辰巳勇人
このところ、毎日うちのチャイムを鳴らす奴がいる。
最初に鳴らされた日は居留守を使った。通販で荷物を頼んでいるわけでもないし、突然訪ねてくるような知り合いもいない。アポ無しで訪ねても、俺がドアを開けないことを皆知っているからだ。
だってそうだろう?
単身者向けアパートのチャイムを鳴らす奴の用件など、ろくなものじゃない。たいてい受信料の契約か宗教の勧誘だ。そんなの面倒くさくて構っていられない。
だから二回目にチャイムが鳴らされた日も、俺は無視した。
そして三回目のチャイムが鳴った日にようやく――どんな奴がうちに来ているのか、興味本位でドアスコープを覗いてみた。
「…………」
ドア前に立っていたのは、俺と同じ年頃の男だった。男は集金カバンでも聖書でもなく、菓子折りのような紙箱を手にしている。
そこで俺はやっと、「ああ、引っ越しの挨拶か」と思い至った。そういえば今まで空いていた隣の部屋に、数日前から人の気配がある。
なるほど理由はわかった。――しかし、俺はその日も無視した。引越しの挨拶なんて、されたことも自分がしたこともなかったから、どう対応すればいいかわからなかったのだ。
それでも男はしつこかった。ついに、四回目のチャイムが鳴った。
俺はいい加減鬱陶しくなって、渋々玄関ドアを開けた。
「……はい」
口から出た声は、あからさまに不機嫌さが滲んでいた。わざとではない。だが面倒に思っていることも間違いじゃない。
「あ、こんばんはー。隣に引っ越してきた者ですー」
男はへらりと気の抜けた声で言うと、締まりのない笑顔を見せる。女にモテそうな顔をしているな、というのがこいつの第一印象だった。
「《
辰巳は「これパスタセットです。よかったら食べてください」と箱を差し出し、再び人の良さそうな笑みを浮かべた。
すぐ引っ越すとわかっていて挨拶に来るなんて、若いくせに律儀な奴だ。
「どうも、わざわざ」
「いえいえ。短いあいだですがよろしくお願いします」
「腹減ったな……」
辰巳が帰ってから、俺は晩飯がまだだったことを思い出した。
ちょうどいい、と辰巳に貰ったパスタセットを開けてみると、小麦のいい香りが部屋に広がる。
今日はいつもどおり、親父から貰った肉をそのまま食おうと思っていたが、このパスタに入れてみるのもいいかもしれない。料理はほとんどできないが、幸い肉は調味済みだ。
ベーコンみたいにカリカリに焼いて混ぜるだけでも美味そうだ。
「やっべ……」
想像するだけで、唾液がじゅわりと沁み出してくる。
(いいもんくれるじゃん)
自分でも単純だと思うが、感じのイイ奴が越してきた――そう思った。
それから辰巳とは毎朝顔を合わせた。
朝会社に行こうとドアを開ければ、辰巳も必ずアパートの廊下にいるのだ。どうやら生活サイクルが被っているらしく、奴もちょうど出勤するところなのだという。
「おはよーございますー」
一度挨拶に来た奴を無視するのはどうも忍びない。
「……はよざいます」
そうやって毎日挨拶を交わすようになると、自然と俺たちの距離は縮まっていった。
いや、自然というのは少しニュアンスが違う。どうにもこの辰巳という男は、人と付き合うのが上手なのだ。いつもちょうどいい距離感で俺に接してくるものだから、ほどよく好感を抱いてしまう。辰巳がそんな奴だったおかげで、俺にしては珍しく、顔を合わせば隣人と世間話をするようになっていた。
話してわかったのが、まず名前。奴の下の名前は勇人――《
仕事は事務職。前に住んでいたマンションは不具合が出たため、急遽リフォームすることになったらしい。それで一時的にこのアパートに住むことになったそうだ。
前の家ではルームシェアをしており、うちのアパートにはその同居人と一緒にやって来たという。
「でも、うちは独り暮らし専用だったと思うけど?」
「大家が融通を利かせてくれたんだ。向こうの家とここ、大家が同じでね。急に決まったリフォームだし、短期間だから特別にって」
「ふたりで暮らすには狭いだろ?」
「そうだけど、基本的にはずっと外にいるしなぁ。仮住まいだから我慢できるよ」
「へぇ……」
辰巳の同居人には、実は一度も会ったことがない。
いつも夜中に帰ってきている、というのは足音でわかるのだが――それだけだ。
別に辰巳の同居人になど興味はない。どんな暮らしをしているのか知る気もないし、好きにしてくれと思っている。
――だが、そいつに関してひとつだけ許せないことがあった。
いわゆる『飯テロ』というのを仕掛けてくるのだ。
仕事終わりで腹が減っているんだろう。それは仕方ない。けれども夜中、ぷんと漂ってくる美味そうな匂いを嗅がされる身になってみろ。それが特に、肉の香りだった日には――。
俺はもう我慢ができなくて、つい冷蔵庫を開けてしまう。
少しずつ大事に食べている肉の香草漬け――料理が得意な親父の特製だ――に、手が伸びてしまうのだ。
次に会ったときも、親父は肉を土産に持たせてくれるだろうが……。それまではうちに残っている分で凌がなきゃいけない。
俺はいつも、『何日までは持つはず』というのを計算して大切に食べている。
だから夜食に食べる、なんて想定外の消費をすると、その計算が狂ってしまうのだ。
無くなったって他のものを食べればいいだけ、と言われたらそのとおりではある。しかし一度親父の作る料理の味を知ってしまったら、もう適当な食べ方をするなんて考えられなくなったのだ。
「くっそ……。とんでもない飯テロ野郎だな……」
今晩も俺は、窓の外から入ってくる脂の焼ける匂いを嗅ぎながら、肉しか入っていない冷蔵庫を開けた。
◇ ◆ ◇
玄関の鍵を開ける音が聞こえ、辰巳は読んでいた文庫本から顔を上げた。
「よっ、おかえり」
玄関でスニーカーを脱いでいる男に向かって言うと、男は腰を曲げたまま「おう」とそっけなく返事をする。
「他の仕事もあるのに悪いね~、毎晩来てもらってさ」
「別に。どうせ自分の家にいてもなかなか寝つけねぇんだ。同じ起きてるんなら、隣の奴を見張ってるほうが有意義だろう」
男は狭いワンルームに上がりこむと、部屋の中央にぽつんとひとつだけある折り畳みテーブルの上に、スーパーのビニール袋を置いた。
辰巳は床に直接敷いた布団から身を起こすと、ひとつ伸びをして袋の中を確認する。
「
「そういうわけじゃないが」
答えながら火之は、辰巳の向かい側に座布団を敷いた。
「シールが貼ってあったから」
「ふーん」
確かに三食パックの焼きそばには、『お買い得』と値引きのシールが貼られている。
「――ま、いいや。飯作るわ」
「辰巳も食べるのか?」
「俺はもう食った」
「……悪いな、わざわざ」
「いーよ。でも作ったらすぐ寝るから」
そう言って辰巳は大きなあくびをした。
「あいつ朝早いんだもんな~。合わせて起きるのも大変だわ」
辰巳勇人――彼は《対異形探偵協会》で、窓口業務を担当している。
毎日何件も舞い込んでくる、異形の者に関する相談。
それらを適任の探偵に差配するのが、辰巳の役目だ。
昔はある事務所で探偵の助手をしていたが――紆余曲折を経て、現在はこの仕事に就いている。
今でこそパソコンや書類と睨みあい、電話対応に追われる日々を送っているが、かつては現場の第一線で活躍していた。
探偵とともに捜査を行い、戦闘をサポートする。緊迫の場面に遭遇するのは彼の日常茶飯事だ。
けれど、それももう昔の話。一線を退いてからは、辰巳が現場に出ることはない。
――と、多くの人間が思っているが、実情は少し違う。
「隣の、今日はどうだったんだ?」
「いつもどおり会社に行って、いつもどおり帰ってきた。特に変わったところは無し」
キャベツを手際よく切りながら、辰巳が答える。
火之がそうか、と相槌を打つと、フライパンに肉を放り込みながら、「でもなぁ」と辰巳が呟く。
「なんだ」
「あいつん
「ゴミを……。それで?」
「ぜーんぜん生ゴミとかないわけよ。自炊派だって言ってたのにおかしいだろ。もったいない精神で野菜の皮ごと食べる奴なんだとしてもさ、ヘタのひとつすら出ないのはどうよ? あいつ、白米をおかずにして白米を食べてんのか? ――……ってのは冗談だけどさ。とにかく調理した形跡がないんだ」
「……ふむ」
「それだけじゃない。食べ物に関するゴミはゼロ。これまであいつが出したゴミで唯一あったのは、俺が渡したパスタの空き箱だけなんだぞ。自炊してるってのが嘘な可能性もあるけどさ……。でも……」
フライパンの中身を菜箸でかき混ぜながら、辰巳は火之を横目で見やる。何が言いたい――と火之が目で訊くと、辰巳は「んー」と唇を尖らせた。
「あいつ、絶対別の何か食ってるだろ」
その何かを、辰巳は明言しなかった。
「――――……」
しかし火之にはしかと伝わり、彼は忌々しげに顔を顰めた。
辰巳は、火之が醸し出す不愉快そうな気配を背に感じながら話を続ける。
「あいつ、異形の者だよ」
◇ ◆ ◇
『助手としてはあんなに優秀だった辰巳も、今じゃ協会の窓口係か――』
憧れていた探偵への道が閉ざされてから――辰巳に探偵の才能はなかった――、彼は助手として働くことを止めてしまった。
頭がよく機転も利く。どこの事務所に行っても、助手としてなら十分にやっていけるのにもったいないことだと、人々は口さがなく言った。だが――。
実は辰巳は、今も密かに異形の者に関する事件に携わっていた。
この事実は公にされていない。なぜなら彼が事件に関わるとき、それは協会が内々に解決したい案件があるということだったからだ。優秀だが、特定の助手を雇用していない探偵のサポートを任せられることもあるが――多くは秘密裏に事を運びたい場合、彼に声がかかる。
――辰巳は表面上、軽薄な男だ。
それもあって、軽く扱われることもままある。
だが、かつて探偵を志した彼の情熱は、今も変わらず内に秘められている。探偵にはなれなかったが――辰巳はそれくらいで腐るような男ではない。
対異形探偵協会の窓口だって、誇りをもって従事している。他人になんと言われようと、やりがいのある業務だ。
しかし助手として培った経験や能力が、今も求められるならば――夢破れた世界にも、この男は躊躇いなく身を投じることができた。
――辰巳は現在、あるサラリーマンの動向を追っている。
彼に指示を出したのは、対異形探偵協会・会長だ。なんでも『自分の目』となり、代わりに探ってほしい案件があるとのことだった。
「つかさ警備の善知鳥君から連絡があったのだが、どうやら徒党を組んで人間を襲う異形の者が存在する可能性がある。君にはその集団の構成員と思しき人物を調査してもらいたいんだ。
なに、君ひとりで全員を調べろとは言わない。そんなのは全容が知れない相手に対し非効率だ。
この件に必要なのは人手だ。ひとりやふたりでどうこうできる案件ではないと、私は考えている。しかし誰でもいいわけじゃない。何が飛び出してくるかわからない相手には、心身ともにタフな者があたる必要がある。
だから私は考えた! 所属先の垣根を越えた、大規模捜査を行おうと!
そうすることで、優秀な人材を広く集められる! 安心してくれ、人員はすでに選出済みだ。
まずは本件を協会に持ち込んだつかさ警備。彼らはすでにこの件に着手している。気になることがあれば話を聞いてみるといい。
それと、御守探偵事務所にも声をかけた。君も知ってのとおり、信頼できる探偵が揃っている。
しかも、本件に関連がありそうな相談を受け、すでに捜査しているという。きっと頼りになるぞ。
そして協会からは――火之君と辰巳君に参加をしてもらいたい。
できれば拘束に留めたいが……。この案件では場合によって、大規模な排除作戦――一斉排除が行われるかもしれない。そうなったとしても、君たちは荒事に慣れているからね。何が起こっても迅速に解決してくれる。――そうだろう?」
こうして辰巳、それから協会と縁が深い探偵の火之は、このプロジェクトに加わることとなった。
彼らが最初に任されたのは、つかさ警備に目を付けられていた、『あるサラリーマン』の調査だ。
まずふたりは、その男の隣の部屋を借りた。ごく普通の隣人の顔をして、対象の行動と会話から人に成り代わった異形の者かどうかを探ることにしたのだ。
隣人から情報を引き出すのは辰巳の仕事だ。火之は特異な外見をしているため、下手を打つと逆に何者かと怪しまれる可能性がある。何より人の懐に入るのが上手い辰巳に比べると、無愛想な火之は人に探りを入れるのは向いていない。
調査は数週間にわたった。
その結果、辰巳はサラリーマンを『クロ』だと判じた。
◇ ◆ ◇
「で、どうする? すぐに動くか?」
火之は辰巳に尋ねると、「いただきます」と目の前に並べられた焼きそばに向かって手を合わせる。
「どーぞ、召し上がれ」
辰巳はあくび混じりに返し、布団の中に潜り込んだ。隣人の見張りは日中は辰巳が、夜は火之が行っている。明日も隣人の動きをチェックしなければならない。それを考えると、そろそろ眠らないと仕事に差し支えそうだ。
「まだ動かなくていいんじゃないかな」
火之に背を向け布団のなかで丸まった辰巳は、悩むことなく答える。
「今すぐ何かしようっていうのは感じられないし。だいたい、会長の方針だと、『一気に叩く』だろ?」
「ああ……そうか」
「……それに、なーんか待ってるような気がするんだよなぁ、あいつ」
「待ってる? 何をだ?」
「さあ……。確信があるわけじゃないよ。ま、もう少し様子見てもいいんじゃん」
火之はふむと頷き、焼きそばを口に運んだ。
「そういえばさ、火之は明日の夜こっちに来れんの? 何か昔馴染みに会うとか言ってなかったっけ?」
「時間までには話を済ませる」
「りょーかい。じゃ、俺は明日もちゃんと夜寝られるわけね」
辰巳は布団脇に置いていたアイマスクを着けると、「おやすみ」と呟いた。十分もしないうちに、布団から小さな寝息が聞こえてくる。
「……寝つきがよくて羨ましいこった」
火之はふっと息を零すと、壁に目をやった。当然、隣人の部屋があるほうの壁だ。
薄い壁越しに、ときどき物音が聞こえてくる。隣の男はまだ起きているようだった。
(異形の者の集団――か)
彼らは何を思って集まっているのか。そして、群れて何をするつもりなのか――。
火之は一度
相手の考えはわからない。――だが、好きにさせてなるものか。
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