第5話 前世の私は現世の私を望んでいたのかもしれない

――――エリーサベト・モルベリの前世である岩住 咲茉いわずみ えまは、洗面台の鏡を見つめて、自分の頬を確かめる。今日の自分は化粧のノリが悪いとか、髪がいくら整えても納得のいく髪型にならない。ヘアピンをつけて固定しても、厚くなった髪がふわっと浮いてくる。長くなった前髪を整えるだけで億劫になる。おしゃれしようと挑戦しても結局、いつも通りのポニーテールになってしまう。スマホのアラームが鳴った。時間把握ができない咲茉は、アラームを止めて腕時計をはめる。


 一人暮らしを始めて5年が経過したアパートの重いドアを開けた。外の風は柔らかく優しく頬を撫でた。


 一歩外に出た瞬間にハイヒールの音が響いた。


―――「先輩、これで大丈夫ですか?」


 とある不動産会社に勤める岩住 咲茉は、新人を育てるメンターとともに営業事務としての仕事を任されていた。


「ちょっと待って。今、みんなにコーヒー配ってから話聞くから」


 白い紙コップを熱くならないカラフルなコップホルダーに入れて、インスタントコーヒーの粉を人数分を入れ始める。後輩2人と同期1人、部長の1人で全部で4人分と今日の出勤人数を数えて確かめた。これで大丈夫かと思っていた。


「先輩! 自分の分、忘れてますよ」

「あ、そうだった……でも、大丈夫。あとでゆっくり頂くから」

「そんな、忙しいのに飲む暇無くなりますよ。僕が入れておきますから」


 パーマかかった茶髪が眼鏡にかかりそうになる土倉 大和とくら やまとがにこっと微笑んだ。新人でも立ち回りをよく見ていて役に立つなと感じる。それを一部始終見ていた同期の汐原 成美しおばら なるみが席から立ち上がり近づいてきた。


「岩住先輩~、みんなで一緒に飲みましょうよぉ。一人でストイックになるの良くないですよ」

「成美、冗談はよしてよ。私は成美の先輩なんかじゃないわ」


 給湯室の前に立ち、コーヒーをそれぞれ配り始める。そう言いながらも手伝いに来てくれた。新人を世話しながらもお茶出しをしなければならない今日はお茶出し当番でもあった。同期であることもあってか年齢は違えど、仕事のことならなんでも相談できるのは汐原 成美くらいだった。心のやすらぎでもある。仕事もプライベートも男と付き合うことより、女子と飲み会することの方が多かった。恋愛として付き合うのもこの前世の頃から女子でいいとさえ思っていた。


 それぞれのデスクにコーヒーを配り終えると、成美に肩をポンと軽く叩かれた。


「お疲れ様。今日もゆるくやりなよ?」

「うん、ありがとう……さぁ、やろうか、土倉くん」


 仕事のノルマタスクをこなすこと、お客様対応でクレームがあれば愛のある言葉で丁寧に接すること、スタッフ同士の関係性を目を光らせてトラブル回避をすること、いろんな重圧で身体も心も押しつぶされそうになっていた。


 そんな時、婦人系の健康診断で腫瘍が見つかり、放射線治療をしなくてはならなくなった。命を削ってまで仕事に集中したこともあった。ガンと診断されてから、そう長くはなかった。

 仕事もプライベートも親の期待に応えることもできないまま、この世を去った。

 

 前世の生き方はあっけなかったと思う。


 ごくごく普通の会社の犬になり、ノルマ営業をめざした。母に孫はまだかといつも急かされて、恋愛は女性にばかり目が行く。理解されないことにストレスも感じることもあった。見た目は自分自身も男受けの女性らしい恰好でまさか男性が嫌いには見えないと言われることもあった。

 

 次、生まれ変わったら、どんな状況にあろうとも幸せになりたいと切に願った。


 前世で夢中にやっていた大人気の乙女ゲーム「ラブきゅん王子」の中に出てくる悪役令嬢エリーサベト・モルベリになれるとは思わなかった。妹の結愛ゆのに勧められてゲームをやったのがきっかけだった。出てくる王子がどれもカッコいいとは感じていたが、悪役令嬢のエリーサベト・モルベリが可愛いと一目惚れしたくらいだ。さらにパトリック・フェリデンの方がもっと好きで本気で付き合いたいとさえ思っていた。まさか、それが転生してなれるとは夢じゃないかとさえ感じてしまう。


――――エリーサベト・モルベリ現世のオスタワ王国にて


 先日、エリーサベト・モルベリが懺悔室で相談したことが行方不明事件に発展したことでたちまち噂になり、みんなが変な目で見ることが多くなった。相談内容は守秘義務の問題で広がることは無かったが、一体そうなってしまったのかと考えるものが多かった。悪いことをしていたわけじゃないのにと心のモヤモヤは消えない。


「さーて、今日はしっかり監視させていただきますからね」

「やだなぁ、ほんとにやだなぁ。やめてほしいなぁ」

「いいから、行きますよ。今日は乗馬で指導いただきますからね!」


 後ろ首根っこをズルズルと引きずられて、今日もザンドラ・ピーロネンに花嫁修業とマナー指導が始まる。いつになったら、心が落ち着くのかわからない。無理にやらされているこの長い時間が苦痛で仕方ない。


(逃げたい、逃げたい。こんなのやだ。前よりスパルタになっているし!)


 そこへ乗馬を楽しみに来たパトリック・フェリデンとフェリシア・リドマン侯爵が少し遠くで通りかかり、笑顔で手を振ってきた。エリーサベト・モルベリは気づいて大きく手を振ると、横で怖い顔で睨むザンドラ・ピーロネンの目が光った。おびえてしゅんと小さくなるエリーサベト・モルベリだった。


 今は、厳しい訓練に耐えるしかないようだ。彼女の担当雄馬マックスは、ひひーんと鳴いて喜んでいた。





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