第2話 地下鉄の幻影
迷宮駅の奥深く。黒崎と美咲は、異界車両の幻影に囲まれ、足元の線路が消えそうな感覚に襲われていた。列車のドアは開き、内部からは薄暗い光と囁き声が漏れる。
「黒崎さん……これ、本当に現実ですか?」美咲は声を震わせ、手を握りしめる。
「幻覚も現実も、今は同じだ。足を踏み外せば、記憶も意識も飲まれる」黒崎は懐中電灯を握り直し、心を鎮める。
二人は歩きながら、緊張の中で小さな会話を交わす。
「黒崎さん、今日はちゃんと寝ました?」
「昨日も事務所で書類整理だ。お前は?」
「私は……駅のベンチで少し仮眠しました。やっぱり眠れないですね、こういうところでは」
「それも仕方ない。だがお前が元気なら安心だ」黒崎の声に、美咲は小さく笑った。
車両に近づくと、内部には過去の犠牲者の残像が浮かんでいた。床に倒れた人々、天井を這う触手、微かに笑う声……。目を逸らすと、別の幻が目に飛び込む。黒崎は深呼吸し、意識を集中させる。
「美咲、目を閉じて声だけを聞くんだ。幻覚の形に惑わされるな」
美咲は黒崎の言葉に従い、目を閉じる。すると、脳内に響く囁き声が強烈な誘惑へと変化し、心の奥に直接入り込んでくる。
『来て……深く沈めば楽になる……黒崎も、あなたも……』
「うっ……!」黒崎は手で耳を押さえ、声の奔流に耐える。だが、美咲がそっと肩に触れた瞬間、幻覚が少し和らぐ。
「大丈夫……私がいる」美咲の言葉が、意識を支える光となった。
『……まったく、あんたって子は……』
美咲の体が震え、目の前に記憶の断片が鮮明に甦る。
幼い日の光景――母と父の怒声が部屋に響き渡る。
「何をやってもダメね!」
「お前なんて産まなきゃよかった!」
心の奥で美咲の意識が揺らぎ、涙が頬を伝う。黒崎はすぐに気付き、そっと肩に手を置く。
「美咲……怖いのは今だけだ。過去はもう、ここにはない」
「でも……でも、あの声が……!」美咲は声を震わせ、膝を抱え込む。
黒崎は優しく肩を叩き、落ち着いた声で言った。
「俺がいる。俺の声だけを聞け。もう一人じゃない」
美咲の意識が少しずつ戻り、涙とともに力を取り戻す。
「……黒崎さん……ありがとう」
黒崎は微かにうなずき、美咲の体温が、襲い来る囁きの音量を一瞬下げた。彼女を支えているようで、実は俺も美咲に支えられている。この絆こそが、異界での唯一の防御壁だ。
暗闇の中、揺れる列車の先を見据える。
「あの中心部に……異界の核がある。ここを何とかすれば、列車も幻影も消える」
二人は互いに手を握り合い、恐怖に耐えながら車両内部へ足を踏み入れる。床のガラス板の下には、無数の目が彼らを見つめ、触手がゆっくりと迫る。
「核の位置を……ここだ!」黒崎は目の前の不規則な光の塊を指差す。そこには、漆黒の塊に吸い込まれたかのような人影が渦巻き、囁き声を増幅させていた。
美咲は勇気を振り絞り、黒崎と共に塊へ触れる。黒い悪意をはじいた強い心が黒崎に静かに伝わって行く……二人の意識が完全に集中した瞬間、核が閃光を放ち、地下鉄全体が震動する。
目を開けると、幻覚の車両は薄れ、迷宮駅は静まり返っていた。倒れていた影の人物たちも、徐々に現実の姿を取り戻す。
「……うまくいったの?」美咲は震える声で黒崎に尋ねる。
「……まだ油断はできん。異界の力は完全に消えたわけじゃない」黒崎は深呼吸し、肩の力を抜く。「だが、今回の核は分散できた。少なくとも、当面は安全だ」
駅の外に出ると、冷たい夜風が顔に当たり、現実の匂いが戻る。美咲は黒崎の手を握り直し、静かに笑った。
「……生きて戻れてよかった」
黒崎は微かに笑みを返す。先ほどまでの地獄のような緊張が、嘘のように思える夜の東京だった。
「ああ。でも、忘却の地下鉄はまだ続いているかもしれない。次の異界車両が現れる前に、手を打たねば」
二人は駅を後にし、闇に消える列車の残像を見つめた。地下鉄の幻影は、まだ完全には消えていなかった――
次回 第3話「潜む記憶の影」に続く――
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