警備アルバイト六十五歳 第五話

蛍光灯が一瞬だけ強く光を放ち、薄暗い廊下が白く照らされた。

その刹那――女が、パッと顔を上げた。


「……っ!」


その瞬間、元木の思考が凍りつく。

見覚えがあった。いや、忘れられるわけがない。

あの朝、タワマンで隣にいた女。酒の勢いで盛り上がり、しかし結局は何もなかった“彼女”――あの顔が、そこにあった。


(な、なんで……ここに……?)


脳が処理を拒む。

偶然? 幻覚? それとも……――。

しかし次の瞬間、元木の理性はその全てを否定した。

それは、“生きている人間”ではなかった。

肌は血の気を失い、青白く透き通って見える。

瞳は焦点を結ばず、深い井戸の底を覗き込んでいるような虚ろな光を宿していた。

そして何より――彼女の身体は、蛍光灯の点滅と同じリズムで、輪郭そのものが揺らめいていたのだ。


(ありえない……これは、この…じゃない……)


頭の中がパニックで埋め尽くされる。

“逃げろ”という声が全身を駆け巡るのに、足は床に縫いつけられたように動かない。

喉が渇き、心臓が早鐘のように鳴り響く。

それでも、元木は――頭の中で考え、なんとか言葉を絞り出した。


「……お、おい……どうしたんだ。そんなところで、何してるんだ……?」


声が震える。

それが“諭す”というより、自分を落ち着けるための言葉であることを、元木自身が一番よくわかっていた。


「……もう遅い時間だ。こんなところにいても、身体を冷やすだけだぞ……」


彼女は何も言わない。

ただ、ゆっくりと首をかしげた。まるで、言葉そのものの意味がわからないように。


「なぁ……帰ろう。ちゃんと……家へ戻らなきゃ……」


“幽霊”――その言葉を口走りそうになり、自分でそれが何を意味するのかを悟ってしまった。


口から出そうになった言葉は、あまりにも残酷な真実をはらんでいる。

彼女は、ゆっくりと、一歩前へと踏み出した。

蛍光灯がまたチカチカと明滅し、そのたびに彼女の姿は近づき、遠ざかり、輪郭が滲んでいく。

元木の全身が総毛立った。

理性はまだ「落ち着け」と叫んでいるのに、心臓は「逃げろ」と喚いている。


「……ねぇ、また飲みに行かない?」


静寂を裂くように、彼女の口がゆっくりと開いた。

その声は、記憶の中の“あの夜”とまったく同じ響きだった。

酒場で隣に座った時の、柔らかい、誘うような声――だが、今のそれは何かが決定的に違っていた。冷たく、乾いていて、どこか空虚な音が混じっている。

元木の背筋を、凍えるような寒気が走る。


(やめろ……そんな顔で言うな……)


顔の筋肉がこわばり、口角が引きつる。

だが、彼はどうにか“恐怖”を表情に出さないよう努めた。

この場で怯えを見せたら、何か取り返しのつかないことが起きる――そんな本能めいた警鐘が鳴っていた。


「……飲み、か。はは、そうだな……また、飲みに行くのも悪くないな」


唇が乾いて、声がかすれる。

表面上は笑ってみせたが、自分でもそれが“ひきつった笑顔”になっているのがわかる。


「じゃあ、行こうよ。今から」

「……今から、か?」

「うん、すぐに」


彼女は頑なだった。

一歩も引かない、譲ることを知らない声音。まるで“飲みに行く”ということそのものが、この場の唯一の条件であるかのように。

――そして、元木は決断した。


「……わかった。行こう。だから、俺のあとについてきてくれ」


それは、恐怖からの逃避でもあり、同時に“それ以上の何か”を刺激しないための選択でもあった。

下手に拒めば、彼女がどうなるのか分からない。

いや、“どうなるのか”ではない。“何をするのか”が分からない。

元木はゆっくりと踵を返し、エレベーターホールへ向かって歩き出した。

足音が妙に大きく響く。

そして――

「……カツ、カツ、カツ……」


後ろから、彼女の靴音が追いかけてきた。

その音は、決して急がず、決して遅れず、一定のリズムでついてくる。

まるで、決められた距離を保つように。

十歩離れたところで立ち止まれば、彼女も十歩後ろで止まる。

歩き出せば、また同じ間隔で歩き出す。


(……なんだこれは。人間の“あとをつける”っていう動作じゃない……)


背後を振り返る勇気が出ない。

それでも、確かに感じる――“それ”は、今も自分を追ってきている。

冷たい空気が、廊下の奥から流れてきた。

それが彼女の気配なのか、ただのビルの換気なのか、もう元木には分からなかった。

気づけば、元木の足は自然と“あの店”へ向かっていた。

                        

                *

二十四時間営業の、場末の飲み屋。

夜勤明けにふらりと立ち寄り、彼女と初めて出会ったあの場所だ。

暖簾をくぐると、昼とも夜ともつかない照明が疲れたように照らしている。

店内には他の客の姿はなく、カウンター奥では大将が新聞を読みながら湯気の立つ味噌汁をすすっていた。

元木が入ってきたのに気づき、顔を上げる。


「おや……今夜も来たのかい。随分遅い時間だな」

「……ああ、まぁな」


できるだけ自然に振る舞おうとするが、声が妙に上ずっている。

背中の方――そこに“彼女”がいることを、店の人間が気づいていないのはわかっている。

それが、余計に恐ろしかった。

元木は震える手でメニューも見ずに言った。


「……飲み物を、二つ頼むよ。ビールでいい」

「二つ?」


大将の手が止まった。

目が、ほんの一瞬だけ訝しげに細められる。

この店をよく知る人間ならわかる――ここは、ひとり客がほとんどで“二つ”なんてまず頼まれない。

しかも、今このカウンターには元木しか座っていないのだ。


「ええ、二つ。……連れが、いるんでな」


しどろもどろになりながら言う。

大将は何か言いかけたが、結局は「へい」とだけ言って、黙って奥へ引っ込んだ。

カウンターの上に、泡立つビールジョッキが二つ並ぶ。

元木は片方を自分の前に、もう片方を“空席”の前に丁寧に置いた。

誰も座っていない椅子。

それでも、彼には“そこ”に彼女がいるのがわかる。


「……かんぱい、だな」

「……かんぱい」


耳の奥で、確かに返事が聞こえた気がした。

元木は引きつった笑顔のまま、ジョッキを軽く掲げて口に運ぶ。

麦の苦味が喉を落ちていくのに、身体はまるで冷たい氷を流し込んだように震えている。

背筋にまとわりつく気配。

目の端でちらつく、淡い影。

何かを話しかけようとしても、喉がひゅうひゅうと音を立てて言葉が出てこない。

ただ、元木は笑い続ける――まるで、すべてが“普通”であるかのように。

まるで、隣に座るのが生きた人間であるかのように。

それが、唯一の“抵抗”だった

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