石に試される。

柊野有@ひいらぎ

作業室の石の鬼才

壱 ロットリングが導く聖域(改稿後)


 僕は、考古学の作業室に勤めている。

 そこにはお気に入りの時間があった。


 若手でも敏腕、長尾シズカ先生は、夕方に皆からの質問がなくなると黒曜石をそっと手にして方眼紙の上に置く。


「俺の黒曜石ちゃん、待っててくれたかなー」

 僕が熱視線を送っているのに気がついている。周囲の目を気にしながら、僕はそっけなく返す。

「出たよ。石オタク」

「俺は石があれば何もいらん。結婚したい。って嫁いるけど」

「石は、夕飯つくってくれへんし」

「アイダくんひどい、嫁は飯炊き要員か」

「僕は、そんなん言ってません」


 この埃っぽい作業室に似合わぬ、さわやかな青年。彼が、僕の師事する黒曜石マスター、静先生だった。

 女性陣からは、技術だけでなくその容姿からもアイドル的な人気を集めている。毒舌でを自称する彼だが、太陽のような明るい笑顔と、その抜きん出た技術は本物だ。アラフォーの僕が、思わず熱視線を送ってしまう理由がそこにある。

 この作業室で僕は誰よりもロットリングの綺麗な線を引けた。この技術があるからこそ、僕は先生と対等に言葉を交わす居場所を得られた。絵描きだった技術が生きる場所、「誰にも媚びない線」を追い求め、ここに辿り着いた。

 アラフォーの僕の最後のチャンスであり、終着点。

 僕がここを離れないのは、遺物に向かう時間が自己を消し、「《描くだけの器》」になるという、魂が震えるような根源的な渇望を満たしてくれるからだ。


 考古学の作業室では、専門家は先生と呼ばれ、他は全て作業員だった。皆で遺物の洗浄、土器の接合、図面描き、トレースをする。

 静先生は、始める前に手を石けんで洗い、几帳面なくらい水分を拭く。席に着き深呼吸すると、お喋り好きの彼とは別の顔があらわになる。

 黒曜石に取り込まれ自身を手放し対話していく様子は、なまめかしく、僕もあんなふうに石を見ることに連れ去られたいという欲望に突き動かされ、「今描きたいのは、石です」と執拗に言い続けた。


                ✼


 夕刻、不意にやってきた静先生は、僕の背中を荒っぽくバシ、と叩いた。

「元気ですかー!?」

「イノキ! ボンバイエー!」

「元気があれば、何でもできる!」

「まったく。現場休みに、作業室来るってどんだけワーカホリックですか。先生はコノ仕事好きすぎやろ」

「何度も言うけど、黒曜石愛してるからさ」

「さすが黒曜石の鬼。言うことが違う」

「ま、愛してるっつっても、アイダくんの線には負ける」

「は?」

「ロットリングの線だよ。あれにはかなわない。ほんと図面引くときの集中力、ヤバいから。お前は石に愛されてる。だから、俺は背中を任せてる」

「なんすか、急に褒められても」

「褒めてない。事実。信頼してるってことだよ。悔しいけどな」

 この場で、僕の技術が認められた。じっと見つめられ、少しは誇りを持って作業していって良いのかと思った。



 黒曜石は、2センチほどの小さなものが多く、取り扱いには細心の注意を払う。

 石は力に正直なので、なめらかで鋭角もぴしっと尖っている。水の波紋のように、力の波紋がある。丸い石も四角い石も、全ての石は岩盤から力が加わり、削られて出来ている。

 僕はもともと絵描きだから、空間認識は苦にならない。石の波紋に沈み込んで探り、その声を線にする作業は心地良かった。

 でも、調子に乗って静先生に言葉を返していたら、隣の席のおばさまに目をつけられてしまった。あの距離感で接してくれる彼を、無碍にもできず、黙り込んだ。


 仕事は楽しかった。

 ひとたび黒曜石に向かうと、僕の身体は置かれた空間が切り取られたみたいに、音が消える。自分は『手だけ』になり、最後には描くだけの器になる。この純粋な熱がたまらなく好きだった。


 「石描きたいです、僕にも黒曜石教えて下さいよ」と執拗に言い続けた結果、もぎ取った、時間的にも、最初で最後の石の記録係。

「仕方ない、アイダくん、そろそろ石、やるかー」

「ええんですか? がんばります!」



 ひとつめの黒曜石の作業は一週間かかった。空間認識の甘さから、静先生に「この線は何だ、お前の情熱はコノ程度か」と何度も突き返された。

 とにかく、自己を消したからっぽの馬鹿になって、脇目も振らず身体全体で向き合った。憧れの先生に認められたい気持ちと、負けたくない気持ちが僕を動かした。

 消して描いて、ようやく「はい、終了~!」と言い渡されたときは、ほっとした。


 その愛おしい時間は、今日で終わる。今日でこの作業室は一度解散になり、現場に散って行く。


 自分が消えるほどのめり込んで過ごせる時間を持てたひとは、とても幸せだ。その世界に没頭する静先生の無防備なさまに、見惚れ、同時に羨望する。自分も、その石を見ていたい。彼が、どの稜線を辿っているのか、知りたい。


「よし。オッケーです。現場から戻ったら俺がトレースする、ファイル確認して入れといて」

「わ。ありがとうございます」

「悔しいけど、よくできました。合格ですよ」


 その言葉に、僕は思わず笑った。この感覚こそが、僕が絵描きを辞めてまで追い求めたものだ。自分を消し、純粋な線と一つになる時間。いつか石に呼ばれたら、また描こう。



そんな僕の作業室の話。

あなたの黒曜石、いいね。

僕は今日も黒曜石を描く。

あの作業室で、口の悪い石の鬼に師事した、門外漢の僕は。


今も恋いこがれるのを、止められない……。

そっと、ふれたい。


冷たくて黒くて、つややかな、

その黒曜石に。


そして、その石を愛する、静先生の背中に。


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