第21話 初めての夜、初めての朝(オキシトシン)

手を繋いだまま、私たちは、夜の街を歩いた。


その道程は、ひどく短く、そして永遠のようにも感じられた。

私の部屋の、古びたアパートのドアの前に立った時、どちらからともなく、私たちは、足を止めた。


「……送ってくれて、ありがとう」


私が、そう言うと、凛は、何か言いたそうに、しかし言葉を見つけられずに、ただ、こくりと頷いた。

繋いだ手に、ぎゅっと、力がこもる。


(このまま、帰したくない)


その想いは、きっと、彼女も同じだったのだろう。


「えーと、……お茶、飲んでいく?」


私の言葉に、凛は、まるで待ちかねていたかのように、もう一度、深く、頷いた。


部屋に入り、明かりをつける。

そこにあるのは、私が倒れたあの日と、何も変わらない、雑然とした空間。

しかし、その全てが、今夜は、違って見えた。

この部屋は、凛が私を介抱してくれた場所。そして、私たちが、初めてキスをした場所だ。


私は、慣れた手つきでお湯を沸かし、凛は、まるで初めて訪れた美術館のように、私の部屋の、他愛もない雑貨たちを、一つ一つ、興味深そうに眺めていた。

マグカップを二つ、テーブルに置く。

その、ことり、という小さな音が、静かな部屋に、やけに大きく響いた。


「…私は」

向かい合って座ると、凛が、ぽつりと口を開いた。

「これから、どうすればいいのか、分からない」


それは、彼女の、悲痛なほどの、正直な告白だった。

これまで、彼女の人生は、完璧な理論と、揺るぎない目標だけで、構築されてきた。しかし、私という、論理では説明のつかない存在が、その設計図を、根底から覆してしまったのだ。


「私も、分からないよ」


私は、湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら、微笑んだ。


「でも、それでいいんじゃないかな。分からないことは、これから、二人で、一つずつ、分かっていけばいいんだよ」

「君は…」


凛は、迷子の子供のような目で、私を見つめた。


「…後悔しないのか。私のような、面倒で、冷たくて、不器用な人間と、一緒にいて」

「後悔なんて、するわけないよ」


私は、テーブルの上に置かれていた、彼女の冷たい左手に、自分の右手を、そっと重ねた。


「だって、私は、ずっと、凛ちゃんの隣にいたかったんだから。あなたが、どんなに冷たくても、どんなに不器用でも、私は、あなたの隣がよかったの」


私の温もりが、彼女に伝わっていく。

凛の瞳が、ゆっくりと、潤んでいくのが分かった。

私たちは、もう、言葉を探すのをやめた。

私は、椅子から立ち上がると、彼女の元へと歩み寄り、その前に、静かに、膝をついた。

そして、見上げるようにして、彼女の唇に、そっと、自分の唇を重ねた。


それは、問いかけのキスだった。

凛は、一瞬だけ、息を呑んだ。

しかし、彼女は、もう、逃げなかった。

彼女は、ゆっくりと、その瞼を伏せると、私のキスを、受け入れた。


その夜、私たちは、初めて、一つになった。

それは、これまで二人で重ねてきた、どの「診察」よりも、ずっと、深く、濃密な、互いを理解するための、聖なる儀式だった。


凛の身体は、私が知っている通り、しなやかで、引き締まっていた。

しかし、その肌は、私が思っていたよりも、ずっと、温かかった。

彼女が、私の名前を、掠れた声で呼ぶ。

私が、彼女の背中に、指を立てる。

私たちは、互いの身体という、最も美しい言語で、これまで言葉にできなかった、全ての「好き」を、伝え合った。


凛は、私の身体の、全てを知りたがった。

彼女の指は、まるで解剖図をなぞるかのように、私の静脈の走行を、そっと、辿っていく。


「…浅頭筋膜を貫いて、皮下を走る、橈側皮静脈(とうそくひじょうみゃく)…。君の体温で、拡張しているのが分かる…」


その声は、学術的な響きとは全く違う、甘く、そして熱っぽい響きを帯びていた。

それは、彼女だけが使える、最高の、愛の言葉だった。


私は、彼女の胸に、そっと、耳を当てた。

ドクン、ドクン、ドクン… これまで、聴診器越しにしか聞いたことのなかった、彼女の心音が、私の鼓膜を、直接、震わせる。


「凛ちゃんの心臓、すごい速さ…。もう、私のと同じだね」

「……うるさい」

凛は、そう言って、私の頭を、ぎゅっと、抱きしめた。

「……君のせいで、めちゃくちゃだ」


私たちは、互いの名前を呼び合い、互いの身体を貪り、そして、何度も、一つになった。

夜が更け、月が窓の外を通り過ぎていくのも、気づかないまま。


***


翌朝。 私は、身体を優しく揺さぶられる感覚で、目を覚ました。

瞼を開けると、そこには、信じられない光景が、広がっていた。


凛が、私のすぐ目の前にいた。

彼女は、眼鏡を外した、無防備な素顔で、私の髪を、愛おしそうに、指で梳いている。

朝の柔らかい光が、彼女の顔を、優しく照らし出していた。

氷の女王は、もう、どこにもいない。

そこにいるのは、ただ、穏やかで美しい一人の女性だった。


私が目を覚ましたことに気づくと、彼女は、一瞬だけ、はにかむように、視線を逸らした。

しかし、すぐに、私を見つめ返すと、その唇に、私が今まで見た中で、最も優しい笑みを、浮かべた。


そして、彼女は、言った。 世界で、一番、聞きたかった、その言葉を。

「……おはよう、柔」

その瞬間、私の、私たちの、本当の朝が、ようやく、始まったのだ。

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