AOI BRUE SKY

page.1 ランチタイム、特等席、日課


 遠慮がちに吹き込む春風が、肩上で切り揃えられた毛先を揺らしていく。髪を撫で付けようとして、思ったよりも手前でストンと指先が落ちてようやく、そういえば髪を切ったんだったと思い出した。


 それに思わずくすりと笑っていると、今度はまるで挨拶でもするかのように、先に小さなストーンの付いたイヤリングを風が揺らしていく。


 窓際に座っている私―― 青崎 伊代あおさき いよ は、慣れないくすぐったさに小さく身を捩った。



(もうすぐ春ですね)



 たまにはいいかもと、そんな風に口ずさみながら静かに手を合わせ、昼間の喧噪をBGMにトートバッグから一冊の本を取り出す。ではそろそろ、日課の読書に精を出すことにしようかと。




 ランチタイムはいつも賑やか。豊富なメニューもさることながら、しっかりと計算し尽くされた栄養バランスで、社食が非常に充実しているからだ。


 外勤の中には、わざわざ昼食を食べに戻ってくる人もいるほど。一般開放の中には常連客や厨房に弟子入り志願する人までいるという。


 新入社員受け入れの準備や研修生の指導、部署異動など、会社全体が慌ただしくしている中、いつにもまして食堂は大盛況。恐らく皆、日替わり定食目当て。何せ今日は、一番人気の鯖の竜田揚げ定食だから。



「青崎ちゃん」



 食堂の窓側。奥から二つ目の特等席でひと足先に、その一番人気を平らげた私に声をかけてきたのは、同期の 黒瀬 雅くろせ みやび


 目鼻立ちがとても整っており、道行く人は必ず振り返るという。見ず知らずの人から何度「お美しいですね」と言われているのを耳にしたことか。


 スタイルもよく、副業で女優やモデルをしていると言われても誰もが納得するだろう。寧ろ存分にしてくれと言いたい。写真集を出せば絶対に馬鹿売れすること間違いなしだから。



「今日は何読んでるの?」


「【青い空あおいそら】」


「ほんとその本好きだねー」



 ここで「また? 何度も読んでて飽きない?」などと言うのが、きっと普通の反応なのだろう。現に過去にも何度か同じような質問をされたことがあるが、皆揃って同じように苦笑いを返すだけ。それ以上の会話が膨らむことは、今まで一度だってなかった。


 勿論自分の引っ込み思案や人見知りが原因だということはわかっていたが、性格というものはそう簡単に直せるものではない。それは、他でもない私自身が一番よくわかっている。


 けれど黒瀬は、いつもそう言って笑って、茶化すことなく肯定してくれる。だから私も、彼女には唯一この特等席への立ち入りを容認していた。


 変に気を遣わなくてよくて、会話をしていても本を読む邪魔にならない空気感。安らぎさえ覚える彼女の傍は、変わり者の私にとっては大変落ち着く場所であり貴重な時間であった。



 真面目で頑固で、真剣に話を聞いてくれる人。人の好きなものを決して馬鹿にしない優しい人。あと、ほんのちょっぴり運がない人。


 それが私の知る、『黒瀬 雅』という人――。




「青崎ちゃん。占いに興味ある?」



 まるで写真集の表紙のように、組んだ両手の甲に顎を乗せながら黒瀬は小首を傾げた。


 唐突な質問を投げ掛けてきた彼女に一度だけ目線を上げてから、私はすぐに手元の本へと視線を落とす。



「黒瀬ちゃんは興味があるの?」


「全くない」


(そうでしょうよ)



 いつもあなた、我が道を突き進んでいらっしゃいますから。とは、敢えて口には出さないでおく。



「興味がないわけじゃないけど、信じてはないかな」



 だから、少しだけ心配だった。彼女が他人を頼ろうとすること自体珍しいことだったから。



「当たるってめっぽう評判なんだけど」


「何か悩み事?」


「悩み事というか、今はもう占いにすら縋りたい」


(目が死んどる)



 猪突猛進型で、こうと決めたら梃子でも動かない。そんな彼女がこの提案を譲るつもりなどないことは、初めからわかっていた。


 わざとらしくため息をつきながら、うるうると目を潤ませる彼女を目尻に、窓の外の空へゆっくりと視線を向ける。……今日も明るい空に、思わず目を細めた。



「いいよ」


「え。いいの?」


「切羽詰まってる黒瀬ちゃん見てるの楽しいしね」


「青崎ちゃんって、意外と黒いよね」


「お褒めいただきありがとう」


「あたし、そんな青崎ちゃんも好きだなー」



 嬉しそうに喜んでくれる彼女にほっと安堵していたのも束の間。「そうと決まれば善は急げ! 今すぐ行こう!」と、黒瀬は箸を持つ私の手首をがしっと掴んで立ち上がった。



「く、黒瀬ちゃん? 行くってどこへ?」


「占いだよ占い! 青崎ちゃん、いいよって言ったじゃん」


「た、確かに言ったけど、そういうのって普通夜に行くものじゃない?」


「ううん昼」



 返ってきた単調な返事と真顔。そして死んだ魚のような目。


 拒否権もなければ抵抗することもままならないまま、私の体は猪突猛進黒瀬ちゃんに引きずり回されることとなった。



 ――――――…………

 ――――……



「ね、ねえ黒瀬ちゃん私、会社の中に占い師さんがいるとは、到底思えないんだけどなあ……」



 悪びれた様子もなく、広報部、人事部、総務部と連れ回され、本社ビルの中を殆ど見て回ったんじゃないかと思い始めた頃。安請け合いをしたことを酷く後悔していた私の体が悲鳴を上げるのと同時、休憩時間がもうすぐ終わろうとしていた。



「あれ? 言ってなかったっけ。占ってくれるのうちの社員なんだよ」


「は、はじめて、ききました、けど」


「そうだった? ごめんごめん。てか青崎ちゃん意外と体力あるんだね。雅感激」


「……今から恐怖しかない」


「どうして?」


「絶対、忘れた頃に筋肉痛やって来るよこれ……」


「あはは」



 がくがくと膝を震わせる私に大爆笑を捧げた黒瀬は、「ごめんごめん、あたしが悪かった」と、近くにある自販機を指差す。



「何がいい? 振り回しちゃったお詫び」


「んー、緑茶か。でもスポーツ飲料とかでもよさそう」


「何でもいいよー。次はもうちょっと早めに誘うね」


「ねえ黒瀬ちゃん。あんまり反省してないでしょ」


「最後の方はただ走ってたんだよねー。青崎ちゃん、どこまでも付き合ってくれるからー」


「まさかの全然反省してない」



 加えてそこまで純粋な笑顔を向けられてしまっては、五つも年上の私は流石に怒るに怒れなかった。


 これではただ休憩時間にマラソンしただけじゃないかと、苦笑を浮かべながら遠慮なくスポーツ飲料のボタンを押そうとした時だった。後ろから「すみません」と、どこか苛立った様子で声をかけられたのは。おかげで、飲めもしない缶コーヒーを押してしまった。


 少し恨めがましく振り返ったそこに立っていたのは、少年の面影が残る、眼鏡を掛けた若い男性。全体的に色素が薄く、どこか儚げな印象だった。



「後ろがつかえているんですけど。どれだけ待たせるおつもりですか。さっさと決めてください。決められないなら替わってください」



 前言撤回。はっきり容赦ないこの人。



「あん? 若造が、年上に舐めた口ききやがって。どこの所属だこら」


「く、黒瀬ちゃん、どうどう」



 さっきまであんなに嬉しそうだったのに。なんだかんだと、占い師が見つからなかったことを根に持っているらしい。


 すみませんでしたと一言謝り自販機の前を譲ると、その若い男性は、私がさっき間違って買ってしまった缶コーヒーのボタンをぽちりと押した。



「何か」


「あ。えっと」



 じっと見ていたことがバレてしまい、さて何と言い訳をしたものかと考えていた時だった。ビル中に『くろせえええーッ!!』と怒鳴り声が響いたのは。



「へっ、編集長?!」


『どこをほっつき回っとるか! さっさと戻って来んかあー!』


「へっ、へいっ! ただいま黒瀬戻りまあーすっ!」


『打ち合わせに一秒でも遅れてみろ! 今度こそ本気でクビにするからな!』



「それだけはご勘弁をぉおぉおー!!」と、社内放送に大きな声で返事をした黒瀬は、先程まであれだけ全力疾走していた疲れなど全く見せないまま、超特急でこの場を後にした。



「終始うるさい方ですね」


「あはは。すみません。でも悪い子ではないので」


「存分に周りへ迷惑をかけていても悪くはないと」


「それについては弁明する余地もなく」



 すまない黒瀬ちゃん……と心の中で謝っていると、「それで? 何ですか」と男性から声がかかる。


 先程の大声に記憶を吹き飛ばされた私が、苦笑とともに何でしたっけと聞き返すと、男性からは大きなため息が落ちる。



「何かを言いかけられていたので」


「……? ああ! そうでしたね」



 そうして両手を打った私は、手に持っていた缶コーヒーを、そっと彼の前に差し出した。



「もしよろしければどうぞ。お嫌いでなければ」


「……嫌いでは、ありませんが」



 存分に「何故?」と訝しむ彼に、流石にただ押し間違えたからと本当のことを言うのは憚られたので。



「先程のお詫びです。ちょっと、ご迷惑をおかけしてしまったので」



 それでは失礼しますと一礼をしたあと、今度黒瀬に返すコーヒー代の小銭を用意しながら、私はさっさとその場を後にしようとした。



「……――に」



 けれど、何かを言われたような気がして慌てて振り返る。案の定、先程の彼がこちらをじっと見ていた。



「えっと?」


「色に、お気を付けください」


「色?」


「そう出ています。あなたの場合そのままの意味で」



 それだけ言い終えると「これ、ありがとうございました」と、その人は一礼してこの場を去って行った。


 まさか、お礼を言われると思っていなくて、思わず呆気にとられていたのも束の間のこと。



「あ。もしかしなくとも、さっきの人が黒瀬ちゃんの捜していた占い師さんなのでは……」



 それに気が付いたのは、彼の姿が見えなくなった後だった。



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