外れスキル【神々の熟成庫】で始める辺境スローライフ 〜追放料理人の一皿が、やがて世界を温める〜

Ruka

第1話

じっとりとした空気が肌に纏わりつく。

迷宮の石壁を滴る水滴の音だけが、やけに大きく響いていた。俺たちの足元には、つい先ほどまで暴れ狂っていたミノタウロスの巨体が横たわっている。


「ちっ……また大物かよ」


パーティーリーダーである勇者ギデオンが、ミノタウロスの額に突き刺さった魔石を乱暴に引き抜きながら舌打ちした。彼の金色の髪は土と汗で汚れ、その表情には達成感よりも苛立ちが色濃く浮かんでいる。


「カケル! アイテムボックスはまだ空いてるか? この魔石と角、それに皮もだ。全部持って帰るぞ!」


ギデオンの鋭い声が飛んでくる。俺はびくりと肩を揺らし、おずおずと答えた。


「あ、いや……すまない、ギデオン。もう、何も入らない……」


「はぁ!?」


ギデオンの眉がつり上がる。俺のスキル、【アイテムボックス(劣化版)】。その名の通り、容量はわずか10スロット。ポーション数本と携帯食料、そして道中で手に入れたゴブリンの耳を数枚入れたら、もう満杯だった。


「使えねえな、お前のスキルは! たった10スロットだぞ!? これまでどれだけの戦利品を諦めてきたと思ってるんだ!」

「もはや荷物持ちですらありませんわね。普通のカバンを背負った方がマシですわ」


冷たく言い放ったのは、魔術師のリオナだ。彼女はいつも俺を蔑んだ目で見る。パーティーの誰もが、俺のスキルの不甲斐なさにうんざりしていた。誰も、かばってはくれない。


ギデオンはミノタウロスの巨大な角を忌々しげに蹴り飛ばすと、ずかずかと俺の前に歩み寄った。その瞳には、単なる怒りだけでなく、何かに追い詰められたような焦燥感が滲んでいる。


「もう我慢の限界だ」


彼は懐から銀貨を数枚取り出すと、俺の足元に投げ捨てた。チャリン、と虚しい音が響く。


「カケル。今日限りでお前はパーティーをクビだ」

「え……?」

「聞こえなかったのか? 足手まといは消えろ、と言ったんだ。これは手切れ金だ。達者で暮らせ」


それは、あまりにも一方的な宣告だった。

だが、俺の心の中に広がったのは、絶望だけではなかった。

不思議なことに、「ああ、やっと終わったんだ」という、微かな安堵感があったのだ。


一人、薄暗いダンジョンを出て王都に戻る。

これまでパーティーの仲間と歩いてきた道が、今はやけに広く感じた。


俺、相田翔(あいだかける)は、少し前まで日本で暮らす平凡な会社員だった。料理が趣味で、週末に手の込んだものを作るのがささやかな楽しみだった。そんな俺が、ある日突然、この剣と魔法の世界に「勇者召喚」に巻き込まれてしまったのだ。


与えられたスキルは【アイテムボックス(劣化版)】。

他の仲間が聖剣術だの神聖魔法だの、いかにも勇者らしいチートスキルを授かる中、俺だけがこのザマだった。


以来、パーティーでの俺の扱いは言うまでもない。戦闘力は皆無。荷物も持てない。ただ仲間が戦うのを、震えながら見ているだけの存在。役立たずと罵られる毎日だった。


「……まあ、仕方ないか」


誰かを恨む気力も湧いてこない。

もう日本には帰れない。ならば、この世界で生きていくしかない。


「戦うのは、もうやめよう。もともと、俺には向いてない」


ふと、日本の自分の部屋のキッチンを思い出す。包丁の音、スパイスの香り、じっくりと煮込むシチューの鍋。あの穏やかな時間。


「そうだ、辺境へ行こう」


争いも、誰かからの期待もない場所。静かな田舎町で、自分のためだけに生きる。自給自足の、穏やかな生活。それが、今の俺にできる唯一の選択肢に思えた。


王都から乗り合い馬車に揺られること、二週間。

俺は、大陸の東の果てにある辺境の村、「アイナ村」にたどり着いた。


そこは、時間が止まったかのような、のどかな場所だった。雄大な森を背に、素朴な家々が点在し、畑では農夫たちがのんびりと鍬を振るっている。


村長に事情を話すと、森の入り口近くにある小さな空き家を格安で貸してくれた。少し古いが、一人で暮らすには十分すぎる広さだ。


まずは食料の確保が必要だった。村の猟師に話しかけると、売り物にならないというロックバードの筋張った胸肉を安く譲ってくれた。ついでに、森でクルミによく似た硬い木の実を拾う。


その日は家の掃除で疲れ果ててしまい、調理する気力もなかった。俺は手に入れた肉と木の実を、無造作にアイテムボックスへと放り込んだ。


そうして、家の修繕や水汲み場の整備で、瞬く間に数日が過ぎていった。


腹の虫がぐぅ、と盛大に鳴った時、俺はアイテムボックスにしまった食材のことを思い出した。

「さて、あの硬い肉、どうやって調理したものか……」


ぼやきながら、アイテムボックスからロックバードの肉を取り出す。

その瞬間、俺は息を呑んだ。


ふわり、と鼻腔をくすぐる、信じられないほど芳醇な香り。それは、ただの生肉の匂いではなかった。まるで高級な生ハムや、丁寧に作られたサラミのような、深く、食欲をそそる香りだった。


手のひらに乗せた肉は、数日前のくすんだピンク色ではなく、美しい深紅色に染まっている。指でそっと押してみると、弾力があるのに、吸い付くように柔らかい。


「……なんだ、これ?」


俺はゴクリと唾を飲み込み、焚き火を起こして、その肉を軽く炙った。

ジュッ、と肉が焼ける音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。


恐る恐る、一切れを口に運ぶ。


「―――う、ま……っ!?」


脳天を、雷が撃ち抜いたような衝撃だった。

硬くて筋張っているはずの肉が、まるで嘘のように歯を使わずにほろりと解ける。噛みしめる間もなく、凝縮された旨味の洪水が舌の上で爆発した。今まで食べたどんな高級な肉よりも、圧倒的に、美味い。


慌てて木の実も取り出して割ってみる。すると、あれほどあった渋みは完全に消え、代わりに深いコクと香ばしさだけが残っていた。


何が起きた?

なぜ、こんなことに?


俺は呆然と、自分の手のひらを見つめた。

そこにあるのは、何の変哲もない、ただの空間。追放の原因となった、役立たずのスキル。


「ただの収納スキルじゃ……なかったのか?」


震える声で、呟く。


「これって、まさか……食材を『熟成』させてるのか?」


辺境の森の小さな家で、世界から見放されたはずの俺の物語が、今、産声を上げた。

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