敗れた男たちの行く先
@korimori42
警備アルバイト六十五歳 第一話
元木(もとき)六十五歳。定年後も体を動かしていたいと始めた夜間警備のアルバイトは、単調ながらも心に静かな充足を与えてくれていた。
巡回ルートを歩き、ドアの施錠を確かめ、非常口の明かりを確認しながら時計を睨む──それが毎夜の仕事だ。
その晩も、午前零時を回った頃、彼はふと異変に気づいた。通常は消灯されているはずの三階のオフィスの一室から、光が廊下へと漏れ出しているのだ。
「おかしいな、こんな時間に誰か残ってるはずはないが……」
元木は胸ポケットからメモを取り出し、入居している会社のフロア一覧を確かめた。その部屋は法律事務所のオフィスで、夜遅くまで業務があるにしても、ここまで残ることは滅多にない。しかも週末の夜だ。
足音を忍ばせながら廊下を進み、ドアの前に立つ。ガラス窓にはブラインドが下ろされているが、隙間から明かりがこぼれ落ちている。元木は軽くノックをした。返事はない。少し身をかがめて耳を寄せたその時、微かな笑い声と低い吐息が聞こえてきた。
(……これは仕事じゃないな)
心臓がドクンと鳴り、背中に冷たい汗が走った。警備員としては確認を怠るわけにはいかないが、同時に人として踏み込むべきでない領域があるのも分かっていた。
しかし、巡回記録に「電気が点いていた」とだけ残して立ち去るのも不自然だ。躊躇しつつも、ドアノブに手をかけ、ほんのわずかに開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは、机の上に身を預け合う男女の影だった。
スーツ姿の男と、ブラウスを乱した女。二人は互いに夢中になっており、こちらに気づく様子はない。書類が床に散らばり、蛍光灯の冷たい光が場違いなほど生々しい光景を照らしていた。
元木は慌ててドアを閉じ、背を壁につけた。鼓動が速い。六十五年生きてきた中で、まさかこんな場面に遭遇するとは思いもしなかった。
「……見なかったことに、するか」
小さく呟き、巡回ルートを外れぬよう足を進めたが、頭の片隅では妙な引っかかりが残った。
(大勢が働くオフィスという場所が二人を盛り上がらせたのだろうか?)
元木はドアを静かに閉めた後もしばらく、その場に立ち尽くしていた。心臓の鼓動が早く、耳の奥でやけに大きく鳴っている。この歳にもなって、まさかあんな場面で体が反応するとは思ってもみなかった。
「……情けないな、俺もまだ枯れちゃいないってことか」
自嘲気味に呟きながら胸元を軽く叩き、気持ちを落ち着ける。だが、すぐに頭を切り替えなければならない。これは仕事中だ。余計な妄想や感情は、警備員としてあってはならない。
元木は深く息を吐くと、再び巡回ルートへと足を進めた。懐中電灯の光が、無人の廊下やロッカールームを淡く照らす。自動販売機のモーター音、空調の低い唸り、夜のオフィスビル特有の静けさ――どこか現実感が薄れているような、奇妙な時間帯だ。
そんなときだった。
「……あれ?」
またもや、遠くの廊下の先に明かりが漏れているのに気がついた。つい先ほどの出来事が頭をよぎり、元木は苦笑いを浮かべる。
「まさか、また“お楽しみ中”じゃないだろうな……」
独り言を言いつつ、足音を忍ばせて近づく。先ほどとは別の部屋だが、状況は同じだ。ブラインドの隙間から光がこぼれ、静まり返った廊下に異物のように存在を主張している。
しかし、今回は様子が違った。耳を澄ませても、笑い声も、囁き声も、何の音も聞こえない。慎重にドアノブを回して中を覗くと、そこはただの無人の会議室だった。
机の上は整然と片付き、椅子も元の位置に戻っている。誰かが使った形跡などどこにもない。
「……なんだ、誰もいないのか」
拍子抜けしたように独り言を漏らしたその時、天井の照明がパチッと音を立てた。蛍光灯が一瞬暗くなったかと思うと、またチカチカと点滅を始める。
「ああ、そういうことか……」
元木は思わず苦笑した。どうやらこの部屋だけ、まだ古い蛍光灯が使われているらしい。最近のLED照明なら一度消せばそのままだが、古い蛍光管は時々接触不良を起こして勝手に点いたり消えたりすることがある。
さっきまでの妙な緊張感が一気に抜け、肩から力が抜けた。
「心臓に悪いな、まったく」
それでも、さっきの一件のせいで、どこか気恥ずかしさが残る。ほんの少し前まで、自分の理性を危うく忘れそうになっていたのだ。人間らしい欲や衝動はまだどこかに残っている。それを認めざるを得なかった。
元木は最後にもう一度、蛍光灯のスイッチを切ってから部屋を後にした。巡回ルートはまだ半分も終わっていない。夜は長い。だが、妙にざわついた心を抱えながら歩く廊下は、いつもより少しだけ色を帯びているように感じられた。
元木は会議室のスイッチを切ろうと壁際に歩み寄った。さっきまでの拍子抜けと安堵が混じった気持ちが少しずつ落ち着き、頭の中ではすでに「蛍光灯の交換を要望する」と報告書に書くつもりで文章を組み立てていた。
「原因は老朽化した照明器具……まあ、それで片がつくだろう」
そう独り言を呟きながら、指先でスイッチを押す。蛍光灯は一瞬暗くなったかと思うと、またチカチカと点滅を繰り返した。古い管特有の、どこか不規則な点滅。しかし、その光の明滅の合間に――一瞬、何かが見えた気がした。
(……ん?)
点滅がひときわ強くなった瞬間、机の向こう、蛍光灯の真下に「誰か」が立っているように見えたのだ。
いや、正確には“見えた気がした”と言うべきか。ぼんやりとした輪郭、白っぽい服、顔の判別など到底できない。目の錯覚かもしれないと思ったが、再び明滅するたびにその影のような人影が浮かんでは消え、浮かんでは消える。
(……まさか、そんな馬鹿な)
背筋がゾワリと粟立った。こういう仕事を長くしていると、「夜間の巡回中に誰もいないはずのフロアで人影を見た」とか「廊下を歩く足音が聞こえる」といった怪談話は嫌でも耳に入る。元木自身も同僚から何度か聞かされたことがあったが、どれも「気のせい」で片づけてきた。
だが今、自分の目が確かに“何か”を捉えている。
「……気のせいだ。気のせいに決まってる」
自分に言い聞かせながら、元木は半ばやけになってスイッチをもう一度押し込んだ。
パチン、と乾いた音がして、今度こそ照明は完全に落ちた。部屋が暗闇に包まれ、途端に足がすくむような感覚が襲ってくる。
「……よし、終わりだ。終わり終わり」
独り言が妙に心細く響いた。元木はそのまま部屋を出ると、まるで子供のころに暗闇の廊下を走り抜けるような足取りで自分の詰所へと戻っていった。
途中、背後が気になって何度も振り返りそうになったが、怖くてそれもできなかった。
詰所のドアを閉め、椅子に腰を下ろすと、ようやく少しだけ呼吸が落ち着いた。だが、あの点滅する光の中で見た「人影」は、瞼の裏からなかなか消えてくれなかった。
(……あれは、本当に“気のせい”だったんだろうか?)
巡回報告書の余白に、元木はペンを持つ手を一度止めた。
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