白日夢
八尾倖生
第一章「夢」 1
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皆様、こんにちは。
人工的な温暖とできる限りの厚着で外気から目を逸らす閉鎖的な寒冬から、窓を開けて風の心地に触れる勇気が生まれる早春がやってまいりました。
皆様は、いかがお過ごしでしょうか。地域によっては、春の訪れなど
失礼しました。私は小野寺茜と申します。名乗るのが遅れてしまい申し訳ありません。
そうですね、こういう場合、名前の由来などをお伝えするのが会話の間を繋ぐ秘訣だと、以前の上司にお酒の席で教わったので一応お伝えしておくと、と言っても、私がこの世に顔を覗かせた瞬間の空が、たまたま茜色だったから、なんていうありきたりな余談でしか皆様の有意義な時間にお茶を濁せない、つまらない女なのです。
もしお付き合いしていただけるのならば、もう少々だけ自己紹介をさせていただきます。
年は三十五歳です。仕事は航空機や鉄道車両などの輸送機器、その他機械装置を製造している重工業メーカーに勤めています。仕事内容は様々ですが、基本的には製品の設計や流通の管理をしたり、顧客のニーズや要望を調査したり、場合によってはあまり気乗りしないのですが、オフィスにかかってくる電話の対応や、クレームの処理なんかをしています。入社以来なんだかんだ十年以上はこの仕事をしているのでそこそこの知識や経験を身に付けている自負はありますが、とはいえ特別な専門知識や難関な資格を持っているわけではないので、仕事のやりがいや楽しさに物足りなさを感じていると問われたら否定はできないかもしれません。
だからこそ着々と出世の階段を昇っていく同期たちを見ていると、自分が情けなくなることもたまにあります。昔から勉強だけはできて、私立ではありますが一流と名のついた東京の大学に進んで、就職活動も色々と苦労はありましたが、なんとか歴史ある大企業の片隅に入り込めて、故郷の両親や親戚からはチヤホヤされていた人生でしたから、いざ自分が大都会の片隅にいる一人の人間でしかないことを悟ると、途端に情けなくなるのです。自分は現実しか知らなかったのだと、自分は現実しか見てこなかったのだと、もっと大きな現実、言い換えるなら「社会」を相手にしている人たちを見て、自分のちっぽけさに打ちのめされるのです。文芸に明るいわけでもなく、流行に敏感なわけでもない、本当にただの中途半端な人間だったと、ありのままの現実が教えてくれるのです。私には三つ下の妹がいるのですが、もうすぐ第二子が生まれる妹は、私のことを心底毛嫌いしています。姉は勉強しかできないつまらない女であり、だから子供はおろか相手が見つかる気配もなく結婚すらできないのだと、軽蔑の目を向けるのです。それなのに世間的には東京の大企業で自立している私の方がチヤホヤされるのですから、面白いと思うはずがありませんね。そんな評価も消費期限は持って五年前までで、今では立派に子育てをこなしている自分の方が社会からは必要とされているのだと、さぞほくそ笑んでいることでしょう。
実際、そういった風潮に反抗する気はありません。私には、反抗するだけの説得力がありません。周囲の雑音を消し去るほどの充実したキャリアを歩めているのなら、私だって現実で胸を張れるのです。しかし私に、自分の道を進む覚悟はなかった。環境を変える勇気もなかった。そうして出来上がったのが、小野寺茜という一人の人間です。一日一日をただ必死なフリして生きている、誰かの夢の片隅に出てくる一人の人間、それだけです。
そんな私にも最近、新しい趣味ができました。それは、物語を読むことです。読書とは少し違った、とはいえ他人の興味を惹きつけるほど変わっているとも言い切れない、細やかな生きがいです。とりあえず今は曖昧な表現に留めておいて、後々詳しい説明をすることにします。とにかく最近、と言うよりここ数年間、私が夢中になっているのは、物語を読むことです。
最後に、もしかしたら一人や二人くらい気にかけてくれているお優しい方がいるかもしれないので、異性関係についてのお話をして、この項を締め括りたいと思います。関心のない方は、読み飛ばしていただいて結構です。
既に若干触れてはいますが改めて説明すると、私は今、独身です。今という言い方は正しくありませんね。ずっと、独身です。なので当然、子供はいません。実家やテナルディエの宿屋なんかに預けている隠し子もいません。大学進学と同時に親元を離れてから、十年以上身一つで生きてきました。ただしその間に、浮いた話が何一つなかったわけではありません。幾人の男性とお付き合いを致したことはあります。性経験も、二十一歳のときに初めて交際した男性との間で済ませました。確かあの日も、茜色の夕焼けが綺麗な春の一日でした。いえ、そんな記憶は、とっくに春の嵐に吹き飛ばされていったのですから、今さら蒸し返す必要はありませんね。
では今日、関係を持っている男性があるかと言うと、答えはイエスです。ここまで読んでくださった方々がどのような期待をお持ちになっていたかはわかりませんが、私には今、異性関係を結んでいる男性がいます。その彼とは、同棲もしています。五年前に引っ越してきた杉並区にある西荻窪という駅から徒歩七分ほどのマンションに、二年前から一緒に暮らしています。近くの小学校に通う子供を育む前途溢れた家庭も、子供を社会に送り出し悠々自適に余生を過ごす老夫婦も、ひいては私たちのようなどっちつかずの風来坊も、この閑静な住宅街の一角にひっそりと
そういう基準に則っていいのならば、私たちも、幸せだと言えます。仕事を終えて十九時半頃に帰宅すると、いつも彼が出迎えてくれます。彼は料理が不得手なので、それから二人分の夕飯を
以上で、小野寺茜という女の自己紹介を締め括らせていただきます。ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございます。さして長い文章にはなりませんでしたが、それでも皆様から一時を頂いたのですから、感謝してもし切れません。ここまで、あっと言わせるような風変わりな展開もなく、かと言って角が立つこともない凡俗な閑話でさぞ退屈な時を過ごされたでしょう。そのお詫びと言ってはなんですが、一つだけ、おそらく世間的には風変わりと思われる、私と彼の関係についてお伝えして、この項の結びとさせていただきます。
私と同棲している男性、即ち彼は、私より十歳若い二十五歳の青年です。小説を読んだり映画を観るのが好きで、好きな小説は『アルジャーノンに花束を』、好きな映画は『グラン・トリノ』、二人で初めて一緒に観た映画作品も『グラン・トリノ』でした。
そして、彼は、小説家を目指しています。春の情緒溢れる休日の白日でも、パソコンと向かい合っています。
そんな彼を、私は、心の底から愛しています。
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