閑話4-1 父の言葉、修羅の萌芽
【モードレッド・視点】
月明かりだけが、僕の金色の髪を白銀に照らしていた。
拠点としている山奥の古城。
その中庭にある石畳の訓練場は、夜の静寂に支配されている。
僕の体から立ち上る湯気と、訓練でついた無数の傷から滲む血の匂いだけが、僕がまだ生きていることを証明していた。
キン、と。
手にした双剣が澄んだ残響音を立て、月光を反射して冷たい軌跡を描く。
僕は一人、狂気的とも言える集中力で、何度も、何度も、同じ剣技を繰り返していた。
(違う。まだ足りない。この程度では、あの男には届かない)
脳裏に焼き付いて離れないのは、数日前の、あの遺跡での光景。
ボールス・ロックウェルという、生ける伝説の圧倒的な力。
そして、その男に守られ、何も知らずに僕を見ていた、アーサーの顔。
(あと何回だ。あと何回、この剣を振れば、あの屈辱を拭える?
遺跡で、完膚なきまでに叩きのめされた、この無力な僕を……)
ボールスの「貴様では、まだ話にならん」という、侮蔑とも憐れみとも取れる言葉が、耳の奥で木霊する。
悔しさが、胃の腑を焼くようだった。
剣を振るうたびに、右肩の古傷が痛みを訴える。
左腕には、今朝の訓練でついた打撲の痣が、紫色に広がっている。
右手の平は、剣の柄を握りすぎて皮が剥け、血が滲んでいた。
だが、その痛みすら、僕にとっては心地よかった。
この痛みこそが、僕がまだ生きていることの証明であり、そして、まだ戦えることの証でもあるのだから。
僕は、首に巻いた血のように赤いスカーフを、無意識に触れた。
これは、7年前、妹リリアが僕にくれた、最後のプレゼントだ。
「お兄ちゃん、騎士団の試験頑張ってね」
あの日、リリアは笑顔でこのスカーフを僕の首に巻いてくれた。
「お兄ちゃんが騎士になったら、村のみんなを守ってあげて」
「そしたら、もう誰も怖がらないよ。お兄ちゃんは、本当のヒーローになれるんだよ」
その温もりは、もう二度と戻ってこない。
だが、このスカーフだけが、僕の心を、完全な闇に沈めることから守ってくれている。
その時、背後の影が、人の形を成した。
足音は、ない。だが、その存在感は、石畳を軋ませるほどに重い。
月光に照らし出されたその巨躯は、闇色のコートを纏い、口元は無機質なマスクで覆われている。
かつて英雄と呼ばれた面影はあるが、腕に走る禍々しい紫の紋様が、彼が人ならざる道を歩んでいることを物語っていた。
「また、眠らずに振っているのか、モードレッド」
僕の師、ガウェイン・アークライト。
その声には、弟子の成長を喜ぶ厳しさと、その身を案じる、親のような響きが混じっていた。
「……ガウェイン様」
僕は双剣を下ろし、師に向き直った。
「眠る時間が、惜しいだけです」
「ふん。相変わらず、意地を張りおって」
ガウェイン様は、ゆっくりと僕に近づいてくる。
マスクの下の表情は見えない。
だが、その瞳だけが、月光に照らされて、静かに僕を見つめていた。
その瞳には、かつて「太陽」と呼ばれた英雄の面影は、もうない。
そこにあるのは、深い悲しみと、そして、消えることのない憎悪だけだった。
◇
訓練場の片隅にある、冷たい石のベンチ。
ガウェイン様は、無言で、薬草の入った軟膏と、清潔な布を投げてよこした。
僕は黙ってそれを受け取り、自らの傷の手当てを始める。
言葉はなくとも通じる、長年の師弟の間に流れる、いつもの時間だった。
軟膏の独特な匂いが、鼻腔をくすぐる。
傷口に塗ると、ヒリヒリとした痛みが走るが、すぐに清涼感が広がっていく。
この軟膏は、ガウェイン様が自ら調合したものだ。
7年前、絶望の淵で僕を拾ってくれた、この人が。
僕に剣を教え、生きる理由を与えてくれた、この人が。
沈黙を破ったのは、ガウェイン様だった。
「お前は、何のために剣を振る?」
その問いに、僕は即答する。
「決まっています。アーサーを殺すためです」
僕の答えに、ガウェイン様は深いため息をつき、雲一つない夜空を見上げた。
「……それだけか? 憎しみだけで剣を振る者は、いつか自分の刃に斬られるぞ」
(また、その言葉か)
僕は内心で、反芻する。
(ガウェイン様は、いつもそう言う。だが、あなたこそ、家族を奪われた憎しみで、この組織を動かしているではないか……)
ガウェイン様の家族は、12年前、王家に処刑された。
妻と、幼い息子。
その悲劇が、かつて「太陽」と呼ばれた英雄を、反逆者へと変えた。
邪神の力で家族を蘇らせる。
それが、ガウェイン様の、この組織の、唯一の目的だ。
ならば、それは憎しみではないのか。
だが、僕はその矛盾を、口にすることはできなかった。
なぜなら、僕もまた、同じ道を歩いているのだから。
僕の葛藤を見透かしたかのように、ガウェイン様は、ふと、その厳しい表情を、ほんのわずかに緩めた。
「……お前を見ていると、時々、分からなくなる。俺が歩いているこの道が、本当に正しいのか、をな」
その声には、師が弟子に向けるものとは違う、もっと個人的で、深い痛みを伴う響きがあった。
軟膏を塗っていた僕の手が、止まる。
その言葉の意味を、測りかねた。
だが、その声に滲む、紛れもない苦悩が、7年間の孤独で凍てついた僕の心を、わずかに、揺さぶった。
「ガウェイン様……」
「俺は、妻と息子を取り戻したい。その想いは、今も変わらない」
ガウェイン様は、夜空を見上げたまま、静かに語り続けた。
「だが、その代償として、どれだけの命を奪ってきたか。どれだけの人間を、不幸にしてきたか」
彼の声は、震えていた。
「モードレッド。お前は、俺を『父』だと言ってくれる。だが、俺は、お前を本当の意味で守れているのか?」
「お前を、俺と同じ地獄に引きずり込んでいるだけではないのか?」
その問いに、僕は何も答えられなかった。
ただ、俯くだけだった。
だが、その沈黙が、何よりも雄弁な答えだったのだろう。
ガウェイン様は、それ以上何も言わず、僕の肩に、大きな手を置いた。
その手のひらから伝わるのは、厳しさではなく、同じ痛みを分ち合う者だけが持つ、静かな熱だった。
やがて、彼は厳しい師の顔に戻ると、その手を離した。
「だからこそ、言う。憎しみに囚われるな。お前は、俺と同じ道を歩むな」
(あなたと同じ道を、歩むな……)
その言葉が、重く僕の心に突き刺さる。
(でも、あなたは憎しみで動いている。家族を蘇らせるために、邪神の力を求め、世界さえ敵に回そうとしている。その矛盾に、僕は何も言えない)
(なぜなら、僕も同じだからだ。この憎しみがなければ、僕はもう、とっくに壊れていたのだから)
月明かりの下、二人の間を、言葉にならない沈黙が通り過ぎていった。
僕がこれから進む道が、さらなる地獄であることを予感させる、静かな夜だった。
そして、その予感は、やがて現実となる。
だが、今はまだ、僕はそれを知らない。
ただ、師の背中を見つめながら、心の奥底で、小さく呟いた。
(ガウェイン様。僕は、あなたを裏切れない)
(たとえ、それが間違った道だとしても)
(あなたが、僕の唯一の『父』だから)
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