第26話 国家試験(ボード・エグザミネーション)

私たちの間に、決定的な断絶が生まれてから、季節は、容赦なく移り変わった。


あれほど鮮やかだったキャンパスの木々の葉は、一枚、また一枚と散り落ち、やがて、冷たい冬の風が、裸になった枝の間を、寂しげに吹き抜けるようになった。


私たちの会話は、完全に、途絶えた。

それは、あまりにも苦痛で、息苦しい、静寂だった。

しかし、その静寂を破るための言葉を、私たちは、見つけられないままでいた。

互いに深く傷つき、そして、どうしようもなく、相手を求め続けている。

そんな矛盾した感情を持て余したまま、私たちは、医学生として、避けては通れない、最後の試練の時を迎えようとしていた。


医師国家試験。

二月。試験本番まで、残り一ヶ月を切った大学は、異様なほどの緊張感に包まれていた。

二十四時間開放された図書館は、カフェインと、学生たちの疲弊したため息と、そして、紙の匂いで、満たされている。

誰もが、分厚い参考書と、過去問題集の山に、顔を埋めていた。

そこに、私語はない。

あるのはただ、合格という、たった一つの目標に向かって、己の全てを捧げる、孤独な戦いだけだった。


私も、その孤独な戦士の一人だった。

凛と会えなくなった心の空白を埋めるかのように、私は、狂ったように、勉強に没頭した。

食べて、勉強して、数時間だけ仮眠して、また、勉強する。

そんな、色のない、モノクロームの日々。


同じ空間に、いつも凛がいることには、気づいていた。

図書館の、一番奥の、窓際の席。そこが、彼女の定位置だった。

私が、彼女の姿を視界に入れるたびに、胸の奥が、鈍く痛んだ。

彼女は、以前よりも、明らかに痩せていた。

その頬はこけ、ただでさえ白い肌は、まるで陶器のように、血の気がない。

それでも、彼女は、鬼気迫るほどの集中力で、一日十五時間以上、机に向かい続けていた。

その姿は、まるで、命を削っているかのようだった。


(凛ちゃん…)


声をかけたい。

ちゃんと寝てるの、と聞きたい。

無理しないで、と言いたい。

けれど、その全てを、彼女自身が、拒絶している。

私なんかが、彼女の邪魔をしてはいけない。

私にできるのは、ただ、彼女と同じように、この戦いを、最後まで戦い抜くことだけだった。


そんなある日の、深夜。

終日開館している大学図書館で、私は完全に壁にぶつかっていた。

目の前には、複雑に絡み合った、神経叢(しんけいそう)の解剖図。

何度見ても、どの神経がどの筋肉を支配しているのか、頭に入ってこない。

焦りと、疲労と、そして、どうしようもない孤独感で、視界がじわりと滲んだ。


もう無理かもしれない。

私は、参考書の上に、突っ伏した。

冷たい机の感触が、火照った額に、心地よかった。

このまま、眠ってしまいたい。

全てを、忘れてしまいたい。

涙が、こぼれ落ちそうになるのを、必死でこらえた。


その時だった。

私の机の、すぐ横に、とん、と、何かが置かれる、小さな音がした。

顔を上げると、そこには、湯気の立つ、温かい缶コーヒーと、一枚の、小さなノートの切れ端が、置かれていた。


ハッとして、周りを見渡す。

凛が、私に背を向けて、自分の席へと戻っていくところだった。


私は呆然としながら、その切れ端を手に取った。 そこには、凛の几帳面で美しい文字と、色分けされた見事なイラストがあった。私が悪戦苦闘していた、あの神経叢の、完璧な覚え書きが記されていた。


『…ここの分岐を、いつも間違えるだろう』


声が、聞こえた気がした。

いつかの、旧実習室での、彼女の声。

ノートの隅には、彼女が、私のためだけに作ったであろう、ユニークな語呂合わせまで、書き添えられている。

その不器用な優しさに、私の涙腺はついに決壊した。


私は、ノートを胸に抱きしめ、声を殺して、泣いた。

彼女は、見ていてくれたのだ。

私が、一人で苦しんでいるのを。

私が、壁にぶつかっているのを。

そして、私たちが、どんなに遠く離れてしまっても、彼女は私のことを誰よりも、見ていてくれた。理解してくれていたのだ。


私は携帯を取り出し、震える手でメッセージを送った。


『ありがとう』


すぐに、返信が来た。たった、一言だけ。


『試験に、私情は挟むな。今は、合格することだけを考えろ』


その、あまりにも彼女らしい、ぶっきらぼうな言葉。

けれど、そのメッセージを、私は、何度も、何度も、読み返した。

そして、その最後に書き加えられた言葉を、噛みしめた。


『二人で』


その、たった二文字が、凍てついていた私の心を、ゆっくりと、溶かしていった。

私たちの戦いは、孤独じゃなかった。私たちは、別々の場所で、同じ敵と、戦っていたのだ。


その日を境に、私たちの間に、言葉のない、交流が生まれた。

私が、先に図書館を出る日には、凛の机に、栄養ドリンクを置いていく。

凛が、先に帰る日には、私の机に、彼女がまとめた、要点集のコピーが、置かれている。

会話はない。視線も、交わさない。

しかし、私たちは、確かに、共に、戦っていた。


* * *


そして、運命の、試験当日。

雪がちらつく、寒い朝だった。全国から集まった、数千人の受験生でごった返す、巨大な試験会場。

その、張り詰めた空気の中、私は、凛の姿を見つけた。

人混みの中で、彼女は、一人、静かに、壁に寄りかかって、参考書の最終確認をしていた。

私たちの目が、合った。 数ヶ月ぶりに、真っ直ぐに、交差する、視線。


凛は、何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。

しかし、その一瞬の交錯に、全ての、言葉が、想いが、込められていた。


(頑張ろうね)

(ああ)


私たちは、静かに、頷き合った。

そして、それぞれの戦場へと、向かった。


私たちの未来が、どうなるのかは、まだ、分からない。

けれど、今は、ただ、この二日間を、生き抜くこと。

そして、必ず、二人で、あの桜が咲く季節を、もう一度、迎えること。


その、たった一つの、共通の願いだけを、胸に抱いて。

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