古書店の片隅で、もう一度
はるさき
古書店の片隅で、もう一度【前編】
神保町。世界一の本の街。その大通りから一本脇に入った、忘れられたような路地に「一ノ瀬書店」はある。僕、一ノ瀬湊(いちのせ みなと)の、城であり、同時に抜け出せない牢獄でもある場所だ。
二十九歳。三ヶ月前に亡くなった祖父から、この店をほとんど無理やり継がされた。子供の頃から、この店のインクと古い紙の匂いが好きだった。本棚の迷宮を探検しては、知らない世界へと旅をするのが唯一の趣味だった。本は好きだ。誰よりも、深く愛している自信がある。
だが、それと経営の才能は全くの別問題だった。
「湊、これじゃ今月も赤字だぞ」
月に一度、顔を出す税理士の言葉が、埃っぽい空気に重く沈む。客足は遠のき、時代遅れの店構えは新しい客を呼び込もうとはしない。本を愛する気持ちだけでは、店の家賃すら払えない。それが、僕がこの三ヶ月で学んだ、どうしようもない現実だった。
カウンターの奥、祖父の指定席だった場所でため息をつく。窓の外は、朝からしとしとと雨が降っていた。雨の日は、客足がさらに遠のく。まるで世界から取り残されたような静寂の中で、僕はただ、過ぎていく時間を眺めていた。
ちりん、とドアベルが鳴ったのは、昼下がりを過ぎた頃だった。珍しい、と思った。こんな雨の日に、わざわざうちのような店を訪ねる客はほとんどいない。
入り口に立っていたのは、トレンチコートを着た一人の女性だった。折りたたみ傘の雫を丁寧に払いながら、彼女は静かに店内を見回した。歳の頃は、僕と同じくらいだろうか。きつく結われた髪、理知的な光を宿す瞳。仕事ができそうだ、というのが第一印象だった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。少し、探している本がありまして」
澄んだ、よく通る声だった。彼女は僕の前まで来ると、手帳に書き留めていたらしい文字を読み上げた。
「月村海斗(つきむら かいと)の、『水無月の恋人』という本ですが…ご存じですか?」
その名前を聞いた瞬間、僕は息を呑んだ。
月村海斗。昭和初期に数編の短編を残しただけで、ほとんど忘れ去られた作家。そして『水無月の恋人』は、彼の唯一の長編小説。あまりに売れなかったため、初版が世に出回ったきりの、正真正銘の絶版本だ。
「ええ、知っています。ですが、うちにも在庫は…」
「そうですか…」
彼女は、残念そうに眉を寄せた。その表情を見て、僕は思わず口を開いていた。
「どうして、その本を?月村海斗を知っている人なんて、今どきほとんどいないはずですが」
僕の問いに、彼女は少し驚いたように目を丸くし、それからふわりと微笑んだ。
「大学のゼミで読んで、ずっと忘れられなくて。もう一度、どうしても読みたくなったんです」
「大学の、ゼミ…?」
まさか。そんな偶然があるだろうか。
「近代文学の、桜木ゼミです」
彼女が告げた名前に、僕の心臓が大きく跳ねた。桜木ゼミ。僕が所属していた、あのゼミだ。七年前、毎週のように仲間と文学論を戦わせた、あの教室。
「僕も…桜木ゼミでした。七年前に卒業した…一ノ瀬湊です」
「えっ…?」
今度は彼女が絶句する番だった。僕たちは、互いの顔をまじまじと見つめ合った。記憶の引き出しが、ぎしぎしと音を立てて開かれていく。そうだ。ゼミの発表で、いつも的確な考察を披露していた、あの人だ。凛とした横顔。僕が、遠くから密かに憧れていた…。
「三崎…栞さん?」
「はい!そうです、三崎栞です!一ノ瀬くん、だよね?いつも静かに本を読んでいた…」
記憶が繋がった瞬間、二人の間にあった見えない壁が、すっと消えた気がした。七年という歳月を飛び越えて、僕たちはただの店主と客から、懐かしい「同級生」になった。
それからしばらく、僕たちはゼミの思い出話に花を咲かせた。厳しかった桜木先生のこと、合宿で飲み明かしたこと、そして『水無月の恋人』をテキストに、みんなで議論した日のこと。
「まさか、一ノ瀬くんが古本屋を継いでいたなんて」
「祖父の店なんだ。継いだというか、押し付けられたというか…」
僕は自嘲気味に笑った。すると、彼女は店内をもう一度ゆっくりと見回し、真剣な眼差しで言った。
「もったいないですよ。こんなに素敵な本がたくさん眠っているのに、知られていないなんて」
その言葉は、僕がずっと感じていた、しかし目を背けてきた核心を的確に突いていた。彼女は、今、大手出版社で編集者をしているという。職業柄、本の価値や見せ方には誰よりも敏感なのだろう。
「棚の並べ方、少し変えてみませんか?あと、SNSとか…」
「SNS?」
「ええ。このお店のファン、きっとたくさんいますよ。私みたいな、昔の本を探している人が」
彼女の瞳は、仕事モードの編集者のそれに変わっていた。その熱量に気圧されながらも、僕は藁にもすがる思いだった。
「もしよかったら、少しだけ、お手伝いさせてもらえませんか?同級生のよしみで」
悪戯っぽく笑う彼女からの申し出を、僕が断れるはずもなかった。
その週末から、僕たちの「一ノ瀬書店・再生プロジェクト」は始まった。
まず着手したのは、SNSのアカウント開設だった。スマホの操作もおぼつかない僕に、三崎さんは手取り足取り教えてくれた。
「大事なのは、ただ本の情報を載せるんじゃなくて、『物語』を伝えることです。この本がどんな旅をしてここへ来たのか、とか」
彼女のアドバイスは、常に的確だった。僕が選んだ古書に、彼女が魔法のような紹介文をつけていく。僕が撮った拙い写真に、彼女が絶妙なハッシュタグを添えていく。二人でスマートフォンの小さな画面を覗き込み、ああでもない、こうでもないと相談する時間は、不思議と胸が弾んだ。
次に、店内の大改装に取り掛かった。
「ここに特集コーナーを作りましょう。『雨の日に読みたい一冊』とか、『珈琲と楽しむ文学』とか」
三崎さんのアイデアは無限に湧き出てくるようだった。僕たちは、何十年も動かしたことのない本棚を、埃まみれになりながら動かした。汗だくになって本を運び、テーマごとに分類し、並べ替えていく。
作業の途中、三崎さんが僕の顔を見てくすくすと笑った。
「一ノ瀬くん、鼻の頭に埃がついてる」
「え、本当?どこ?」
「ふふ、ここ」
そう言って、彼女が細い指先で僕の鼻をそっと拭った。その瞬間、僕の心臓は止まりそうなくらい大きく跳ねた。インクと古紙の匂いに混じって、彼女の石鹸のような清潔な香りがふわりと鼻をかすめる。
「ご、ごめん」
「ううん、私もすごい顔してると思う」
彼女はそう言って、自分の頬を手の甲で拭い、顔に黒い筋を作って見せた。その無邪気な笑顔に、僕はまた胸を締め付けられた。大学時代に見ていた、あのクールな才女のイメージは、良い意味でどんどん崩れていった。彼女も、僕と同じように笑ったり、悩んだりする、一人の女性なのだ。
一ヶ月も経つ頃には、店の雰囲気は目に見えて変わっていた。SNSのフォロワーは少しずつ増え、投稿を見て店を訪ねてくれる若いお客さんも現れ始めた。これまで店の前を素通りしていた人が、特集コーナーのポップに足を止め、ふらりと入ってきてくれる。その一つ一つの変化が、僕にとっては奇跡のように思えた。
ある日の作業終わり。僕たちは、近くの純喫茶で休憩していた。
「三崎さんのおかげだよ。本当に、なんてお礼を言ったらいいか…」
テーブルの向かい側で珈琲カップを傾ける彼女に、僕は心からの感謝を伝えた。
「ううん。一ノ瀬さんの、本への愛情が伝わっただけですよ。私がしたのは、その伝え方を少し変えただけ」
彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
「それに、楽しかったです。編集の仕事とはまた違う、本の届け方が見つかった気がして」
その言葉が、僕には何よりも嬉しかった。彼女が、義務や同情ではなく、心から楽しんで手伝ってくれている。その事実が、乾いた心に温かい雫のように染み渡っていく。
ふと、僕は思い出した。
「そうだ、『水無月の恋人』。まだ見つかってないね」
「あ…」
「市場にもなかなか出てこない本だから、気長に待ってて。でも、約束するよ。必ず、僕が見つけてみせる」
僕が力強くそう言うと、彼女は少し驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに「ありがとう」と呟いた。
その日の帰り道。彼女と駅で別れた後、僕は一人、夜の神保町の雑踏の中にいた。ショーウィンドウに映る自分の姿は、数ヶ月前と何も変わらない、冴えない男だ。けれど、胸の中には、今まで感じたことのない熱い感情が渦巻いていた。
大学時代、遠くから見つめるだけだった憧れ。それは今、はっきりとした輪郭を持った「恋心」として、僕の心を占拠していた。
しかし、同時に、冷たい現実が頭をもたげる。彼女は、誰もが知る大手出版社のエリート編集者。一方で僕は、潰れかけの古書店の、頼りない二代目店主。住む世界が違いすぎる。彼女の親切は、あくまで「同級生へのよしみ」であって、それ以上のものではないのかもしれない。
ようやく見つけた、淡い光。それに手を伸ばしていいのかどうか、僕にはまだ分からなかった。
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