16

 その萩津の突然の行動によって、警視庁の指揮本部は大混乱に陥った。

「お、おい――どうして突然伯母があんな駅に降りたんだ」

「判りません――犯人からの指示にはない行動です」

「B駅の犯人補足班は待機ですか? それとも――」

 所轄署の講堂内では、幕僚たちの怒号が飛び交っていた。

「いったいどうなっているんだ――叔母の無線からの連絡はないのか」

 被害者宅厚地警部も、この伯母の独走に驚愕していた。

――やはり、裏があったか。

 及川が唇を噛む。その時ようやく萩津からの連絡が入った。

『警察の皆さん、黙って勝手な真似をしてすみません。これも犯人からの指示でした――』

「……犯人からの指示ですって? いつそんな指示が……」

『実は、陸ちゃんが攫われたとき、部屋に残されていた手紙は、あの一枚だけではなかったんです。あの部屋にはあの手紙とは別のもう一枚の手紙があったんです――』

 もう一枚の手紙――では手紙は合計三枚あったということか。

『その手紙によると、今朝に届いた手紙は、警察向けの囮だったそうです。今朝の手紙にはB駅で降りるように指示していましたが、この駅で降りて警察の尾行を撒くのが本来の指示でした。今はここまでしか言えません』

 警察向けの囮――置き手紙には警察には知らせるなと言っておいて、しっかりと警察への対策をしていたということらしい。

『本当の身代金の受け渡し方法は、その手紙のなかにはっきりと書いてありました――今まで黙っていてすみませんでした――』

 萩津の無線連絡はそれで終わった。

――完全にやられたな……。

 及川は犯人の仕掛けたトリックに舌を巻いた。

 誘拐事件に於いて、被害者とは警察の最大の協力者であると同時に最大の障碍ともなり得る存在ともいえる。

 このように被害者が警察との打ち合わせを突然反故にしてしまえば、警察は身動きが取れなくなる。このため警察は被害者側との信頼関係を何よりも重要視しなくてはならない。

 だが、この犯人は事件に二重の構造を持たせることで彼女を巧みに操り、警察を現場から強制的に退場させてしまった。なぜ彼女とより深い信頼関係を築けなかったのだろうか。それは口悔んでも口悔みきれない警察のミスだった――。

 GPSによると、萩津は、ふたたびA駅へと向かう電車に乗車したようだった。そしてA駅で下車すると、有料駐車場に駐車していた自分の車に乗り込み、都内を車で走行した。

 電車に乗ったのは、完全に捜査員を振り切ることだけが目的であり、犯人は初めから車を利用した身代金の授受を計画していたらしい。

 今となっては身代金の受け渡し人が伯母であった理由も、駅までは車を使えなどという細かい指示が出された理由も、すべて明瞭に説明することができる。だがもう遅かった。

「指揮本部はいったい何をやっているんだ!」

 厚地警部は待てど暮らせど指示を出さない指揮本部に業を煮やして叫んだ。指揮系統が混乱すれば、当然、前線本部も迂闊な行動はとれなくなる。もはや一刻の猶予も許されない状況なのだ。

 及川は意を決して上司に進言した。

「警部。指揮本部を待っていられません。彼女を追いましょう」

「馬鹿を言うな。指揮本部の指示もなく独走などできるか」

「肝心の受け渡し人が独走を始めたのですよ。我々も独走をしなければいったいどうやって対応できるというんですか!」

 思わず語気が荒くなってしまった及川に対して、厚地警部はぐっと何かを堪えるような表情を浮かべた。

「及川、君も私もいったん冷静になるべきだ。指揮本部が混乱しているのは事実だが、我々がさらに混乱を招くような行動は慎まなければならない……」

 やがて指揮本部から出された指示は、ほとんど投げやりともいえるような内容であった。

「全捜査員に告ぐ。なんとしてでも食いついて受け渡し現場を張り、犯人および人質の確保に当たれ」

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