灰都ノワール ― 二秒先の死線 ―

@SilentDean

1話「転移刑事」

"目が覚めたら、胸に硬貨が埋まっていた。

冷たい。心臓が一度だけ強く脈打ち、金属の縁が肋骨に食い込む感触があった。命が削れていると、理屈ではなく本能で分かった。


鼻腔の奥に、消毒薬と錆びた鉄の匂いがこびりついている。血と、湿った蒸気の匂いも混じっていた。視線を上げると、煤で黒ずんだ天井がゆっくりと回っている。

ここは署の仮眠室じゃない。

俺は軋む手術台の上で、上半身を起こした。


「あら、起きるの。思ったより早いね」


薄汚れたカーテンの向こうから、女の声がした。影が揺れる。狐のものらしい、尖った耳の影。

「ここは施療院。臓器を抜かれる前で良かった。あんた、運がいい」

運は尽きたはずだ。記憶の最後は――灼熱の爆風。轟音。無線のノイズに混じる、相棒の、俺を呼ぶ声。手を伸ばす前に、アスファルトが足元から消えた。


次に目を開けたら、この街だった。窓の外は、見たこともない太い配管が縦横に走り、街灯の光は濃い霧のような蒸気に滲んでいる。遠くで、甲高い警笛が鳴り響いていた。

そのとき、胸の硬貨が小さく震えた。


――残り10回。


声がした。男とも女ともつかない、乾いてひび割れた声。頭に響くのではない。胸骨の奥で、金属そのものが鳴っているような音だ。


「俺は数えるだけ。嘘はつかない」と、硬貨は言った。

「名前は?」

カーテンの向こうから、影が問う。

「朝比奈。……刑事だった」

「ケージ?」

「人間の職業だ。嘘を見抜いて、銃を撃つ。たまに、正義なんてものを信じてみる」


その言葉を合図にしたように、カーテンが勢いよく開かれた。白衣を着た大柄な男が、メスを握って飛び込んでくる。血走った眼だけが、笑っていなかった。

考えるより早く、俺は指で胸の硬貨を弾いていた。意識したわけじゃない。ただ、そうするべきだと感じた。

ぞわり、と冷気が指先から腕を駆け上がり、首筋を撫でた。


世界が、薄いガラスを一枚挟んだように二重に見えた。


――二秒先が、視える。


男が振り下ろすメスの軌跡が、淡い光の線となって、俺の脇腹があったはずの空間を通り過ぎ、手術台のシーツに突き刺さる。

俺は線の外へ、ただ一歩、足をずらす。

間髪入れず、白衣の男の肘が薙ぎ払われる。その動きも光の線で見えている。肩で受け流し、相手の手首を掴んでひねり上げる。メスが手から離れ、床に落ちる位置も正確に視えていた。落ちてくる金属を、すかさず踏みつける。

「ぐあっ!」

踵に冷たい金属の感触。白衣の男が悲鳴を上げ、俺はその隙に男のポケットから鍵束を抜き取っていた。


瞬間、二重だった視界が一つに戻る。同時に、吐く息が真っ白に凍った。

胸の硬貨が、また鳴る。


――残り9回。


「……それ、禁術だよ」

カーテンの側に立っていた狐耳の女が、初めて姿を現して呟いた。年の頃は二十代か。亜麻色の髪に、ぴくりと動く耳。古びたジャケットを着込んでいる。

「代償は?」俺は短く訊いた。

「体温。使いすぎれば凍って死ぬ。単純でしょ」

彼女は俺の、微かに震える指先を一瞥し、興味なさそうに肩を竦めた。

「名前はシエナ。情報屋。ここから出たいなら、貸し一つ。請求は早いよ」


廊下は薄暗く、長い。床には薬品を運んだらしい車輪の跡が残り、壁には意味の分からない祈りの札がいくつも貼られている。角を曲がった途端、複数の靴音が急速に近づいてくるのが聞こえた。憲兵だ。この街の、警官のようなものか。

俺は腰に手をやったが、そこに愛用の拳銃はなかった。代わりに目に入ったのは、壁際に置かれた工具箱と、医療用の高圧空気銃。麻酔針でも撃ち出すためのものだろう。

二秒先、靴音の主たちが角の向こうから現れ、この病室のドアを蹴破る未来が視えた。

俺は空気銃を拾い上げ、構える。狙うのは、ドアが開くであろう空間。まだ何もない、ただの空間だ。

光の線が、そこに収束していく。


引き金を、引いた。


ドアが弾け飛ぶのと、圧縮空気が炸裂する音は、ほぼ同時だった。

金属が何かにぶつかる鈍い音。男のうめき声。


――残り8回。


息を吐くたびに、白い霧が生まれては消える。指先の感覚が、少しずつ鈍くなっていた。

俺はシエナの顔を見る。彼女は表情を変えないまま、静かに頷いた。

「ようこそ、灰都ヴァルツへ。刑事さん」

彼女の目が、初めて俺を“獲物”としてではなく、“仕事相手”として見た。

「依頼がある。臓器じゃない。人を探してほしい」


依頼。仕事。生きるための、理由。

胸の硬貨が、静かに、そして冷たく光っていた。"

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