第4話 温かい聴診器(アウスカルタシオン)

秘密の「勉強会」が日課になってから、一週間が経った。

夕暮れの旧実習室は、すっかり私たちの聖域となっていた。


氷川凛は毎日、違うテーマを掲げて私の身体を「研究」した。

ある日は呼吸機能、またある日は皮膚の電気抵抗値。

彼女が持ってくる機材は日に日に専門的になり、私の身体にはいくつもの電極やセンサーが取り付けられた。

そのたびに、私はまな板の上の鯉になった気分だったが、不思議と嫌な気はしなかった。

むしろ、氷川さんの真剣な眼差しを一身に浴びることに、一種の心地よさすら感じ始めていた。


その日のテーマは、「心音聴取における体位変換の影響」だった。


「立位、座位、左側臥位(そくがい)。それぞれの体位で心音がどう変化するかを記録する。特に、僧帽弁領域で聴取されるⅢ音とⅣ音の有無に注意したい」


氷川さんはそう言って、自前の聴診器を首にかけた。

それはドイツの有名メーカーのもので、ステンレスのチェストピースが鈍い銀色の輝きを放っている。

彼女のような完璧主義者が選ぶにふさわしい、最高級のモデルだった。


「まず、座位からだ。綿貫さん、そこの椅子に座って、少し胸を張って」

「は、はい」


私は言われるがままに、パイプ椅子に腰掛けた。

氷川さんは私の正面に立つと、おもむろに聴診器のチェストピースを握り、自分の手のひらで数秒間、それを温め始めた。


「え…?」

「なんだ?」

「いえ、どうして温めてるのかなって…」

「当たり前だ。冷たいままだと被験者に不快感を与え、筋性防御を誘発する。正確な聴診の妨げになるだろう。基礎中の基礎だ」


氷川さんはさも当然のように言ったが、私はその何気ない仕草に胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

これまで受けたどの実習でも、教官ですら、こんな細やかな配慮をしてくれたことはなかった。

彼女の「氷の女王」という仮面の下には、実は誰よりも繊細な、医療人としての優しさが隠れているのかもしれない。


人肌に温められたチェストピースが、私のスクラブシャツの胸元にそっと当てられる。まずは心臓の「大動脈弁領域」である右胸の上部から。


ドクン…ドクン…


氷川さんの耳に、私の心音が直接流れ込む。

静かな実習室に、私の生命の音だけが響いているかのような錯覚。

彼女は少しも動かず、全神経を耳に集中させていた。

その真剣な横顔を見ていると、私の心臓は「お願いだから、静かにしていて!」という願いとは裏腹に、どんどん鼓動を速めていった。


「……やはり、少し頻脈気味だな」

「ご、ごめんなさい…」

「謝る必要はない。これもデータだ。次に肺動脈弁領域…」


氷川さんはチェストピースを左胸の上部へと滑らせる。

そして、三尖弁領域、僧帽弁領域と、教科書通りの順番で丁寧に聴診を進めていく。

彼女の指が時折、シャツ越しに私の肌に触れる。そのたびに、私の心拍数は正直に、数値を少しだけ上げた。


氷川さんが、怪訝な声を上げた。

「…おかしいな」

「何か、変な音がしましたか…?」

「いや、雑音(マーマー)はない。Ⅰ音とⅡ音も明瞭だ。だが…なんだ、この微細な振動は…。まるで、心臓が君の感情と直接リンクしているようだ」


彼女はそう言うと、聴診器を当てたまま、じっと私の顔を見つめた。

その黒い瞳に吸い込まれそうで、私は慌てて視線を逸らす。


「そ、そんなことないですよ。ただの、緊張です」

「緊張、か。面白い。君という検体は、精神的要因がバイタルサインに極めて顕著に現れる。非常に興味深い症例だ」


彼女の口から出る「検体」や「症例」という言葉に、以前なら感じていたはずの冷たさや抵抗感が、今はもうなかった。

むしろ、彼女にそう呼ばれることが、特別なことのようにすら感じ始めていた。


「よし。次は、君が私の心音を聴いてくれ」

「えっ!?私が、氷川さんを?」

唐突な提案に、私は素っ頓狂な声を上げた。

氷川さんは「当然だ。比較対象がなければ、客観的な評価はできない」と言いながら、いとも簡単に自分の首から聴診器を外すと、私に手渡した。


「ほら、早くしろ。時間が惜しい」

「う、うん…」


手渡された聴診器はずっしりと重く、まだ氷川さんの体温が微かに残っていた。

私は恐る恐るそれを自分の耳にかけると、場所を交代し、彼女の前に立った。

氷川さんは椅子に座ったまま、少しも臆することなく、自分のスクラブシャツのボタンを一つ、二つと外していく。


「…っ!」


あらわになった、白い肌。

その滑らかな曲線の上に浮かび上がる、繊細な鎖骨のライン。

私は目のやり場に困り、視線を泳がせた。


「何をためらっている。正確な聴診のためには、直接、肌に当てるのが最も効率的だ。違うか?」

「ち、違わない、です…」

「なら、早くしろ」


有無を言わせぬ口調。私は覚悟を決め、震える指でチェストピースを握りしめた。

自分の手のひらでそれを少しだけ温めてから、彼女の白い肌の上へと、そっと置いた。

その瞬間、氷川さんの身体が、ほんのわずかに「びくっ」と震えたのを、私の指先は見逃さなかった。


「…つめ、たい」

「え?温めたんだけど…」

「君の手が、温かすぎるんだ」


氷川さんは、そう言って、ぷいと顔を背けた。

その白い首筋が、ほんのりと赤く染まっているように見えたのは、きっと西日のせいだろう。


私は気を取り直して、彼女の心音に集中した。

トクン…トクン… 私のそれよりも、少しだけゆっくりで、そして力強い鼓動。

それは、彼女の冷静沈着な性格をそのまま表しているかのような、安定したリズムだった。


「…どうだ?何か聞こえるか?」

「ううん、すごく、綺麗で、規則正しい音…。さすが、氷川さんだね」

「『綺麗』などという主観的な表現はデータにならない。もっと客観的な所見を述べて」

「えーっと…Ⅰ音もⅡ音も明瞭で、分裂や雑音は聴取されません。心拍数は…たぶん、60くらい?完璧な心音です!」


私がそう言って顔を上げると、氷川さんは少しだけ満足そうな、しかしどこか不満げな、複雑な表情をしていた。


「…そうか」


次の瞬間、氷川さんが思いもよらない行動に出た。

彼女は私の手を取り、聴診器のチェストピースを握った私の手を、そのままぐっと引き寄せた。

そして、それを自分の胸の、左側に、より強く押し当てさせたのだ。


「ひゃ…!」

「ここだ。私の心臓は、ここにある」


スクラブシャツ越しではない。

彼女の素肌の温かさ、そしてその下にある、力強い生命の鼓動が、私の手のひらを通じて、ダイレクトに伝わってくる。


トクン、トクン、トクン…


それは、先ほどよりも明らかに速くなっていた。

私が聴いていた、あの冷静で安定したリズムでは、もうない。


「氷川さん…これって…」

「…うるさい」

「でも、すごく速いよ?どこか具合でも悪いの…?」

「……君のせいだ」


氷川さんは、絞り出すような声でそう言った。


「君が、そんな温かい手で触るから、私のペースメーカーが乱れるんだ…っ」


彼女の言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

ただ、手のひらに感じる、どんどん速くなっていく彼女の鼓動が、まるで彼女の言葉にならない叫びのように聞こえて、私は聴診器を握りしめる手に、ぐっと力を込めた。


夕陽が沈み、部屋が薄暗闇に包まれ始める。

私たちは、どちらからともなく、互いの心音を聴き合う体勢のまま、時間が経つのも忘れて、じっと動かずにいた。


私の少し速い心音と、それを聴いて速くなった彼女の心音。

二つの鼓動が、静かな実習室で、不器用な二重奏を奏でていた。

それは、どんな教科書にも載っていない、私たち二人だけが解読できる、初めての診察記録(カルテ)だった。

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