第2話
その馬車が到着したのは、日が沈むころだった。
おずおずと頼りげない足取りで降りてきた花嫁に手を差し出したが、その行為は無に終わった。
差し出した手を握りしめることで、ばつの悪さを誤魔化し、精一杯の笑顔を送ろう。一応は俺の花嫁だ。
「ようこそ、グラナドス家へ。俺があなたの夫アンヘル・グラナドスです」
「………………」
返事もない。
興味があると思われてはいけないので、花嫁を興味深げに見るなと言われた。
だけどこの状況。
見ないように思っていても、心とは裏腹についつい彼女を観察してしまう。
すっぽりと全てを覆い隠すような白いヴェールが足元まで落ち、土色に染まっている。
ただ白いだけの長手袋は、サイズが合っていないようだ。指先が風に舞っている。
手袋だけではなく、ドレスもサイズが合っていない。
ヴェールに隠れているため正確な判別はつかないが、肩の位置が合っていない。腰の位置はかなり下にあるので、裾をずるずると引き摺っている。
侯爵家の令嬢のウェディングドレスとは思えないほどお粗末な作り。
宝石も縫い付けてなく、刺繍は雑。
庶民が着るような既製品だ。
(困った。どうやら訳ありだ)
馬蹄がトランクを我が家の侍女に渡した、と同時にぺこりと一礼して去っていく。
当主の娘の嫁入りにしては、色々と難ありだ。
(まいったな)
心の中で呟くと、ツンとした匂いが鼻についた。
前世で体調不良から、一週間ほど風呂に入れなかったことがあった。正気に返ったとき、自分の臭さに涙が出た。
まだこの体は生きているんだと……。
一週間であの臭さならば、目の前のこの子は何日風呂に入っていないのだろうか。
横目で兄を見ると、なんとも言えない表情をしている。
その横にいる兄の嫁、つまり義姉はそれを表情に表すことなくニコリと笑った。
「クロエ様はお疲れのご様子。お食事の前にお風呂に入って頂きましょう?ねぇ、あなた?」
兄に向かって言ったのに、俺の背筋にもぞッとした寒気が走った。
◇
ひと事も話すことなく花嫁は、我が家のメイドに連れられ、俺の横の横の部屋。つまり妻に与えられる部屋へと入っていった。
その部屋と俺の間にある部屋が夫婦の寝室。
そこで新婚初夜を迎え、その証拠を神殿に提出することで婚姻は正式になしたと認められる。
つまりそれがなければ、白い結婚というわけだ。
「風呂の後は食事か……あの臭さだと何時間かかるのやら」
ぐぅっとなったお腹を押さえると、ノックされた。
立ち上がり扉を開けると、そこには兄夫婦がいた。
「どうしましたか?」と尋ねながら部屋に招き入れる。
いつものように部屋の中央にある緑色のソファへに座ると、メイドが現れ、お茶と軽食をセットして去っていった。
お腹が空いていたのでお菓子の提供はありがたい、とひとつ摘まむと、なんともやるせない顔をしたふたりと目が合った。
「なにか問題でも?」
暗い雰囲気の中でお腹が鳴るのは避けたい。故にお菓子を一口食べてから尋ねた。
兄夫婦は視線を交わし、どちらが言うべきか探っているようだ。
もうひと口とお菓子を摘まんでいると、義姉から声がかかった。
「クロエ様がお風呂を拒否していらっしゃるの」
「え?あの臭さで!?」
俺の言葉にふたりは、床に穴をあけるような深いため息で答えた。
「元々が侯爵令嬢だ。うちのメイドは平民だからそれが嫌かと思いアレシアに行ってもらったが、それも拒否された」
アレシアは義姉の名前だ。
義姉は元平民だが、今は男爵である兄の嫁。つまり男爵夫人を名乗ることができる。
だが侯爵令嬢であるクロエからすれば、平民に近い身分。それが嫌だと言われれば仕方のないことだが……。
「身分のせいで風呂を拒否しているのでしょうか?それだったら自分の専属侍女を連れてくれば良いでしょうに。侯爵令嬢で、将来的には子爵の地位も持つのですから」
そう、色々問題のある家だが、サラサール侯爵家はこの国では有力な権力者のひとつで、領地も広く、金もある。
王都にあるタウンハウスも大きい。そこで育ったのがサラサール侯爵家の娘クロエだ。
そう考えると普通は何人もの高位貴族の侍女に傅かれ、蝶よ花よと育てられているはずだ。例え愛人の子であったとしても。
なのに侍女をひとり連れてこず、トランクひとつだけで嫁入り。普通に考えればあり得ない状況だ。
「異常な状況なのは確かだ。だからこそ我が家としてはクロエ様の身体を確認する必要がある」
「確認?体を?なぜ?」
「傷があるかもしれないでしょう……もしくは痣が……」
(ああ、そういうわけか……)
義姉は聡い人だから気が付いたのだろう。クロエが虐待されている可能性を。
だがメイドは平民。アレシア姉さんも元は平民。
今の地位、男爵夫人では侯爵令嬢であるクロエに逆らえない。
「お前は
「裸を見るだけなら問題ないわ。白い結婚で通る筈よ」
「お前なら問題ないだろう……その色々な意味で……」
兄の言葉を、義姉がその袖を掴むことで止めた。
ああ、もちろん問題ない。それは間違いないだろう。
沈黙が流れる中、兄の口が開きそうになったので立ち上がった。
すまない、なんて言わせる気はない。
失言など誰にでもあることだ。
「では彼女の仮の夫としてお風呂の手伝いをしてきますね」
背中を洗うふりをしておどけた態度で、部屋を出る。
(大丈夫……俺は、もうあの時以上に傷つくことはないのだから)
◇
クロエの部屋をノックしたが、声は聞こえなかった。
えいやっと勇気を出して扉を開けると、ムワっと悪臭が鼻についた。
鼻を摘まみたい衝動を抑え、部屋を見回すと隅に白い塊が見えた。クロエだ。
つかつかと近づき、少し離れたところで腰を落とす。
子供相手には視線を合わせることが大事だと、幼馴染が言っていた。
「クロエ、まだ風呂に入っていないのか?」
返事はない。微かに震える身体がすべてを拒絶しているようだ。
「あなたは俺の妻となった。今までは侯爵令嬢であなたの方が身分が上だが、婚姻したので今は俺の命令を聞かなければならない。これは知っているか?」
まだまだ倫理観が未発達なこの世界では、妻は夫の所有物だ。売買する以外の権利を全て夫が有する。そんなふざけた世界だが、今は役に立つ。もちろん良心は痛むが。
「だから命令だ。風呂に入れ」
返事はない。これは予想の範囲内だ。
幸いにして匂いは慣れてきた。あとはこの衣装の下の匂いに耐えきれることを祈るのみだ。
震える身体を持ち上げると、悲鳴が上がるかと思ったら上がらなかった。
意識的に臭覚を消して、軽すぎる身体を持ち上げ浴室へ向かう。
この世界、倫理観は中世止まりだが下水道施設等々は前世とそれほど変わらない。
ウォッシュレットは当然ないが、トイレは水洗だしトイレットペーパーもある。
お風呂も蛇口をひねればお湯が出る。湯船もあるし、シャンプーも石鹸もある。動力源が電気ではなく、魔法ということ以外は変わらない。
これだけは本当に良かった。風呂に入れない生活はたまらない。
浴室に入ると湯船に湯は張ってあった。どうやらメイドがそこまではやったようだ。
シャンプーその他一式も高級品を取りそろえてある。
我が家は男爵家だが金はある。故にこの程度はたいした出費じゃない。
震えがとまらないクロエを下ろし、まずは体を覆うヴェールを持ち上げる。
そこには驚くほどの美少女が!と言いたいところだが、現れたのは驚くほど痩せこけた少女だった。
窪んだ黄緑色の目はギョロギョロと忙しなく動いている。
極端にこけた頬。荒れた肌。カサついた唇。
髪は何年洗っていないのだろう。油ぎった髪にはフケが見える。
続いて手袋を外すと、思った通り骨が浮き出た腕が現れた。強く握ると折れてしまいそうだ。
こうなると同情の視線を送ってしまう。そうしないように決めていたのに。
心の憂いを振り払い、後ろを向かせる。すると彼女は自然に、まるでいつものことのように背中を丸め、跪いた。
「何をしている?服が脱がせないが……」
耳をすますと、彼女の声が初めて聞こえた。
「申し訳ございません。申し訳ございません……」
小声で繰り返している。
その姿にザッと血の気が引く。
予感めいたものが自然と俺の身体を動かす。
差し出された背中にある紐を急いで、でも慎重に外す。
背中には傷があるかもしれない。
その傷は新しいのかも知れない。
まだ血が出ていたら、膿んでいたら、どうすれば良いのだろう。
この幼い子の心の傷を癒すには、どうしたら良いのだろう。
俺には無理だ。自分の心の傷さえ、今でも癒せずにいるのに!
小さい悲鳴が聞こえる。
小さく嫌だと叫んでいる。
勘弁してくださいと。
黒く染まる頭の中に響くそれは、雷鳴轟く中に取り残されて鳴く子猫の声のようで、虚無の目に映る自分の姿に憐れみと虚しさが溢れ、生きていく意味さえ忘れてしまう。
子猫を哀れと思い、助けるべきと思うのは偽善でしかないのだろうか。助けられたいのは自分か、子猫か。
もうそれすら分からない。
ドレスの紐を解き、ぐちゃぐちゃに絞められたコルセットをなんとか外すと、背骨の浮いた肌にはハッキリと虐待の跡が見えた。
細い傷は鞭の跡だ。打撲は棒で叩いた跡だろう。やけどの跡は火かき棒だろうか。
何年、虐待されていたのだろうか。古い傷、新しい傷と入り混じり、痛々しい。
ふと浴室を見ると傷を治すポーションがある。
義姉が指示したのだろうか。その心遣いに感謝しながら、彼女のドレスを一気に脱がし、持ち上げて浴槽の近くにおろした。
まずは背中にポーションを塗ろう。次に気は進まないが、前の確認だ。
「沁みるぞ?」
声をかけるが、返ってきた言葉は「申し訳ございません」だった。俺への返事ではなく、口癖なのだろう。
転生したこの世界で、驚いたのは魔法だ。特に回復魔法はすごい。身体の傷であれば一瞬で治してしまう。
このポーションも魔法の一種。回復魔法がこの瓶の中の水に組み込まれていて、簡単な傷であれば治してしまう。
嫁してきた彼女はもう俺のもの。
今後離婚したとしても、ナサリオ子爵家の地位があれば実家に帰る必要はない。故に傷は治しても良いだろう。
ポーションの半分をかけると傷が見事に治っていく。
「背中の傷を治した。悪いが次は前を確認させてもらう」
背中に手をかけ、ぐいっと回そうとしたら、抵抗するように彼女は身体を折り畳んだ。
先程とは違い随分と意思の強い抵抗だ。
必死な思いが身体越しに伝わる。
15歳の子供……ではなく女性だ。
いきなり現れた夫に身体を見せるのは嫌だろう。だがこちらも好きでやっているわけじゃない。そもそも女の身体に興味などない。
力付くで抱き上げ、こちらを向かせ、強引に身体を広げる。
どうやら胸や腹に傷はないようだ。あるのは殴られた痕だけ。
そして……女性にはないはずのものが、そこにはあった。
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