第3話(3)天紡【白蛇】



 ―~*✣*✣*~―


 ——音がない。光もない。ただ、世界の鼓動だけが在る。

 ステラはその中心に浮かんでいた。身体も輪郭すら持たない。だが確かに、存在として漂っていた。


 周囲には幾つもの音があった。低く、遠く、異なる世界の律が脈打っている。それは幾千の世界の呼吸——レメルが調律してきた数多の生命圏の、微かな残響だった。

 ステラがいた世界もまた、そのひとつに過ぎない。


「ステラは優しすぎるミュ」

『で、でも……ボクはこの世界を守りたいキュ』


「もはやその世界は手遅れだミュ。人間は世界を蝕み、獣人が世界を嬲り尽くそうとしているミュ。織り直す方が早いミュ」

『でもミナなら……彼女ならきっと救えるっキュ……もう一度……もう一度だけチャンスが欲しいキュ。レメル様、お願いキュ……』


「ステラが言うなら、仕方ないミュ。——けれど次に失敗したら、その世界はもう調律しないミュ。それでいいミュ?」


 虚空が微かに震え、星屑のような光がステラの周囲に舞った。それは赦しではなく、ただ命の残響だった。

 ステラは逡巡する。レメルに見捨てられた世界がどうなるか、知っているから。——それは光の失われた宇宙。命が息をするたびに、沈黙が少しずつ増えていく場所。


『わ、分かったキュ……。必ずミナを説得して、世界を救うキュ』


 虚空が微かに震えた。その震えは世界の心臓が再び脈を打つ音のようでもあった。星屑のような粒子が無数に生まれ、ステラの周囲をゆっくりと旋回し始める。


「それなら、ステラの調律をやり直してあげるミュ。ステラの音は欠けている。でも欠けた音こそが、世界にゆらぎを与えられるかもしれないミュ」


 レメルの声が淡く響く。

 光の粒が糸となり、音の流れが骨格を編み上げていく。その繊維が毛並となり、呼吸となり、心臓の鼓動を形づくる。


 最初に生まれたのは小さな手だった。次に額の紅玉が滲むように浮かび、青白い毛並みが世界の光を受け止めた。

 それはもう、かつての命ではない。——しかし、確かに息づくものとしての姿。


 ステラは再び兎にも似た神獣の貌を得た。その額の紅が一瞬、微かに光る。


「レメル様……ありがとうキュ。ボク、もう一度だけ……世界を見てくるキュ」

「ちょっと待つミュ」

 レメルの身から細い筋がひとすじ、さらにひとすじ、静かに伸びた。淡く煌めく光の線。その筋はゆるやかに揺れながら、ステラの額を撫で、身体を包みこむ。一瞬、星々の旋律が宙を渡るような音がした。


「これでいいミュ。ステラの欠けた音に、今ひとつ律を足しておいたミュ」

「律……キュ?」

「光に触れたとき、きっと思い出すミュ。その意味を」


 ステラの肉体が輝いた。青白い毛並の奥で、紅玉が脈打つように光を返す。それはまるで、世界の中心に刻まれた約束が再び呼吸を始めたかのようだった。


「行きなさいステラ。星は墜ちて、また昇る。その往還の間にこそ、命は在るミュ」


 レメルの声が遠ざかる。

 虚空はゆるやかに閉じ、音の波がひとつ、ひとつ消えていく。そして最後に残されたのは、ステラの名を呼ぶような世界の呼吸だけだった。


 光が閃き——欠けた星は再び地へと堕ちる。


 ——風の匂い。湿った土の冷たさ。

 ステラは目を開いた。

 地上の空は深く、森はまだ息をしている。倒木の間に残る僅かな体温を嗅ぎ、彼女は耳を立てた。


「……ミナ、どこだキュ……?」


 匂いは消えている。けれど確かにミナの気配があった。草の葉に触れた指先が微かに震える。


「ボク、この世界を救いたいキュ。今度こそ——きっと……。もう、世界の終焉はみたくないキュ……」


 青白い毛並が夜の中を駆ける。

 森の奥で風がざわめき、月光が僅かに揺れる。その影の先へステラは音もなく走り去った。

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