ゼピュロス

tokky

1 崩壊時代

 家の奥で母親が咳をしている。空気が重く垂れ込めているが、要らないものも吸い込む。少女は煉瓦造りの家の入り口に干し草で編んだすだれを掛けた。少しでも汚れた物を防ぐのだ。地面までたれたすだれを、隣の家のレンガで固定した。この辺りも人気がなく、レンガは崩れ、少女の家だけがかろうじて形をなしている。


 他の家は崩れて、大量のレンガが道を塞いで、あたりは灰色に霞む。住人達はとうの昔に出て行った。彼女の家は、体が弱くなってきた母との二人暮らし。どこかへ行く、そしてやり直す気力はない。


 かつてこの町には風が吹いていた。 木々が立ち、川が流れ、季節が巡っていた。 だが、乱開発が始まり、木は伐採され、洪水が起き、多くの人が死んだ。 怒りは支配階級に向かい、内乱が起きた。


  双方とも痛手を負い、やがて姿を消した。少女は知らない。 国を捨て、金だけ持って逃げた者たちのことも。 地中を掘りすぎて放射線が漏れ、川は資源の純度を上げるために使い果たされた。 水は汚れ、季節は壊れた。 極端に熱い日と、雹の降る寒い日が交互に訪れる。


 偏西風は止まったかのように静かである。南の国から暑い大気が燃え上がり、海の水の温度を上げた。それは海流の行く先を変え、海の生き物を追いこみ、漁業は衰退した。原子力発電の汚染水は垂れ流されて、近海も死の海にした。熱風はとどまることを知らず、偏西風を蛇行させた。


 少女は辺境に生まれ、読み書きもあやふやだ。村に人がいたころはかわいがってもらったが、その人たちも、彼女と同じように知識がなかった。どうして突然作物が枯れ始めたのか、地面がひび割れたのか、理由もわからず、ひとり、またひとり、と村を離れることが続いたとしても、誰にそれを咎める権利があるだろう。


 水に含まれる化学物質を少女は知らない。トリチウム、ベンゼン、クロロエチレン、セシウム……金属の加工、プラスチックの生成、今はすだれの材料であるポリ塩化ビニールが、経済活動のなれの果てだと言うことも知らない。


 母親はとても優しい。咳をして血を吐いても、数少ない木綿の布を口にあてて我慢している。ある日、黄ばんだ木綿に血が付いていた。少女は怯えて、おかあさん、おかあさんと呼び、背中をさする。

 そして母の体が異様に熱いことに気がついた。

 どうしよう。体を冷やさなくては、と焦り、水を汲みに行こうとすだれを引き上げると、母親は目を刺す痛みに耐えられず、

 眩しい、開けないでおくれ。

と叫んだ。どうしたの。おかあさんはどうなってしまったの。それでも素早くすだれを降ろし、煉瓦のおもりを置くと、一番近く、しかも比較的濁っていない水を塩化ビニールの袋に入れた。走って帰り、金だらいに水を張り、なけなしのタオル、端がもうほどけて黒ずんでいるが、水に浸して母のおでこに当てた。


 おかあさん、どう。

 不安な目で少女が顔をのぞくと、母は、ああ、気持ちがいいね、ありがと、ありがとね……とつぶやき、それが最後の言葉になった。


 彼女はしばらく呆然として動かない母の体を見つめていた。やがて黙々と家の近くに穴を掘り、母親の体を寝かせた。煉瓦の家にはなにもなく、最低限の生活用品しかなかった。それでも、母の手作りで何年も蓄えていた石けんをその手に持たせて、神が天国にお連れくださったときのお土産になるように祈り、天国では豊かな暮らしができるように願った。土を入れて、煉瓦で墓石を作る。


 子供にはわからなかったが、母の病気は結核と、それに伴う髄膜炎の併発である。母のまぶしさは、髄膜炎の症状、喀血は結核による。人がいないので空気感染はしないはずだが、まだ村人がいたときに感染し、潜在性結核感染症になっていた。


 少女が発病しなかったのは、BCGのワクチンを打っていたことが理由のようだ。ワクチンは十数年は体内にとどまる。同時期に注射した他の子供が何人か突然亡くなったが、役人は取り合わず、村人は以後ワクチンを拒否した。


 今となっては知る人もいないが、辺境の村でワクチンの実験がなされた。死者が出た場合も改善の研究を地道にしないで、大量生産して外国に安く売り払った。買った国はセリカ国という。


  財をなしたアスファリア共和国の独裁者はその利益を持って国外逃亡した。 壊れたのは、少女の国、エルナ国だった。

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