第2話 霧の島へ
(……ん)
ユーフェミアは、揺れる床の上で目を覚ました。
薄暗い空間に、どこかから囁くように笑い合う声が響いて来る。丸い窓から差し込む光は波に揺れている。枕代わりにしていた古びた革鞄に手が触れて、ようやく、ここが船の客室なのだと思い出す。
客室といっても椅子や仕切りはなく、金属製の床の上に薄い板を張って寝床代わりにしただけの空間だ。そこに、全ての乗客が集められている。いわば人間専用の貨物室のようなものだ。
とてつもなく、長い夢を見ていた気がする。
なのに、何を見ていたのかは全く思い出せない。
肩にかかる長い髪をかきあげ、胸元からこぼれ落ちていた首飾りの鎖を服の中に隠しながら起き上がると、頬のあたりに、髪の毛が刺さったようなチクチクする感触を感じた。それとともに、塩水のべたべたするような感覚を覚えた。
(あれ、涙?)
目元から流れた痕跡に気づいて、慌てて頬を拭った。眠りながら泣いていたのか、それとも汗なのか。
窓の外に視線を転じると、叩きつける海の飛沫の向こうに、薄い霧に包まれた陰鬱な島影が見えはじめていた。
彼女は今、生まれてこのかた一度も足を踏み入れたことのない父の故郷に向かっている最中なのだった。
父は幼い頃に事故で亡くなり、母は高校卒業を目前にした一ヶ月前に急死した。死因は――過労だった。
元々、卒業してからは働くつもりだったのだが、それも、母に楽をさせたいがためだった。その母が居なくなってしまった以上、身寄りもないまま大都会で困窮した生活を続けていくことに自信が持てず、結局、住んでいた借家も家財も全て処分して、この船に乗ったのだった。
父の生まれ故郷を知ったのは、ほとんど偶然のようなものだった。母が亡くなったあと、遺品の整理をしていた時に、投函されることのなかった父の手紙を見つけたのだ。その宛名の住所は、アスガルドという殆ど無名の島を示していた。
アスガルド――通称、”霧の島”。
ミズガルズ海域の九つの島によって構成される
かつては大きな島だったというが、中心部にあった火山が千年ほど前に大噴火を起こし、島の半分以上が吹き飛んでしまった。
いま島に住むのは、かつての住人たちの子孫のうち、噴火が収まってから戻ってきたごく一部だけなのだという。
ユーフェミアは、鞄の中から古い封筒を取りだし、表面の文字を眺めた。
アスガルド島、フェンサリル。宛先の名前は、おそらく祖父なのだろう、エイリミ・クリーズヴィという人物になっていた。
(…お父さん、どうしてこんな辺鄙なところから都会に移住したんだろう)
父のことはほとんど覚えていない。
母とは恋愛結婚で、半ば成り行きのようにして同棲をはじめた間柄なのだとは聞いていた。
写真の一枚も残っていないが、母いわく、ユーフェミアと同じ銀髪の長身で、いつもどこか寂しげな目をして、故郷のことはあまり話したがらなかった、という。
結局は出すことの出来なかったこの手紙からしても、島を出た理由があまり良いものでなかったことは推測できる。
(家出とか、勘当とか…。私が会いに行っても、歓迎はされないかもしれない…。はあ、気が重いなあ)
父方の親族が見つかったとして、歓迎されるとも思えなかった。けれど、あのまま
とにかく今は、全てを変えたい、と思っていた。これまでの生活を捨てて、新しい人生を歩むつもりだった。
ふいに、キャハハハ、と明るく笑う甲高い声が耳に届いた。
手紙から視線を上げて振り返ると、客室の反対側の壁際に、男女四人のグループが向かい合って腰を下ろし、楽しげに話し合っているのが見えた。
この小さな船の、唯一の同乗者だ。年は二十代前半から半ばくらいだろうか、いかにも都会の若者らしい砕けた格好に、一人などは派手に髪を染めて、頬に入れ墨を入れている。
四人組はきっと、夏休みの冒険にやって来た大学生か何かなのだろう。
自然保護区、手つかずの自然と言えば聞こえがいいものの、この島のは観光地化もされていない、ただ珍しい地形や動植物がいるだけの場所のはずだ。しかも船は一週間に一本、飛行場も無い。大きな街のある
若者たちはこれから、島の探検に大いにいそしむつもりのようだ。
リーダー格と思しき、がっちりとした体格の男は床に地図を広げ、相棒の眼鏡の若者ともに、何やら念入りに計画を練っている。唯一の女性である金髪の少女は、しきりと手を叩いて大げさに笑い、もう一人の、黒髪の男はそれらに興味もないといった雰囲気で、壁にもたれかかったまま、黙って遠くを見つめている。手元に大事そうに抱えている細長い包みには、釣り竿でも包んでいるのかもしれない。
金髪の少女が無口な男にちょっかいをかけ、むっとした男が手を振り払うようにして立ち上がり、甲板のほうへ出ていく。
どこかで見たような顔の男だった。見覚えがあるような…つい最近、会ったことがあるような。
じっと見つめていた時、ふと、その男の足元にまとわりつく、何か黒っぽい影のようなものに気がついた。
(……?)
よく見ようと目を凝らした時にはもう、影は消えている。
立ち去っていく男の開いた扉から、風とともに潮の香りが流れ込んでくる。
はずみで、金髪の少女と視線が合った。相手は一瞬、きょとん、とした顔になったあと、ニイっと笑う。
少女が腰を上げ、ユーフェミアのほうに近づいてきた。
「ねえ、キミさあ。一人?」
「えっ? …え、ええ」
いきなり親しげに話しかけられて、ユーフェミアは、思わず引いた態度を取ってしまった。
「ずーっと寝てたよね。船に乗った時からちょっと気になってたんだけどぉ」
「…疲れてたので…。」
正直に言えば、この船はとてもよく眠れた。
板の上に薄い毛布を敷いただけの、貨物室と何ら変わらないような粗末な船室でも、屋根と壁があるだけで安心できた。それに、体に伝わってくる波の感覚はまるで、ゆりかごのようで、心地よかったのだ。
「こんなヘンピなところ、女の子ひとりなんて珍しいよねぇ」
「親族がいて…父の出身がこの島なので」
「あ、里帰り? なぁんだ。地元の人なんだね。それなら納得~」
「……。」
「あたしはニッキーだよ。あたしたち、一ヶ月くらい大自然を満喫しようと思って来たんだ。火山とか見てみたくってさ。しばらくこの島にいるんなら、帰りの船とかで、また一緒になるかもねえ」
やたら明るい、人懐っこすぎる口調。人の領域にずけずけと踏み込んでくるような無遠慮さには、微かな嫌悪感を覚えた。
「そう…ですね」
相手の勢いについていくのがやっとのユーフェミアが、ようやくそう答えた時、ボーッと大きな汽笛の音が響いてきた。
窓の外にはいつの間ににか、港が、すぐそこまで迫ってきている。
「おっと。そろそろ着くみたいだね。じゃ、まったねー」
ニッキーと名乗った少女は立ち上がり、連れのほうへ戻っていく。男たちも、地図を畳み、荷物をまとめはじめていた。
「ローグは? まだ甲板なの?」
「そのうち戻って来んだろ。それより、降りたら…」
「…うん、だね」
四人組のうちの三人は、顔を寄せ合ってひそひそと何かを囁きあい、ニッと笑う。まるで、何か悪巧みでもしているような顔。その顔は、何故か、あまり好ましいものとは感じられなかった。
「……。」
ユーフェミアは、自分の唯一の持ち物である小さな鞄を抱え上げ、ゆっくりと下船口へ向かって歩き出した。
客は五人しかいないというのに、船が着く桟橋は出迎えの人々で大混雑だった。
だが、彼らの目当ては客のほうではないらしい。
この船は貨物船でもあり、この島へ
この船に客を乗せるのは貨物のついでであり、島の住民にとっては、荷物が届く予定の船便に過ぎないのだった。
それらの人々を押しのけ、下船口から船着き場の外に出ようとしていた時、ユーフェミアの耳に、甲高い少女の声が響いてきた。
「えーっ?! 入島届けなんて、聞いてないわよー!」
四人組の一人、さっき話しかけてきたニッキーが、制服を着た係の人と何やら揉めている。
「もおー、早く火山見に行きたいのにぃ~」
「しょぅがねぇ…さっさと済ませようぜ」
若者たちは、文句を言いながらどこかへ去ってゆく。
入れ替わるようにして、ユーフェミアの前にも同じ制服の、…警察にしては少しばかり、ひょろっとした人物だ。
「失礼。あんたも、この船でいま着いたところだね?」
「はい」
「島を観光するつもりなら、入島届けを出してくれ。それと、観光許可証を…」
「あの、私、観光じゃないです」
「ん?」
「親戚が、…この島に住んでいるので」
会ったことはないし、歓迎されるかどうかも分からないが、父の親族が住んでいる。それだけは事実だった。
制服の男は、まじまじとユーフェミアを見回し、何故か納得したような顔になった。
「…あー、なるほど。フェンサリルの人か」
「えっ? どうして、知って…」
「見た目がね。あそこの人たちは皆、背が高いから。なら、観光許可書はいらないだろう。ほれ、そこの観光案内所で、入島届けだけは出してくれ。何しろ、ここのところ行方不明者が多いもんでね。数だけは数えておきたいんだよ。――それと、知ってるだろうがフェンサリル行きの貨物馬車は予約制だ。明日の切符を一緒に買っておくといい」
「……。」
男の指さしたほう、人混みの向こうに、確かに「観光案内所」と書かれた看板が出ていた。だが、その文字は潮風に晒されて随分と掠れ、何十年も前から塗り直されていない様子だ。建物自体も、嵐が来れば一瞬で吹き飛ばされてしまいそうなくらいガタが来ている。
さっきの四人組の姿はすでに見えなくなっているが、同じ建物に向かったのだろうか。
(貨物馬車、って言ってたわよね。ってことは、あの手紙の住所って、ここからだいぶ離れてるのかな…)
島の地図など、事前に見ていない。アスガルドはそれほど大きな島でもない。島に来さえすれば、人に聞きつつでもなんとかなると思っていたユーフェミアは、少し不安になり始めていた。
(それに、行方不明者って言った? …行方不明になる人がいるの? 何で…?)
擦り切れた革鞄をぎゅっと抱きしめながら、彼女は、おそるおそる島の大地の上に最初の一歩を踏み出した。
荷物を受け取りに来て、船に群がる人々は、誰もこちらを気にしていない。観光地らしさはなにもない。
船着き場に大きな桟橋は、いま降りてきた船の着いている一本だけ。その先には石を積んで作った斜面のような手作りの地方港が続いており、漁船らしい小舟がたくさん停泊している。
観光案内所、隣接する旅館と、やる気のなさそうな土産物屋。魚市場。港の周囲に集まっている店が商店街を形作り、いまどき珍しい馬車が行き交っている。
自動車は一台も見かけない。きっと、燃料を輸送するのが大変で、誰も乗らないのだろう。
昔のままで時が止まったような島。
午睡の浅い夢の中にいるような、どこか現実味の無い寂れた場所。
――それが、ユーフェミアがこの島に対して抱いた、最初の印象なのだった。
寂れた観光案内所の入口を潜ると、やる気のなさそうな壮年の婦人が一人、埃をかぶったような展示物と、色褪せてほとんど文字の読めなくなったようなパンフレットの奥に腰を下ろしているのが目に入った。何日も前の、すでにくたびれてしまった新聞を読んでいる。船が一週間に一度しか来ないから、新聞も、一週間ごとにまとめて届くのだろう。
先に船を降りたはずの四人組の姿は、ここには見当たらない。既に記入を終えてどこか別の場所へ行ったのか、それとも、外で何か揉めているのかもしれない。
「あの」
ユーフェミアが声を掛けると同時に、彼女は顔を上げた。
「いらっしゃい。一人?」
「…はい。ここで入島届けが必要だと、言われたんですが…」
「記入して」
無愛想にそれだけ言って、女は、ユーフェミアの手元に紙とペンを突き出した。印刷された文字は掠れて、年代ものの紙の匂いがする。
紙には住所と名前、行き先や滞在日数を記載する欄がある。
ユーフェミアは、受付の女性の視線を受けながら、自分の名前を名前欄に記載した。ユーフェミア・ハイム…母の名字だ。父は自分の性を一度も使わず、戸籍も母のほうに入っていた。身分証の名前は、これなのだ。
(住所…は、…
本当はもう、賃貸の部屋は処分してきてしまったのだが、他に記載できる現住所は無いのだから仕方がない。考えてみれば、戻るところも無いのに、一度も会ったこともない親戚を頼ってくるなど、無謀なことをしたものだ。
滞在日数は、とりあえず一ヶ月としておいた。何も記載せずに色々と聞かれても面倒だからだ。
「フェンサリルまで行きたいんですが、貨物馬車の切符はここで買えますか」
「火山を見に行くのかい? なら往復切符で七百リセ。」
「……。」
それは、いまの手持ちの金額の半分ほどに相当する大金だったが、買わなければ先へは進めない。
ユーフェミアが黙って指定の金額を差し出すと、受付の婦人は、机の奥から往復二枚綴りの古ぼけた切符を取り出した。
「出発は明日の九時、そこの広場の端に馬車が泊まる。宿はここのすぐ裏手。このイーストポートの街に宿はそこだけだよ。馬車が出るのは、船と同じで週に一回だけだ。寝過ごして遅れないようにね」
「…わかりました。」
受け取った切符を鞄の奥に大事にしまい込み、ユーフェミアは、ふと、側の棚に置かれている観光案内のパンフレットと地図に目をやった。
「これは…?」
「だいぶ昔に誰かが作ったものだけど、お客が来ないから余ってるんだよ。無料で配ってるから、必要なら持っておいき」
「じゃあ、…いただきます。」
この島のことは、何も知らない。どうせ一日待たなければならないなら、時間つぶしに読むものくらいはあったほうがいいだろう。
受付の女性はぶっきらぼうで事務的だが、少しくらいの雑談なら応じてくれるかもしれない。ユーフェミアは、おそるおそる尋ねてみた。
「あの、そういえば…港で行方不明者が出てるって聞きました。この島、危ないところがあるんですか」
「そりゃあ、あるさ。ろくに整備もされていないド田舎だから、都会の人なんかには特に危ないね。崖には手すりもないし、海に落ちたって泳げなければ誰も見ていないし。それに、この島はよく霧が出るんだ。濃霧が出たら足元が見えなくなる。霧が出始めたら、どこか建物の中に入るか、むやみに動かずじっとしていることだね。ヘタに歩き回るのは危険だよ」
「霧…?」
「ここは”霧の島”なのさ。霧のアスガルド。皆そう呼ぶだろ?」
ちょうど、手に取ったパンフレットの表紙にも、同じ言葉が踊っている。
『ようこそ、歴史と自然の交わる絶海の孤島。神秘なる霧のアスガルドへ!』
確かに、皆、この島をそう呼ぶ。でも何故なのかなんて考えたことはなかった。
(本当に、霧が出るってこと? 濃霧…それも人が行方不明になるくらいの…)
灰白色の霧に包まれた、古びた城の写真を見た時、なぜか背筋がぞわっとするのを感じた。
彼女はあわててパンフレットを鞄にしまい込むと、礼を言って外に出た。
観光案内所を出た時には、船着き場は静かになっていた。
停泊した船から荷物を下ろす作業は終盤になり、集まっていた住民たちの大半は、目当ての品を受け取るか、あるいは、この船には自分の品が乗っていないことを確認して去っていったらしい。閑散とした広場では、さっきの制服の男たちが受け取り手のいない荷物の宛先を確認して回っており、暇そうな野良犬が一匹、石畳の上をうろつきまわっている。
同じ船で着いた四人組の姿も、見当たらない。
(そうだ、宿が裏にあるって言ってた。先にそっちに行ったのかもしれない。…火山が楽しみとか言ってたし、明日の馬車では一緒になるのかも)
特に会いたいわけでもなかったが、この島で、自分ひとりが異邦人だということが少しだけ落ち着かなかった。
正確にはまるきりの異邦人というわけでもないのだが、生まれてはじめて足を踏み入れる場所には違いない。
ずっと
ただ、正直に言えば、思っていたほどの違和感は無かった。
この島に着いてから、まだ一度も、誰かに怪訝そうな顔をされていない。
眉を寄せたり、嘲笑うようにチラチラこちらを見ながら陰口を囁きあったりする人たちはいない。
島の人たちはみな、よそ者に無関心で、目の前の自分の暮らしにだけ集中している。
活気のない閉鎖的な空間。ほどよい倦怠感。
ユーフェミアの、
宿の前に立った彼女は、入口のガラス窓に写る自分の姿を見て、苦笑した。
(…やっぱり、ちょっと高すぎるわよね)
彼女の身長は、十代の少女としてはあまりに高すぎた。ほとんどの建物は、腰を屈めないと入口に頭がつっかえてしまうほどだった。
学校では、いつも、のっぽとからかわれた。古い伝承にある巨人族になぞらえて、あだ名は「巨人女」。幼い頃なら傷つくこともあったが、いつしか無視して、聞かないふりを決め込むようになった。
それに、「男みたい」と言われることも多かった。服のサイズがないせいで、男物を着るしかなかったせいだ。今も、ぶかっとしたオーバーオールのズボンで誤魔化して、靴は男物のブーツを履いている。せめてもの抵抗に髪を伸ばして丁寧に編み込んでいるが、だからといって、女性らしい外見かと言われると微妙だ。
父も同じだったと母はよく言っていたが、さっきの船着き場にいた制服の男の口ぶりからして、これが島の住民の特徴なのだろう。
確かに、通りで見かける住民たちは、女性でも身長の高い者が多い。…ユーフェミアほどではないにしろ。
自分の容姿が目立たずにいられる場所があるなどと、
頭をぶつけないよう注意しながら宿の入口をくぐった彼女の目の前には、観光案内所とよく似た雰囲気の、埃を被ったようなカウンターが待っていた。
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