警備アルバイト六十五歳 第七話

彼女は大人しく元木に付いてきた。

歓楽街からラブホに向かう近道だと言って敢えて裏の小道に入り、得体の知れないモノ相手に駆け引きを挑もうとしていた。


ホテルへと向かう道筋をわざと変えたのは、ただの思いつきではなかった。

――もし、あれが本当にこの世のものではないのなら。

神社という場所は、人と“それ以外”の境界線になる。そう信じたかった。


「近道なんだ、こっちを通ろう」


そう口にして、彼女に聞こえるように軽い口調で言い訳を添える。

実際には遠回りに近い裏通りだ。街灯はまばらで、人通りもない。

道の奥、木々の向こうに小さな鳥居が見え始めたとき、元木はわずかに胸をなで下ろした。


(――ここまで来れば、何か反応があるかもしれない)


その瞬間だった。

後ろから続いていたはずの足音が、「ピタッ」と止んだ。

元木はゆっくりと足を止め、振り返る。

距離は十メートルほどだろうか。

薄暗い街灯の下、彼女は立ち尽くしていた。表情は読めない。ただ、動かない。まるで道そのものと一体化したように、微動だにしないのだ。


「……どうした? こっちだよ」


声を掛けても、返事はない。

ただ静寂だけが降りてくる。

さっきまで、まるで人間と変わらぬ仕草で歩いていたはずなのに――今の彼女は、そこに“いる”という事実すら不確かな存在に思えた。

一歩、鳥居に近づこうとすると、彼女の肩がぴくりと震える。

そして、まるで地中に根を下ろしたかのように、その場から一歩も動かなくなった。


(……やっぱり、何かある)


元木の背中を、じっとりとした冷や汗が伝う。

恐怖はあった。だが同時に、妙な確信も芽生えていた。

彼女が“そこ”を越えられないということは――やはり、人間ではない。

鳥居の下まで進んだ元木は、胸の奥で念仏とも祈りともつかない言葉を呟きながら、ゆっくりと彼女を見つめた。

彼女は相変わらず動かない。けれどその瞳だけが、夜よりも深い闇を宿して、じっと元木を見返していた。

まるで――「そこから先に行ったら、もう二度と戻れない」と告げているように。

神社の鳥居をくぐった瞬間、元木の胸には安堵と、ほのかな勝利の感覚が広がっていた。


(――ここまで来れば、もう大丈夫だ。人の世と“あちら”の境界、ここに入ってこれるわけがない)


そう思い込むことで、震える膝をどうにか支えていた。振り返らなかったのも、恐怖を直視したくなかったからだ。

背中に感じるのは夜気の冷たさだけ――そう自分に言い聞かせながら、境内の敷石を踏みしめる。

だが、その静寂は長く続かなかった。


「……ふふ、ふふふ……ふ、ははははははっ……!」


背後から響いてきたのは、人間の声と呼ぶにはあまりに異質な“笑い”だった。

女の声ではあった。だが、抑揚は壊れ、意味もなく高低を繰り返すそれは、まるで感情という仕組みを知らない何かが、無理やり“笑い”を模倣しているかのようだった。

ゾワリ、と背筋が凍る。

それでも元木は、振り返れない。振り返ったら、何かが壊れてしまう気がした。


「…………勝ったつもり?」


耳元で囁かれたような錯覚がして、思わず足が止まる。声の主は遠くにいるはずなのに、まるですぐ後ろに立っているかのようだ。


「そんな場所に逃げ込んで、あなたはもう、“外”に戻れると思っているの?」


ギギ、と錆びた蝶番が軋むような声。

次の瞬間、鳥肌が立った。――感じるはずのない気配が、鳥居の向こう側から一歩、また一歩と近づいてくる。


(入って……きている……? まさか、ここは――)


元木の喉がからからに乾く。心臓は激しく打ち、足がすくんで動かない。

恐る恐る振り返ったその先――街灯の淡い光に照らされた彼女は、口を裂けんばかりに広げて笑っていた。

白目を剥き、口角が耳元まで裂けたその“顔”は、もう彼が知る彼女ではなかった。

まるで、「神域」という線を嗤い飛ばすように、一歩、また一歩とこちらへ足を踏み入れてくる。

勝ったと思ったその確信が、音を立てて崩れていく。

そして元木は、自分が“越えてはならないもの”と対峙していることを、初めて本能で理解した。

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