【二十四.保護されるまで】

 難産だったけれど、二千九百グラムの元気な赤ちゃんが生まれた。相変わらず喜ぶ人はいなかったが、熾神月子はひとりぼっちではなくなった。


『かわいいね』

『かわいいね。……この時はね』



「はいはい、ミルクですかー」


 熾神月子は、ぼうっとしながら仮眠から目覚める。深夜三時。前回からちょうど三時間、判で押したように泣く。


「はーい、ちょっと待ってねえ……」


 まともに眠れない。だから気を抜くとミルクを作っている最中に寝てしまう。


「はいはい、出来ましたよー」


 でも、一生懸命に哺乳瓶の乳首を吸っている姿を見ると、それだけで勇気づけられる。

 あなたは、間違えてはいないのだ、と。


 産休は取ったものの、最初の一ヶ月は眠れなかった。母乳の出が悪くて、粉ミルクに頼らなくてはならず、三時間おきに泣いては起きた。ポットからお湯を入れ、適温になるまで冷やし、あげる。あげてもあげてもうたた寝から起こされる。おしっこもうんちも替えた。それでも、この子は茜の生まれ変わり。今度こそしっかりふつうの人として育てあげるんだ。その一心で日々を乗り越えて、そして三ヶ月が経っていた。



 そうだ。お宮参りに連れて行ってあげよう。病院を退院してから三ヶ月。まともに外に出て無かった。十二月で山あいの多摩ニュータウンは指がかじかむくらい寒かったけれど、近くの小さな神社にベビーカーを押して参拝した。境内には葉を落とした御神木の大きなケヤキが、枝を広げていた。とても荘厳に感じて、ベビーカーを押す手を止め、目をつぶって手を合わせた。


 ぱきんっ。ぱちぱちぱちぱち。


 ん? なんの音だろう。目を開けて見ると、ケヤキの大木は真っ赤な光を放って燃え上がっていた。


「きゃっきゃっ」


 朝陽ちゃんは、燃える木を見つめ、嬉しそうに笑った。

 熾神月子の頭の中を、地獄の炎がまた焼き付くしていった。


『はい、おきがみつきこちゃんの負けー。この子はわたしが連れて行くからね』


『この日この瞬間。お姉ちゃんはお母さんとしての心が折れてしまったの』


 頭の中で、妹が淡々と告げた。



 ぴんぽーん、ぴんぽーん。


「熾神さん? 熾神さーん。市の保育士です。ちょっとお伺いしたいことがー」


 居留守を使いたかった。だから呼び鈴には出ない。けれど。えーん、えーん。一歳になった朝陽ちゃんが泣き止まない。

 ぴんぽーん。


「熾神さーん。いらっしゃるんでしょう?」


 えーん。えーん。ぴんぽーん。えーん。ぴんぽーん。


「うるっさい! いい加減泣き止めよ!」


 びたん。

 うわーん。


「熾神さん、おひとりでつらいでしょう。ドアを開けましょ。お話、お聞かせください」

「うっさい! 帰れよ! うっさいんだよ!」

「そうは参りません。このままだと虐待疑いありで報告しなきゃいけなくなりますよ」

「帰れ! 帰れよっ」


 熾神月子はそれどころではなかった。


『ふふふふ、あはははは! いいね、おきがみつきこちゃん。すごくいいよ!』


 朝陽ちゃんが泣けば泣くほど。頭の中で美影の声が乱反射して、心を締め上げた。うるさいっ! 何度目かに手をあげた時。


「……ぎあああっ」


 顔の左半分に火がついた。慌てて洗面台に駆け込む。


「大丈夫ですかっ」


 異変を察知した保健士達が、扉の外で叫ぶ。熾神月子は洗面所で倒れて動けない。彼女らが大家から合鍵を貰って開けた時。

 気を失った熾神月子を、朝陽ちゃんが、じいっと見ていた。



 それから朝陽ちゃんは、児童相談所に一時保護された。お母さんのもとに返されたのは二ヶ月後。顔に大きな包帯を巻いた熾神月子は、朝陽ちゃんをぎゅっと抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね」

 そう言っては、ぼろぼろ大粒の涙を零した。

 また児童相談所のお世話になる訳にはいかない。母親らしく優しくいなきゃ。……けれど、どうしていいか分からない。熾神月子は、お母さんとしての自分と、地獄から逃げたい自分との間の迷路で、迷子になっているように見えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る