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 その恐ろしい声は、ようやく彼女の車に追いついた神奈川県警の捜査員たちにもはっきりと聞こえた。彼らは悲鳴の聞こえた雑木林に急いで駆け込み、そしてその光景に絶句することとなった。

 そこで目にしたのは、呆然として雑木林のなかに座り込んだ萩津の姿と、その脇に転がるゴミ袋、そしてその袋のなかからはみ出ている、子供のものと思われる薄汚れた手足であった。

 彼らは、震える手でそのゴミ袋のなかをあらため、そして、最悪の結末を悟った。

 ゴミ袋のなかには、二、三歳ほどの年齢と思われる女児の遺体が折り畳むように詰められていた。

 その歪んだ顔は烈しく殴打されたらしく、血か土汚れかは判らないが、赤黒く汚れて異臭を放っていた。そのあまりにも無残な姿に、捜査員たちは萩津を宥めるのも忘れて、その場で立ち竦んだ。

 彼らは指揮本部に「子供の遺体を発見した」という一報を伝えた。公園の雑木林内には犯人が待っているものと予測していた捜査陣は遺体発見という事実に衝撃を隠せなかった。

「何故だ――どうして、殺したんだ」

 厚地警部は呻くようにそう呟いた。被害者宅では状況に勘づいた母親が半狂乱となり、まるで娘を殺したのは警察だと言わんばかりにしきりに警察をなじった。捜査員の誰も返す言葉を見つけられなかった。父親は母親に比べると落ち着いているように見えたが、その顔は蒼ざめて硬直していた。

 指揮本部は被害者宅の捜査員たちに両親を身元確認のために連れて行くよう及川たちに命令した。

 辛い役目だった。伯母の反応から、遺体は宇城陸のものと見てほぼ間違いがないだろうが、それでも両親のいずれかに確認をさせるべきだろう。父親は母親がこの状態ではとても遺体の確認などできないと、自ら遺体の確認をすることを志願した。

 そこから車中での二時間余りの間は誰も終始無言で、重苦しい空気が流れていた。父親は唇を固く結んで表情を変えない。その相貌からなにを読み取ればいいのか及川には判らなかった。

 彼が感情を顕にしたのは娘の遺体を見たときだった。彼はその痛ましい姿を目にした瞬間「ああっ」と悲痛な声を上げた。

「娘に……陸に間違いありません」

 及川はそのあとに、うなだれた彼が小さな声で確かにこう呟くのを聞いた。

「……殺してやる……殺してやる……」

 その姿は小児性愛者でも、実の娘を虐待する異常者でもなく、ひとりのどこにでもいる父親としての姿にしか映らなかった。

 警察官という職業柄、及川は悲惨な事故や損傷の激しい遺体を見る機会はこれまでにも何度もあった。だが子供の遺体だけは、何度目にしても慣れるということはない。及川はこの光景から目を背けまいと、犯人と無力な自分自身への怒りに拳を握りしめながらその姿を見届けた。

 午後四時四十五分、身元確認が取れたことでマスコミの報道協定が一斉に解除された。警視庁本部庁舎に記者たちの「協定解除」の怒声が響き渡る。斯くして「宇城陸誘拐殺人事件」は、その日のトップニュースとして大々的に報じられることとなった。

 女児の遺体はすぐさま司法解剖に回された。誘拐犯罪で人質が殺害されたとき、警察が真っ先に調べるのは遺体の死亡推定時刻だ。それは事件解決の一助というより警察組織そのものの面子のためだった。

 警察にとっての最悪の事態とは、人質が殺害されることではなく、その死に警察の責任が伴っていることである。すなわち彼らがもっとも知りたいことは、人質殺害の時刻が警察の介入後であったか、それとも介入前であったかの確認だ。

 もし死亡時刻げ警察の介入後ならば、世間は警察の捜査ミスを疑うだろう。犯人が事件に警察の影を感じて追い詰められて人質殺害に及んだというのなら、それが最悪のケースだ。その場合は警察上層部――警視総監の辞職などといった事態にも発展しかねない。警察首脳部はそれを恐れて戦々恐々としていた。

 だが司法解剖の結果、意外な事実が明らかになった。解剖によると、宇城陸の死亡推定時刻は、発見の前日の午後三時~四時頃、つまり誘拐の直後には既に殺害されていたとの見方が強まったのだ。霞ヶ関の幕僚たちはホッと胸を撫で下ろした。これで少なくとも女児の死に関して警察が責任を取ることはなくなったからだ。

 また性的暴行の跡や、女児の体内に犯人のが残っているかどうかも慎重に調べられたが、そのような痕跡は見つからなかった。

 葬儀は三日後に行われた。式には及川たちも参列して少女の早すぎる死を悼んだ。少女の亡骸からは遺体発見時の汚れや傷などは綺麗に隠されて、少なくとも母親が娘のむごい姿を見ることは避けられた。

 警察上層部がこの事件をどう思おうとも、現場で被害者の家族と触れ合い、悲しみに接してきた彼らにとって、この事件は「敗北」以外の何物でもなかった。

 複雑を極めた事件経過と、その稀に見る残虐性によって、マスコミの報道合戦は苛烈を極めた。多数の目撃情報も寄せられたが、それらの大半は、信憑性の薄いものでしかなかった。

 だが、捜査陣を驚かせた情報がひとつだけあった。それは例の伯母に目撃された怪しげな男が警察に出頭してきたことだった。

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