思議そうに小首を傾げる、一匹の美しい黒猫がいるだけだったのだから。


「……なんだ、猫か」


 ライルは拍子抜けしたように悪態をつく。

「ちっ、女の声が聞こえたと思ったんだがな……。まあいい。おいエラン、お前のその気味の悪い猫も、そろそろ処分したらどうだ?」


 そう言い捨てると、ライルは壊れた扉をそのままに、忌々しげに部屋を出て行った。


 嵐が去った後、僕の膝の上で、黒猫がゆらりと姿を変える。再び現れたバエルは、心底不愉快そうに眉をひそめていた。


「最低ね。今度やったら、本当に八つ裂きにしてやるわ」

「……ありがとう、バエル。助かったよ」


 僕は壊された扉を見つめた。僕の聖域は、いとも容易く土足で踏み荒らされた。そろそろ、限界だった。


「バエル」

 僕は膝の上の彼女に向き直り、静かに告げた。


「準備をしよう。この家を出る」

 僕の言葉に、バエルの金色の瞳が歓喜に満ちた光で輝く。


「そう、ようやくなのね、私のエラン」

 復讐の始まりを告げるような声。彼女は妖艶に微笑んでいた。


「母さんは、病死なんかじゃなかった。そうだよね、バエル?」

 僕は静かに尋ねた。


 猫の耳、金色の瞳の少女から激しい憎悪の炎が吹きあがっていた。

「ええ。もちろんよ。あの忌まわしい連中が……!」

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