三章

第九話「火のみち」

 

 打ち上げ会場は、やはりロンゴだった。カラオケパラダイス・ロンゴロンゴ、通称ロンゴは、鳥取市民なら誰もが知っているであろうカラオケ店だ。サングラスをかけたパッ○マンみたいなキャラクターとか、トロピカルなネオンとか、太陽とかがトレードマークで、とにかく陽気な雰囲気を醸し出している。

 鳥取駅から、若狭街道に向けて少し歩き、大通りに面した場所にあるロンゴ鳥駅前店につく。階段を登り、予約名を告げ、案内されたパーティールームには、すでに皆が思い思いに盛り上がっている。気後れしたが、なんとか必死で笑顔を張り付かせ、「お疲れー」と適当に挨拶して回る。誰も僕が内心では落ち込んでいることなど気づかない。それが逆に救いだった。騒がしいのも気が紛れた。小室様に訳もわからず全力キャンセルされ、正直打ち上げに行く気分なんかではなかった。しかし一度行くと言った手前、行かないのも気持ち悪い生真面目な自分の性分が憎い。まぁ顔さえ出しておけば、あとは今みたいに適当にやり過ごして頃合いをみて帰ればいい。エルレガーデンのジターバグを特長のある声をした女子が歌っているのを尻目に、部屋を出てドリンクバーに向かう。

 ドリンクバーで氷を入れずにアイスコーヒーをジョボジョボ注いでいると、ちょうど天子が一人で店に入ってくるところだった。目が合うと、天子はニパっとこちらに笑顔を向けられ、平素ならその可愛さに胸が締め付けられてキュン死ぬところだが、今は違う。

 「どこにいたんだよ。探したんだけど」

 「ごめんごめん。次々人が押し寄せてくるのが億劫で元の姿に戻って避難してた。やー、アイドル稼業も楽じゃないねー」

 「そうだったんだ。あ、これ、宝珠見つけたよ」無気力に答え、ポケットに入れていた宝珠を天子に差し出す。

 「え……、きゃーーーー‼︎ 本当に見つけてくれたんだ。そう、これだよこれ。私の宝珠ーーー‼︎ 流石健治君だね。絶対見つけ出してくれると思ってた。天才!」

 「よかったね」

 「うん。ありがとう! ってあれ、なんか元気ない?」

 そう言われ、本当は小室様とのことを誰かに話したい気持ちに気づく。天子になら、話せる気がした。

 「実は聞いて欲しいことがあるんだけど……」と切り出し、天子も何かを察したのか、「いいよ」とニュートラルなテンションで答える。大部屋では騒がしくて話しにくいということで、別の部屋を取る事にした。

 四人用くらいの広さの部屋に通され、照明も点けないまま、天子と向かいになって座り、気分を少し落ち着けたところで、小室様の尾崎キャンセル事件の顛末を説明する。室内には「ダムチャンネルをご覧の皆様……」とカラオケ専用番組が流れている。天子の前には、彼女がドリンクバーで嬉しそうに作っていたホワイトソーダと白ブドウジュースを半々で割ったドリンクが置かれているが、一切口をつけない。天子は終始、真剣に聞くような、茶化すような、ぴょこぴょことした表情や態度で忙しなかったが、ちゃんと話を聞いてくれた。

 僕が話し終えると、天子はしばし考え込んだ後、タハーとした表情をして口を重そうに開く。まるでどこからどこまで説明しようかを決めあぐねているようだった。

 「健治君、それは健治君のせいではないけど、健治君のせいでもあるのよ」

 「何それ、禅問答?」

 「うーん、健治君には、いつか言う日が来るんじゃないかなって思ってたんだけど……」天子は言い渋っていたが、「もう言っていいってことだよね」と僕に聞こえるか聞こえないかくらいの声で独りごち、意を決したように言葉を続ける。

 「コンコン、コホン。えっと、つまり、結論を先に言うけど、健治君はね、ツカレてるんだよ」

 「疲れてるって、天子を探し回ったから確かに少し疲れてはいるけど。それが小室様との一件と何の関係があるって言うんだよ」

 「あー、いや、ツカレてるの意味が違うのよ」

 「……どう言うこと?」

 「健治君はね“狐に”憑かれてるんだよ。つまり、健治君はね、いわゆる……狐憑きなの。狐に憑かれると“実態が変化”してしまうのよ。狐や狸に化かされそうになった時は、タバコを喫むといいんだけど、狐憑きの場合にも反映されるのね、びっくりしちゃった。おそらく、小室さんはタバコを吸った時、健治君の“本当の姿”を見てしまったんじゃないかしら」

 「ちょっと待って、事態が飲み込めない。僕が、狐憑きだって?」

 「そうよ。まぁ、順を追って説明するわ。落ち着いて聞いてね」はっきりと告げる天子の声音の真実味は、まるで世界の純然たる理のようだ。

 「健治君、たとえばね、よく体が熱っぽくならない? やけにお腹が空いて大食いしたり、人混みをなるべく避けようとしたり、直感がやけに冴えていたりしたこと、これまでなかった?」

 思い当たる節は、ある。百舌鳥高祭や、普段の生活習慣に赤チェックマークが付けられていく。

 「けど、そんなの普通の人間でもあることじゃないか」

 「そうね。まぁ他にも色々該当してるんだけど、自分のことって案外自分じゃわからないものね」どう言うことだ、天子は何を言っているんだ。

 「健治君、自分では気づいてないかもしれないけど、私と同じでさ、人前で食事するの、嫌なんじゃない?」

 「え?」虚をつかれたような指摘だった。それは天子の習性であって、僕の癖ではないはずだが……。

 「今だって、アイスコーヒー、飲んでないよね?」

 確かに、さっきドリンクバーから持ってきた氷の入っていないコーヒーは、形を変えず持ってきたままの量である。それは、この部屋に入ってからすぐ会話をしはじめたせいで、飲むタイミングがなかっただけだ。

 「別に。今飲もうとしてたところだし」ぬるいコーヒーを飲もうとグラスを持つと、手が、震える。

 途端、過去の様々な自分が飲食しているシチュエーションがフラッシュバックする。思い返しハッとする。誰かと食事をした記憶が、ほとんど無い。それはぼっちや状況のせいだと思っていた。しかし、この震え、嫌悪感、拒否感……。天子、妖狐と同じように、確かに僕も人前で食事することができないのかもしれない。それをたった今自覚する。そして陽毬さんが人前で食事をしているのを見たことがないことも、桂が禁煙なのも、思い出して、結論を補強していく。

「ほらね」と言わんばかりに天子は呆れ顔をする。

 「あと、単純に私や陽毬の耳や尻尾が見えているのも狐憑きだからだよ。初めて会った時にははぐらかしたけど。それにね。狐の私が言うのもなんだけど、健治君の顔、私たちとそっくりなんだよね。目尻が吊り上がってて、瞳も細くて切れ長。鼻筋もすっとしてるし、笑った時の口角の上がり方とか」

 「そんな……」

 「私達と違うのは、目。狐憑きの目は、左右で違う色をしてるから」

 次々と繰り出される狐憑きファクトチェックに困惑しながら、恐る恐るスマホのカメラで顔を写す。気にしたことなどなかったが、言われてみれば確かに狐のような顔にも見えるし、左右の目の色は違っている。“生まれつき”だったから何とも思わなかった。これだけ該当すれば、嫌でも自分が狐憑きであることを自覚する。天子は若干気まずそうにこちらを上目遣いで覗き込んでいる。狐に摘まれたような話とはまさにこの事だ。自分で頬をつねってみる、しっかりと痛い。夢ではないようだ。夢であったらよかったのに。この世界はどこまでが虚構でどこまでが現実なのだろう。僕は今何という類の罰を受けているのだろう。幸福から絶望へ瞬時に叩き落とされ、心底疑心暗鬼になりそうだ。

「小室さんが健治君を見て気が動転した理由はこんなところだけど、納得した?」

 優しい声音で話す天子が、逆に憎らしく、悪魔のように写る。

 「納得はできないけど、理解はできたよ。つまり、僕は、本当の僕じゃないってことでしょ。……お前らに、化かされて、馬鹿にされてたってことでしょ」

 「違うわ、私たちは、健治君の味「嘘だっ!!!!!!!」

 ……室内が静まり返り、隣の部屋から下手くそなアイネクライネが漏れ聞こえてくる。

 「嘘じゃ、…ないわよ」

 「信じられない。今まで散々隠して、騙してたんだろ」

 「言えない事情があったの、それは健治君の為だったの。多分今言っても、わからないと思うけど」

 「どう言うことだよ、まだ隠してることがあるのかよ」

 「健治君こそ、何か、思い出すこと、ない?」

 思い出すこと? 本当の姿、実態とかいうやつ? 今の僕が絶対の自分であるという確信を持って今日まで過ごしてきた。それは天子や陽毬さんといった“非日常”が現れてもなおそうだった。その確信が、狐憑きであるという自覚によって揺らいでいる今、天子を信じられないのはもちろん、自分でさえ信じることができない。そんな自分が何を思い出しても、それは幻想、改竄された記憶なのかもしれない。今の僕には思い出せない僕の実態を、天子は知っている。僕は知らない。僕の過去は僕の過去ではない? では現在の僕は何? このアイデンティティはどこ由来のもの? 存在証明できる術はある? この世界は何? 一体僕は何だ? 

 放心しつつある虚な僕に無視されていることも構わず、天子は俯きながら言葉を落とす。

 「私ね。昔、健治君に救われたの。今の健治君が覚えてなくても、私はその時の感謝を無為にしない。宝珠を見つけてくれたことも本当に感謝してる。健治君が今は自分のことを忘れてしまってて、何も信じられないかもしれないけど、私が、健治君に感謝してるってことは、何があっても変わらないから……宝珠を見つけてくれたら、何でも願いを叶えてあげるって言ったけど、本当だよ。天狐の力なら、宝珠があれば、叶えてあげられる。あんなこともこんなことも、みんなみんなみんな叶えてあげる。私、健治君の願いを叶えてあげたいの。とにかく、健治君には、幸せになって欲しいの。ねぇ、聞いてる?」

 聞こえてはいた。反応しかねていた。うっすら、考えていた。自分がしたいこと、しなければならないこと。多分それは、お花畑にずっぽり顔を埋めることじゃない。それだけは、何となく心の奥のほうで、理解していた。だから、今の僕の願いを、勇気を出して口に出す。

 「…………たい」

 「…何?」

 「本当の姿を、知りたい」

 「……任せて!」

隣の部屋からはモノマネしながらノリノリでウルトラソウルを歌っている声が漏れ聞こえていた。

 

 *

 

 百舌鳥高祭が終わった週の土曜日、天子からのラインを確認したのは、桂のバイトの昼休憩中だった。

 「今日なんだけど、十七時くらいに、市内出て来れる?」

 今日のシフトはちょうど十七時までだ。「バイトで間に合わない」と返事すると、即座に既読が付き、「健治君のお願い案件。あの女狐には私からも言っておくから」と返ってくる。ほんと、この二人は仲良いのか悪いのかわからない。

 狐憑きであることを自覚しても、変わらず生活は続く。世界が一変したりだとか、異能に目覚めるだとか、小説のような展開にはならず、あくせくと働いている。自分は、この事実にもっと落ち込むものと思っていた。しかし、あの日から二日経つが、存外、平静のまま日々を過ごしている。それは、天子が味方でいてくれるのが大きい。陽毬さんも、天子と同じく妖狐なのだから、僕が狐憑きであることは認知しているのだろう。何で二人ともそれを伏せていたのかはわからない。天子の口振りからすれば、誰かにかん口令を敷かれているのかもしれない。陽毬さんは変わらずいつも通りで、こちらが少し構えてしまうのが逆に不自然なくらいだ。

 小室様とは気まずいままだ。昨日の百舌鳥高祭三日目の体育祭では、小室様とは教室のように隣同士でもなく、クラスごとに割り当てられたテントの中で適当に座っていたのもあって、全く接触することがなかった。多分避けられてもいたと思う。朝、ミヅキ氏に「尾崎、昨日打ち上げ来てなかったじゃない」と言われたが、「行ってたよ。途中で気分が悪くなって帰ったんだ」と嘘をついた。ミヅキ氏は「ふーん」と納得いってない様子だったが、あながち嘘でもない。体育祭はそんなことしか覚えてないくらい上の空だったのに、今朝目覚めると、しっかりと筋肉痛だった。夢の内容を覚えてないのに夢精をしたようで癪だった。

 「あの、陽毬さん」

 「なに〜健治君」相変わらず陽毬さんの声音は甘ったるく、和やかな気分にさせる。

 「実は、今日、早上がりさせてもらいたくて」

 「珍しいわね、健治君がそんなこと言うなんて。何か用事?」

 「ええ。あの、天子から呼び出しがあって」

 「あの性悪狐から?」すると陽毬さんのスマホがブルっと鳴る。「噂をすれば何とやらだわ」と僕に画面を見せる。

 「健治君を十七時にこの場所によこしなさい」

 この場所とはどこだろう? 僕には市内に来いとしか言ってこなかったのに。陽毬さんはスマホ画面をスクロールして場所を確認し、合点がいったらしく、コンと手を打った。

 「今日は十五時で閉店しましょうか」

 「え、いいんですか。でも別に店まで閉めなくても」

 「いいのよ。私も一緒に行くから。車も出すし」

 「そんな、申し訳ないです」

 「違うのよ。私が行きたいの。……久々に血が騒ぐわ」

 「血? 結局どこに行くんですか?」

 その僕の問いに、陽毬さんは蠱惑的な笑みを浮かべ、足を肩幅くらい開き、胸の前で拳銃を構えるポーズをして、バンと撃つフリをした。その後ろで、ケトルが湯気を立てており、さながら硝煙のようだった。

 

 *

 

 陽毬さんのジェスチャーの意味はわりとすぐにわかった。

 天子に指定された場所は、今町にあるライブハウス「Bang!」だった。五十三号線、錦通りに面している雑居ビルの一階で、百舌鳥高祭の打ち上げで行ったロンゴ・ロンゴや、天子と初めて会った時に行ったサンロードの中の喫茶店、ビリー・ウエストから、歩いて五分くらいのところだ。外観はライブハウスというより、どちらかといえばおしゃれな飲食店のようだ。正面の壁は木材の横張を基調としたナチュラルなデザインで、その外枠は淡いグレーのコンクリートで囲われており、そこにbang!の看板が掲げられている。天子は何で僕をライブハウスに呼び出したのだろうか。また百舌鳥高祭の時のようにコピーバンドで歌ったりするのかしら。それなら勿体ぶらずにそう言えばいいのに。

店の立て看板を見ると「you can see me」と書かれている。今日のイベント名だろう。僕が好きな天泣喫茶の曲のもじりだ。やはりコピーバンドのライブイベントなのだろうか。出演バンドを見ても嫁入りカフェ、ネアカサイレント、砂利ビーンズ、バリカタポリス、トクバラスなど、コピバン感満載のもじりバンドネームがズラッと並び、その下に「シークレットゲスト」と強調して書かれている。なんのもじりだろうととうんうん唸っていると、陽毬さんに「何してるの。行くわよ〜」と腕を引かれる。

 黒いドアを開けてすぐの受付で入場料を払おうとすると、「ここは私が出すわ」と言って陽毬さんが僕の分も払ってくれた。大人だ。

 手の甲に店のロゴのスタンプが押され、ドリンクチケットを渡される。グレーを基調とした内装の店内は、思っていたより広く、テーブル席を除いてパンパンに詰めれば百人は入りそうだ。入って左手にバーカウンターがあり、奥にステージが見える。ステージ前でDJがプレイしており、ライブ前にも関わらずお客さんのテンションは高く、ノリノリで騒いでいる。

 「結構盛り上がってますね」

 「そうね」

 と言った陽毬さんの声音は溌剌としている。テンションもいつもより高い気がする。そういえば、陽毬さんは昔バンドの追っかけをやってたんだったっけ? 血が騒ぐって言っていたのは、バンギャ時代のことだったのか。確かに心なしかメイクもいつもより濃い気がする。服装も、なんかゴシックっぽいというか、普段はシンプルな服装をしていることが多いから、フリルがついている服を着ているのは新鮮だ。なるほど。と勝手に納得して、場内をフラフラしていると、ふと見知った顔があるのが見えたので、思わず声をかける。

 「五島、さん?」

 「……あぁ、尾崎君」

 五島さんは、黒のオープンカラーシャツに、ベージュのショートパンツ、足元はローファー風のハイテクスニーカーという出立ちで、店にいる時の格好とはまた違った印象だ。

 「その節は大変お世話になりました」

 「いやいや、大したことは何も。それで、うまく行ったの?」

 「ええ、まぁ。演劇自体は上手く行きました。賞もいただきましたし」

 「それはよかった。ここに来るのは初めて?」

 「はい。五島さんは?」

 「僕は、たまにかな」

 「今日って、コピバンイベントなんですか?」

 「あぁ、表向きはね。でも、シークレットゲストが出るって書かれてたでしょ」

 「あれって、何のバンドのもじりなんですか?」

 「もじり? あぁ、ははは、違うよ。あれはそのままの意味」

 「なんだ〜。で、誰が出るんですか?」

 「いや、知らないなら、知らないままのほうがいいよ。きっと驚くよ。そうだ、因幡五狐がどーのって話、何かわかったの? あれから僕も気になって、民間伝承の本とか文献を探してみたんだけど、なかなか無くてさ」

 「そんなことしてくださってたんですか! ありがたすぎる」

 「常連さんだしね」夏休み、マッド・シンデレラの脚本作成に行き詰まったら、五島さんに相談しに行ってアドバイスをもらっていた。プロの方に無料で教わるのも悪いので、その度にお礼も兼ねて本を数冊ずつ買って帰っていた。おかげでしっかり常連認定されたらしい。その代わり、僕の部屋には、積読本がどんどん増えていったが。

 「その件なんですが、ほんとうに最近教えてもらったんですよ」

 結論から言うと、因幡五狐について教えてくれたのは陽毬さんだ。遡るほど一時間前。桂を早仕舞いして、陽毬さんの車でbang!に向かう車中でのひょんな会話から、因幡五狐の話題になったからだ。

 

 *

 

 「僕が狐憑きだっていうのは最初から気づいていたんですか?」

 ウッドデカールのついた黒のセドリックワゴンを運転する陽毬さんの男前な横顔をチラと見て尋ねると、陽毬さんは遠くを見つめつつ、数秒黙り込んだあと、ゆっくりと頷く。

 「僕は、一体何なんですか?」

 「健治君は、健治君よ」

 「過去の記憶があやふやで、自分のアイデンティティが不確かでも?」

 「うん。それでも、今ここにいる健治君が、健治君だという事実は変わらないわ。大丈夫。あとはあのショロショロ狐に任せていたらいいわ」

 「ショロショロ狐って、天子のことですよね」以前にも喧嘩芝居の際に、天子に向かって陽毬さんが言っていたのを覚えている。

 「えぇ、天子が昔人間から付けられた異名みたいなものね。因幡五狐の話に出てくるわ」

 「それ、それです。あの、因幡五狐って結局何なんですか?」

 「あら、天子から聞いてないの? てっきり知っているものだと」

 「聞きそびれてしまってて。go to booksの五島さんにも聞いたんですけど、知らないようだったし」

 「あらそう。じゃあ、かいつまんで説明するわね。因幡五狐は、ここら辺に伝わる民間伝承ね。でもこうして私や天子がいるから、本当の話でもあるんだけど。私=おとん女郎、天子=ショロショロ狐、恩師の狐、尾無し狐、そして、私の亡くなった主人……桂蔵坊の計五狐の呼称、エピソードを一括りにまとめたのが、因幡五狐ね」

 「桂蔵坊……桂……」

 「そう、だから桂の字を取って、苗字として名乗っているの。店の名前もね。因幡五狐の逸話では、主人の話が一番有名かしら。主人は経蔵坊狐、飛脚狐とも呼ばれていて、江戸時代、池田藩に仕えて、鳥取から江戸まで三日で行き帰りできるほど優れた飛脚だったの。でも、ある時仕事で江戸に出向いた先の帰り路で、焼き鼠の罠にかかって、そのまま、帰ってこなかったのよ……」

 陽毬さんはその当時のことを思い出したのか、珍しく険しい顔をしていた。鼠が嫌いなのって、そういう理由があったのか。と思った反面、人間の仕業だし、恨みの矛先が人に向かないのだろうか。すると陽毬さんは僕の考えを察したらしく、

 「仇はすぐに取ったわ。別に人間全員を恨んでなんかないわ。仇以外の人間に、罪はないじゃない」と答えた。

 「天子のショロショロ狐って名前の由来ってあるんですか?」

 「あぁ。山の麓にあるショロショロと流れる山下りの水場で、美人の娘に化けて人を騙して遊んでたの」

 「だからショロショロ狐……」正直凡庸な話だ。わざわざ固有名詞をつけられるほどの妖狐でない気もする。

 「まぁ、彼女は内輪では逸話に事欠かないけど、人間界のほうには、きちんと情報統制してたというか、尻尾を掴ませなかったんじゃないかしら。ただ、彼女の変化は天才的だったから、おそらくそれだけ漏れ伝わってしまったのね」

 妖狐の妖術のクオリティの差など僕にはわからないが、同じくらい生きてきたであろう陽毬さんが認めているのだから、多分そうなのだろう。

 それから、尾無し狐は青谷の長尾の山に住んでいた古狐で、年増の女に化けて人を化かしていたとか、恩志の狐は、岩井温泉に行く途中の恩志という場所に出て、灯りをともして化かしていたとか言う話を聞いた。陽毬さんのおとん女郎としてのエピソードは「そのうちね」とはぐらかされた。

 

 *

 

 「……陽毬さんが、そういう民間伝承とか詳しくて」

 回想してみたが、五島さんには本当のことなど言えないので、それっぽくごまかす。

 「へぇ、そうなんだ。僕も今度聞いてみたいな。近くまた桂にも寄ってみるよ」

 「是非是非。ご来店お待ちしてます」とビジネスライクな挨拶をして五島さんと別れ、ステージのほうに振り返ると、正面に天子がいた。

 「うわ、びっくりした」

 「あの人、知り合いなの?」天子は五島さんの後ろ姿に指を差して言う。

 「うん。智頭で本屋さんをやっている人だよ。百舌鳥高祭の時の脚本作りにも協力してもらったんだ」

 「ふーん。あ、それより、そろそろライブはじまるよ、行こ行こ」

 ぎゅっと手を引かれステージのほうに向かう。その手の柔らかさは、何度触れても天才的な変化で、人間そのままだった。

 

 *

 

 ライブは盛り上がっていたが、やはり皆、後に控えるシークレットゲストが楽しみなようで、心ここにあらずでゆらゆら空洞みたいに揺れていた。陽毬さんを途中で見失い、どこにいるのかと探したら、前方で一際激しくヘドバンしている女性がいて、どうやら陽毬さんっぽかったので、そっとしておいた。楽しみ方は人それぞれだしな。僕の隣には天子がいて、天子は僕をここに呼んだ理由も言わずに、ライブに熱中している。つられて僕もライブを楽しむ。やはり天子は僕を元気づけようとライブに誘ってくれたのかもしれない。てっきりロンゴで僕が吐露した願いを叶えてくれるのかと思った。でも、これも悪くない。嫌な記憶も悩みも一旦捨て去って、目の前の爆音に集中する。

 何組か演奏を見終わった後、ふとスマホで時間を確認すると二十一時を過ぎた頃だった。今の所、ただ楽しいだけなので、首謀者である天子に今日ライブに誘った本意を聞くと、

 「もちろん、健治君の願いを叶えにきたのよ」とサラッと言われた。

 「どう言うこと?」

 「いいからいいから〜。私を信じて〜。とにかく今はライブを楽しみましょ、ほら次、お待ちかねのバンドが出るわよ」

 ワッと歓声が上がり、人がどんどん前方に集中していく。バンドが出てきたようだ。ステージはそれほど高くないので、メンバーがよく見えない。どうやら僕以外は全員シークレットゲストの正体を知っているようだ。この転換中に、さらに人が入場してきたし、さっきまで出演してたコピーバンドのメンバーもこぞって前を陣取っている。相当すごいバンドなのかも知れない。否応にも期待値は上がる。

 ギターやベースがチューニングする音、ドラムがセッティングをチェックしながらバスドラムやスネアを叩く音、それらが、一瞬静まり、静寂から解き放たれた轟音が、そのバンドの存在を、ありありと証明した。

 「こんばんは、天泣喫茶です。楽しんでいきましょう」

 まさか。と思っている間に、ドラムがハイハットを刻んでカウントし、ベースが弦をスライドして入ってくる。ギターヴォーカルがイントロを弾いた時、本物だ。と直感する。天子を見ると、コクンと頷く。そしてイントロですでにテンションはぶち上がる。僕の大好きな曲が、一曲目から始まったからだ。

「You Can‘t See Me」

♪ 鏡の前で 誰かになった 光を足して 影を隠した 笑えるように 嘘ついてた だけどバレたくて 笑った 心拍だけが 本当だった 沈黙だけが 叫んでいた

You can’t see me 誰にも見えない 笑顔の奥 濁った夢の底

You can’t save me 言葉じゃ遅いよ 消えかけた輪郭(かたち) 今、指でなぞって

通知の海で 溺れながら 本当の声を 誰かが消した 届いて欲しい でも触れないで

わたしはノイズで できてる 鼓膜の奥に 飼ってる獣 バレたら壊れる この日常

You can’t find me 見つけられない 演じてた“わたし”の 影武者たち

You can’t reach me 触れられないの 仮面ごと このまま キスしてくれたらいいのに

「大好き」って言葉は一番最後に嘘になる ねえ、それでも信じてほしかった本当は見えてたんでしょう?

You can’t see me だけどここにいる 透明な声で 何度も叫んでた

You can’t lose me 消えてたまるか わたしをわたしで 見つけ出すまで

見ないで見つけて 消えないで消して その全部でわたしはここにいる ♪

  ——————————天泣喫茶は、顔出しをしていないバンドだ。ライブ映像ではスクリーンの後ろで演奏しているし、ミュージックビデオでは上手に顔が映らないよう編集されているため、シルエットしかわからない。つまり、関係者しか彼女たちの素顔を知らない。はずなのだが、僕はギターヴォーカルの宇宙子(そらね)の顔を知っている。目鼻立ちだけわかる。六月頃、桂の配達でgo to booksに初めて訪れた際に来客していた、マスクの女性だ。天泣喫茶の宇宙子だと、後になって五島さんから教えてもらった。おかげさまで、今ではこんなに天喫ファンになった。あぁ、だから五島さんは今日のライブのシークレットゲストのことを知っていたのか。と今更納得する。もう一度、宇宙子の顔を拝めたりしないだろうか。このBang!の広さでは、仮にスクリーンを立ててたりしても、正体を隠しきれないはずだ。もちろんSPなんかも立っていないし、マネージャーも来てなさそうだ。つまり最前列まで行けば、生天泣喫茶を拝めることができるはずだ。しかし前方には戦国時代の漫画でよく見る歩兵の人垣みたいになっている。とても今から突入してぶち破れそうもない。

 「ほら、前行ってきなよ」

 窮していると、天子が爆音の中、耳元に寄ってきて話しかけてきて、こそばゆい。

 「でも……」

 「しのごの言ってないで、さっさと行ってきな、っさい」

 よくわからないまま天子に肉壁へと押し入れられる。分け入って、分け入って、もみくちゃになって、人の汗やら、自分の汗やら、よくわからないネチョネチョがまとわりついてきて気持ち悪い。満員電車よりも無軌道に揺れる。それでも「すいませーん、すいませーん」とか言いながら進む。ものすごい熱量のうねりに前後不覚になりそうだ。何とか前に進む。最前列に近くなるとさらに激しさは増し、吹き飛ばされそうになる。ライブって、こんなに激しいものだったっけ? と最前に行くのを諦めようとしたその時、がしっと腕を掴まれ、引っ張られる。

 陽毬さんだった。陽毬さんは何も言わずに、僕を隣に引き込んでくれ、ようやく最前列に辿り着く。天泣喫茶の面々が、目の前、に、————

 宇宙子の髪は長く、さらさらときめ細やかなストレートで、明るいブロンド、前髪は眉毛のラインにかかるくらいに切り揃えられ、目は大きく、アイラインがしっかりと引かれ、ミステリアスでクールな印象を感じる。鼻筋はすっきりと通っており、少し厚めの唇には自然なピンク色が乗っている。輪郭はシャープで、肌は明るく透明感がある。緑、ピンク、黄色などの使われたカラフルな柄物のトップスは、髪の毛のブロンドと鮮やかなコントラストを成しており、とにかくカリスマ的な存在感がある。紫色のギブソンのSGを弾く姿はミュージックビデオで何度も見たが、本物の迫力は凄まじい。綺麗だ。つい凝視してしまう魔力がある。

 他のメンバーにも目を映す。ベースの詩音(しおん)は、青みがかった黒い長髪を振り乱しながらも一定の姿勢を保ち、周りを冷静に観察しながら、モダンな形の、あまり見たことないオレンジ色の五弦ベースで、フックの効いたフレーズを弾き倒している。

ドラムの奈穂(なお)は、赤いボブヘアーが特徴的で、パワフルでタイトなビートを淡々と叩いているかと思いきや、時折ものすごいアグレッシブなソロを入れたりと、奔放さも感じる。

 この三位一体のグルーブが、ポップでキャッチーな楽曲を、一層上のレベルに押し上げていて、天泣喫茶が実力でメジャーに上り詰めて行ったのがわかる。凄い。陽毬さんに混じってヘドバンしてみたり、大きな声で歌詞を口ずさんだり、コールアンドレスポンスしてみたり、時間があっという間に過ぎていくのか、それとも永遠に止まったままなのかわからないくらい、没入した。汗だくになって踊った。初めは別々の肉体だったのに、次第にみんなと溶けて一つになるような一体感だった。気持ちが良かった。みんな笑っていた。ずっと続けばいいのにと思った。不安も嫌なことも消え去って、多幸感だけがあった。最後の曲になり、残る力を振り絞って叫んだ。喉はガスガスに掠れて、カラオケで三時間歌った後みたいになっていた。こんな良いライブを体験させてくれた天子に、天泣喫茶に、感謝の心が沸いた。陽毬さんのほうを見ると、懐かしそうに優しく微笑を浮かべながら、振り回して乱れた髪をそのままに、ただステージを見つめていた。気づけば天子も、僕の左隣に来ていて、陽毬さんと同じような微笑を浮かべていた。三人で横並びになってライブを見た。最前列はぐしゃぐしゃのもみくちゃになるはずなのに、僕らの周りだけ、結界が張られているように静かに鑑賞することができた。一瞬、チラッと振り返ると、五島さんと目が合った。五島さんは、壁際にもたれて、腕を組み、さながらプロデューサーみたいな格好でライブを見ていた。五島さんは何も言わずに親指を立ててウインクしてくる。僕も何も言わずに親指を立て返す。五島さんが天泣喫茶を教えてくれて良かった。

 ライブが終わろうとしていた。終わってほしくなかったが、逆にもう終わってほしくもあった。喉はカラカラで、汗だくで、熱気と湿気でサウナみたいになっていて、高揚して、どこか別の世界へ飛んでいきそうだった。実際、頭がフラフラしている、かなり全力で踊ったりがなったりしていたから、熱が出たのかもしれない。宇宙子のSGのフランジャーの音と自分の体の揺れが同期していくようだ。ゆらゆら揺れる。音がどんどん遠くに感じる。最後まで、最後の一音まで聴きたかったのに、体が言うことを聞かない。ゆらゆら、ゆらゆら、シャッタースピードを遅らせた写真みたいに残像が揺れる。視界がぼやける。光を感じる。宝珠だ。カバンにつけていた宝珠が、ぱぁっと光っているような気がする。照明かもしれない。反射かもしれない。僕の宝珠が光ると言うことは、つまりどう言うこと? ギターアンプのフィードバックが耳を蹂躙する。耳に一枚膜が張っているような、籠った音になる。低音、ドラムのキックの音とか、足音とか、イェーとか、スネアの音とか、ベースとか、「健治君」とか、「大丈夫?」とかしか耳に入らない。ぱぁっと明るく光る球が、天井の照明なのか、宝珠なのか、もう何もわからない。とにかく、今は、横になりたい。水が飲みたい。誰かが叫んでいるのが聞こえる。ライブは終わったんだろうか。途切れゆく意識の中で、宇宙子の顔がぼんやりと浮かんでいた。「yes I can」と無意識につぶやいて、少しだけ目を瞑った。

 

 *

 

 …………ざわざわと話し声が聞こえる。

 目をゆっくりと開けると、眩しい光の中で「あ、起きた」と声がし、天子が心配そうに僕を覗いていた。周りを見渡すと、天泣喫茶の面々と、陽毬さんがいた。どうしてこの面子が揃っているのかはわからないが、どうやら僕はライブの途中に倒れてしまったらしい。考えるのも億劫なほど、頭が遠くにあるみたいにぼやーっとする。

 「大丈夫?」天子が潤んだ瞳で上目遣いに言うので、照れて視線を逸らす。

 「何とか。ここは……」

 「Bang! の楽屋よ」陽毬さんが言う。

 確かにここは楽屋のようだ。白熱灯の灯る薄暗い室内には、壁沿いに大きな長方形の鏡の置かれたロングカウンターがあり、壁全面にはポスターやステッカーが所狭しと貼られ、その隙間を塗りつぶすように夥しい落書きがある。僕が寝かされていた、くたびれた黒い革張りのソファは、スプリングが弱くなっているのか、身体が深く沈む。壁掛け時計が目に入り、時刻は二十三時半。天泣喫茶のライブから、一時間ほど気を失っていたらしい。

 「どうして天喫の人達と、天子や陽毬さんが? っていうか僕がこんなところに居ていいんですか」

 「いいのよ。ここからが、今日のメインなんだから」天子の声音には、少し震えがあった。天泣喫茶のライブでさえぶっ倒れたと言うのに、これ以上のことがあったら、どうなってしまうのかしら。と僕も体が震える。あと、さっきから天泣喫茶の面々を直視できない。ファンがこんな近くに接近してはいけない。消えてしまう。尊い。

 「今日はね、健治君の願いを叶えてくれる人を呼んだの」

 天子の言葉を反芻する。言葉の意味は理解できる。状況が理解できないだけだ。僕の願い、それは、本当の自分を知りたい。だ。小室様の喫煙で露呈し、天子の指摘で狐憑きを自覚し、今の僕は本当の自分ではないのかも。そんな疑念が湧いた。それは間違いなく狐憑きであることが起因しているはずだ。だから僕は宝珠を見つけたのと引き換えに、天子に願いを一つ叶えてもらうことにした。それが、僕に憑いた狐を祓って欲しいという願いだ。ならこういう時、相場は祈祷師とか除霊師とか陰陽師とか、そんな類の人物を紹介するはずなんじゃないの? なぜ天泣喫茶の面々なの? 囃子みたいなこと? 天子は頷いて、「健治君の疑問ももっともだ」みたいなリアクションをしている。口に出してないんだけどな。

 「あの方が、そうよ」

 そう天子が示す視線の先には、天泣喫茶の宇宙子がいた。宇宙子は無表情で、ステージにいる時の溌剌としたカリスマ性は鳴りを潜め、まるで名前の如く神秘的な中有のようだった。

 「宇宙子さんが……」

 「そう。彼女は、空狐なの」クウコ……その名前に全くピンとこない。クウコとは何だろう。おそらく妖狐の類なのだろうが、違う線もある。いやいや、そもそも天泣喫茶の面々が妖狐と関係してる? まさか。

 「そう。順に説明するわ。前に、妖狐のランクの話をしたわよね」

 「あぁ」確か天子と初めて会った日のビリーウエストで、そんな内容の会話をした覚えがある。妖狐にはランクがあり、ランクアップの条件は基本的には加齢と修行。阿紫(あし)霊狐、地狐、気狐、天狐、空狐の順にランクが上がる。つまり、空狐は妖狐の最上級種と言うことだ。クウコ、……音だけで聞くとよくわからなかったが、空狐ってことか。ようやく理解する。

 「さすが健治君。空狐は、三千年生きた妖狐しかなれないの。つまり、“私たち”天狐の三倍の霊力があるってわけ」

 「いや、そんなこと、こんな人前で言って大丈夫なのか」

 「大丈夫よ。彼女達も妖狐だから」僕の疑問に陽毬さんが答える。次から次へと新事実が公表され、理解が追いつかない。何なんだってばよ。

 「今日、車の中で、因幡五狐の話をしたでしょ」僕は無言で頷く。

 「ここにいる、詩音と奈穂が、あの話に出てきた、恩志の狐と、尾無し狐よ。つまり、昔馴染みね」

 「ちょ、そんな古い話しないでよ恥ずかしい」と奈穂、こと尾無し狐が陽毬さんをペシっと叩く。

 「いいじゃない別に」

 「あんただって油屋で盗み働いてた話とかされたくないでしょ」

 「ちょっと。人聞き悪いこと言わないでよ。ちゃんとその後返したわよ」

 「しっかり盗んでんじゃん」ぼそっと詩音こと恩志の狐が言う。

 「仕方ないじゃない。子供できたんだから」

 ようやく状況が理解できてきた。つまり、ここには妖狐しかいないと言うことか。この事態に慣れて、驚かない自分が怖い。僕が目覚める前にざわざわしてたのは、昔話に花を咲かせていたわけか。え、ていうか陽毬さん子供いるの? 初耳なんだけど。それは後で聞くとして、話を本題に戻す。

 「それで、宇宙子さん、空狐は、僕の狐を祓えるんですか?」

 「……あぁ。君さえ良ければ、だけど」

 「どう言うことですか?」

 「まず、言っておくことがある。君に術を掛けたのは、私だよ」

 「なん……だって……」

 「君を狐憑きにしたのは、私だ」

 瞬間、飛びかかっていた。怒りに任せて殴りかかったのは、小学生ぶりだった。振りかぶった拳が、空狐の美しい顔を無様に歪めるはず、が、飛びかかる前の姿勢に戻った。また殴りかかる。また戻る。僕の拳は何度も何度も空を切る。誰も止めに入らない。天子と陽毬さんは気まずそうに、奈穂と詩音は無感情に冷たく僕を見つめている。

 「無駄だよ。それに倒れたばかりだろう、おとなしく寝てなさい」

 それでも、のぼせた血流がおさまらなくて、鼻息が蒸気機関車のようにフンスン鳴っているのが大きく聞こえる。何に怒っているのかわからなかった。騙されていた。遊ばれていた。傷つけられた。傷つけた。どれもの責任を、全部空狐のせいにしたかったのかもしれない。深呼吸して、落ち着く。どうせ勝てない。殴って何か解決するわけでもない。空狐は冷静に、僕を見ているとも、その奥を見ているともつかない視線をこちらに向けている。その視線に、人間と妖狐の相容れなさを感じてしまう。

 「騙すつもりはなかった。と言っても嘘になるな。現にこうして騙していたわけだから。まぁいい。今から種明かしをしよう」ゆっくり考えて、心を整え、静かに頷いた。

 「じゃあ、一つずつ説明しよう。まず、君に掛けた術は二つある。一つは記憶操作。二つ目は幻惑だ。君の記憶を改竄し、“この世界”を過ごしてもらった」

 騙されないように、言葉を一つずつ吟味して考える。狐憑きだと自覚したので、一つ目の記憶操作に関してはわかる。

 「この世界って?」

 「わかっているとは思うが、この世界は現実ではない。私が造り出した幻だ。つまり、ここは何もかも私の妖術の範囲内に過ぎない。私がこの世界を“ある条件”の基に創造し、構成し、機能させている。つまり、私が手を入れれば、ほとんどの設定が覆る。たとえば、こんな風に……」

 空狐がそう言うと、楽屋だった空間は、世界各国のあらゆる場所へと転移し、重力と引力が反転し、手足が伸びたり、顔がぐにゃぐにゃに歪んだり、空間としての座標があやふやになったり、僕たちや場所の、存在性や物質性がゆらめき、そして、元いた楽屋へと戻る。

 「断りもなく世界の理を歪めんなよ」

 「すまない。でも、これでわかっただろう。ここが私の造った世界であると。まぁ早い話が、この世界に、君の魂を加工して、私が“再現”した君のアバターにダイブさせた。と言うわけだ」

 「妖術をゲームやメタバースみたいに言うなよ」

 「私たちからすればゲームもメタバースも同じようなもんだけどな」

 因幡五狐、もとい因幡四狐たちの誰かが言い、一同うんうんと頷く。

 「百歩譲って、ここが妖狐の術中だとして、僕をここに招き入れた目的は何なんだ?」

 「君だよ」突拍子もない答えに耳を疑う。僕だって? 信じられない。

 「さっきも言ったが、この世界はある条件を基に私が造り出した。その条件とは君だ。この世界は全部君の為にチューニングされている」そんな馬鹿な。

 「本当だよ。ここは君の為に出来た世界。君に都合のいいように。君に寄り添うように」

 本当か? そんなわけないだろ。僕に都合のいい世界であるのなら、何故あんたをぶん殴れない。何故無敵の力が備わってない。何故魔法が使えない。何故チートを使って無双できない。何故僕は悪役令嬢じゃない。エルフが出てこない。モンスターが出てこない。何故何も思い通りにならない。何故……小室亜衣子に拒絶されなければならない。

 「それが君の望みだったからだよ」

 「は? そんな訳ないだろ。あれにどんな願望があったって言うんだ」

 「……体験。だろうな」体験? その言葉が引っ掛かり、聞き返す。

 「そう、花が咲くのも散るのも、見ているだけじゃその感覚はわからないだろう? まぁあの件のおかげで、君が私の所まで辿り着いたとも考えられるから、結果オーライでは?」

 「あんたに会う必要はあったのか?」

 「私にしか君にかかっている術は解けないからね」

 空狐の手には、僕がずっとカバンにつけていた宝珠があり、光り輝いていた。その光は、天泣喫茶のライブで倒れかけた時の光にそっくりだ。あの宝珠は、空狐のものだったのか。

あと、ちょくちょく口に出してない心の声に、空狐が反応して喋ってくる。変な感じだ。

 「私の六神通を持ってすれば、わけないことだよ」とまた読心され、空狐の声がパンを振られたように前後左右あらゆるところから聞こえてくる。

 「何となくわかってきたんだけど、肝心な質問ははぐらかされている気がする。結局、どうして僕は、記憶を操作され、この世界に招待されたのかってことだよ」

 「…………現実の君は、死にかけている。人気のない山奥で、首を吊って死のうとしている。そもそも君は高校生でもない。三十六歳だ」

 その答えに言葉を失う。冗談だろ。そんな馬鹿なことがあるか。

 すると楽屋の鏡に、ぬぼーっと映像が映し出される。知らないおじさんが今まさに、死のうとしている。誰かに似ている気がする。喉元まで出かかっているのに、その誰かが思い出せない。痩せこけた酷い顔だ。服装もボロボロだ。危ない薬でもやっているのだろうか、この世に絶望したような、無気力で光の無い目が虚に一点を見つめている。正気で無いのは一目でわかる。

 「これが、僕だと?」空狐はゆっくり首肯する。嘘だ。そんなわけない。

 「そう思っても仕方がない。だが、これが君だ。嘘だと思うなら、今から祓って、記憶を元に戻してやろう、君が知りたかった“本当の姿”だ」

 「嫌だ、そんなはずない、嘘だ、嘘だ!」

 空狐の宝珠の光が僕の顔に伸びてくる。眩しい光と共に、未知のイメージや感情が、下手くそな散文詩のように流入してくる。

 

 『……頭がカユい、頭ん中が、ここはどこだっけ、千鳥足、知ったことか、オピオイドでもなんでも持ってこいよ、調達だ、子供が子供だった頃、狂った考えだって叶うと信じた、だって、子供は無敵のアルマジロだったから、西から風が吹いて、足がもつれる、坂が緩やかに弾頭台みたく傾げてくのが気に入らない、フラットであるべきだろ、トーマス・フリードマンが言ってた、緑、みどり、茶色、黄土色、翠、ミドリ、黄緑——————————』

 

 *

 

 俺、“尾後”健治、三十六歳。フリーター。バツイチ。どこだここは。何もない。天、地、壁、空間が全て白い。声が反響しない。自分の身体が、自分のものじゃないみたいだ。俺はさっきまで、森の中にいたはず。何でこんなところに? たった今ここに来たみたいな感覚があるけど、逆に数日前からいた気もする。とにかく今、やっと自分がここにいると知覚できた。俺は……あぁ、死のうとしたんだ。首をそっと撫でると、索条痕がしっかりとある。やはり死んだらしい。死んだら皆ここに来るんだろうか。ここは天国か。いや、地獄か。楽になりたかっただけなのに。まぁ、全てはこの歳まで野放図をぐるぐるした自分の責任か。気がかり……娘は元気にしてるだろうか。もう何年も会えてないけど。最後に一目会いたかった。パパ、がんばったけれどダメだったよ。叶わぬ夢もあるんだね。何だか色々やりたいことがあった気もするけれど、今となっては何がやりたかったのかもよく覚えてない。あくせく働いて、努力とは関係のないところで、不条理に堕とされた。格差。孤立。困窮。不安。絶望。何が問題だろう。多分全てだ。

娘が生まれたのは心の底から嬉しかった。思えば、娘が生まれてからの数年が人生で一番幸せだった。どうしてこうなった。何を、どこからやり直せば、上手くいったんだろう。中学生? 高校生? 大学生? 就職? 社会人? 結婚? いや、多分どこに行ってやり直したって、またここに戻ってくる気がする。それだけは胸を張って言える。ま、もう死んでしまってるし、たらればを言ってもキリはないか。

 (やり直させてやろうか)

 「うわ、びっくりした。誰だよこの部屋の主かここは何だ」

 咄嗟に言葉を吐き捨てる。脳内の独り言が声に出ていたのだろうか。返答の声だけが、脳内に響いてくる。奇妙な感覚だ。気味は悪いが、自分以外の存在がいたことに少しホッとする。

 (私は空狐。妖狐の最上位種だ。ここは、君のわずかに残った正常な精神を隔離し、私が君とコンタクトするために作り出した空間だ)

 「つまり神的なこと?」

 (多義的な解釈の幅があるが、その認識で不都合ない)

 「精神? 隔離? 俺は死んだんだよな?」

 (まだ死んでないが、放っておけば死ぬ。猶予はあと数十秒くらいだな)

 「じゃあここで喋って、人生終わりじゃん」

 (大丈夫。この空間は刻の尺を引き延ばしている。時間経過は、現実よりかなり遅い。例えるなら映像を超絶スロー再生しているような状態だ)

 「精神と時の部屋みたいなことか」

 (その理解で間違ってない)

 「やり直せるってことは、俺は、助かるのか?」

 (君次第だな)

 「つまり、やり直しに成功すれば助かると? そんなことが可能なのか?」

 (私の妖術を使えばな。仕組みを具体的に説明すると、記憶操作と空間操作の擬似タイムスリップだ。一番やり直したい場面を君の深層心理から抜き出して再現する。その再現した世界に君の意識をダイブさせる。君がその世界で自殺に至る根本原因を克服したら、現実に復帰する。どうだ? 簡単だろう)

 「現実に復帰するって、あの死にかけの状態にか? 首を吊ってるんだぞ」

 (ああ。何とかして縄を切るしかないな。サバイバルナイフとか持ってきてないのか)

 「ナイフを刺す度胸があるなら自宅で十分だろ」

(確かに)

「とにかく、あの状態を打破するなんて無理だ」

 (じゃあ無理にやらなくてもいい。元の世界に戻ってそのまま死んでいくんだな。じゃあな)

 「ちょ、ちょっと待って、やります、やらせてください。だけど、もう一つ質問が。そもそも、どうして俺にこんなチャンスをくれるんだ」

 (君が死のうとした場所は、私達妖狐の数少ないテリトリーなんだ。ここで死なれて下手に騒がれるのは迷惑でね。だから、生きて現実に戻って、あの場所から立ち去って欲しいんだ。私達の妖術が効かない人間等が増えて、自然を蔑ろにされ、森は荒らされ、ただでさえ生活圏が蝕まれていると言うのに)

 「はぁ。何だか人間達が、すみません」

 (本当だよ。結局、君みたいな死に損ないを化かすのがやっとだ)

俺はまた「はぁ」と気の抜けた返事をする。

 (どれほど強力な妖術があっても、現実に私たちが存在したとしても、見えなければ、信じなければ、無いのと一緒だ。そのほうが都合の良い場合もあるが、こう被害を被っていてはそうも言ってられない。人間が私腹を肥やすために犠牲になった自然が、資源が、どれだけ有限で尊いか。自然の声を聞けなくなった人間達の行き過ぎた経済成長が、自分たちの首を絞めていると気づかないのだろうか。西洋思想に染まって、それが良いものだと錯覚しているだけだ。“思想をアップデートできている”という錯覚が、本来あるはずの秩序を侵してしまっているのだ。あぁ嘆かわしい。……あぁいや失敬。つい愚痴っぽくなってしまったな。コン。まぁ、ほとんど建前だ。本当は後輩が君を助けろと泣きついてくるもんだから、根負けしてね。彼女なんだけど、覚えているかな)

 すると目の前に幼い少女がピョコっと現れる。

 「健治君……私だよ……」

 小学校低学年くらいだろうか。将来アイドルにでもなりそうな整った顔が印象的だ。残念ながら、俺には彼女の顔に全く覚えがなかった。こんな美少女、当時出会っていたら忘れるはずがない。

 「ごめん。全然思い出せない」

 「そっか。まぁ、そうだよね。あの時からもうすでに見えなくなってたもんね。健治君。久しぶりだね……大変だったね」

 ……無意識に涙が溢れていた。彼女の慈愛に満ちた表情や声音が、暖かくて、嘘ひとつない本音に聞こえて、思わず心が震えた。気にしてくれる存在がいるのはありがたい。それだけで少し報われた気がした。こんな状態になって初めてこんな素晴らしい存在に出会うなんて。今更ながら自分の人生って何だったのだろうと思う。少女に対して素直に感謝の言葉が流れ出る。

 「……うん。助けてくれてありがとう。本当にごめん。こんな恩知らずを」

 「ううん。でも、大変なのはここからだから」

 「そうだね。あ、君の名前は?」

 「もう。天子、千歳天子だよ」

 「天子。天子だね」

 「ありがとう健治君。もう私のこと忘れないでね。次は必ず見つけてね。約束だよ」

 ぎゅっと小指同士を結んで、指切りする。天子の姿はスッと消えていく。果たして、僕はもう一度彼女を見つけ出すことはできるのだろうか。いや、必ず見つけ出して見せる。そう固く心に誓う。

 (よし、そろそろ行くか。心の準備はいいか)

 「大、丈夫です」

 (よし、じゃあそこんとこまっすぐまーすぐ歩いていき、そのうち消えてまうから)

 言われた通り真っ白な空間をまっすぐ進んでいくと、真っ黒な円が見えてきた。トンネルだ。入っていく。奥がどこに続いているかわからないほど暗い。それでも進む。

 (あ、ちなみに言い忘れてたけど、過去の記憶もそうだけど、ここでの会話も封印しておくから)

 「え、じゃあどうやってあなたや天子に会えばいいんですか?」

 声がだんだん遠のいていく。モワモワと聞こえづらくなってくる。

 (とにかく、天子を探せ。私を探せ。宝珠が…導…………)

 真っ暗闇の中、ひたすらまっすぐ進んでいく。まっすぐかどうかもわからないが、とにかく暗闇に入った時からまっすぐだと思った道を進んでいる。空狐の声はもうフィルターのかかった低音のようにモコモコとしていて聞き取れない。天子を探す。空狐を探す。宝珠は何のことかわからないけど、まぁ多分ドラゴンボール的なことだと思う。そして、記憶はテレビの電源を落とした時のように、ブッツリと、消えた。

 

 *

 

 「……思い、出した」

 今の状況を完全に理解した。空狐が造り出したこの世界で高校生として過ごした記憶と、現実世界の過去の記憶が混ざり、白い空間での空狐とのやりとりを思い出して、ようやく諸々を完全に把握する。

俺はまた天子のことを忘れてしまっていたらしい。嘘つきだと罵っておいて、自分のほうが嘘をついていたことになる。記憶が改竄されていたとはいえ、忘れていた事実は変わらない。天子がそれでも優しくしてくれていたことに、目頭が熱くなる。空狐にしてもそうだ。妖狐だから、人間とは違うのだからと、騙された、貶められたと思い込み、先入観で怒りに任せてつっかかってしまった。恥ずかしい。本当の姿なんて決して良いものじゃない。真実がハッピーエンドになるとは限らない。ただ、それでも思い出してよかったと思う。見た目は子供、頭脳は大人状態ではあるけれど、これが嘘偽りない自分だ。俺は何かを克服できたんだろうか。わからない。でも、もう少し生きてみようとは思う。薬も酒もタバコもやめようと思う。そう思えるだけでも、十分な進歩なんじゃないか? 生きよう。頭の中の靄が晴れる。妖狐たちの顔を見る。相変わらず不気味なまでに美しい顔が揃っている。その中の無表情な顔と、慈愛の表情の顔に声をかける。

 「天子、空狐、ごめん。ありがとう」二人は優しく頷く。

 「それで、記憶は戻った訳だが、これからどうすれば良いんだ?」

 「戻れるなら、今すぐ戻してやってもいいぞ」

 「いや、少し猶予をくれないか。まだ心の準備が」

 「それもそうだな。二日くらいあればいいか? 正直ここの維持も大変でね」

 「ああ。無理言ってすまない。それだけあれば十分だ」

 この世界で出会った人たちに別れの挨拶をしておきたい。特に、彼女に。

 「ところで、現実世界の縄で首を括った俺は、縄を切る道具なんて持ってないんだけど……」

 「こっちから持っていけばいい」

 「え? アイテムを現実世界に持って行けるのか?」

 「あぁ。三つまでならな」

 「マジかよ。凄いな」ハンター×ハンターのグリード・アイランドみたいだなと思ったけど、口に出すのはやめておいた。このネタが分かる人間がこの中にいないからだ。

 「空狐にしかできない芸当ね」詩音が珍しく口を開く。相変わらず声はか細い。

 現実世界に持っていく物を考える。縄を切るためにナイフは必須だろう。ラピュタならこれにカバンとパンを持っていくのだろうが、生憎バルスしたいわけではない。まぁ、この二日のうちに考えておこう。

 「とりあえず今日はこの辺で解散しましょうか」タイミングを見計らって、陽毬さんが言う。

 「そうだな、二日後にまた集合しよう」

 「あ、集合場所なんだけど、一つお願い聞いてもらえないかな」

 俺は空狐にその内容を告げると、空狐はこくりと頷いて「準備しておく」と約束してくれた。

 「じゃあ、二日後に」

 『二日後に』

 そう声が聞こえたかと思うと、天子と陽毬さん以外は、サッとどこかへ消え去ってしまった。幻想世界の中だと自覚しているはずなのに、やはりあの人たちは幻かも、なんて二重に困惑してしまいそうになる。楽屋は楽器も片付いて、清掃後の伽藍とした味気なさが漂い、ライブの終わりと、この物語の集束を匂わせていた。

 「帰りましょうか」

 陽毬さんに「はい」と返事をして楽屋を抜け、通路を抜け、ステージを抜ける前に、ふと一瞥する。その熱が、数時間前、確かにあったことを実感する。Bang! の黒い扉を開け、ジトジトと汗ばむ熱帯夜に出る。シンとした静けさの奥に、リリリリリとクツワムシかアオマツムシが鳴いている。九月に入っても二十六度前後になる気温は、今までの出来事が徐々にフラッシュバックしてオーバーヒートしそうになる自分の頭の具象化みたいにモワモワとしている。オレンジ色の街灯、アーケード街の仄暗い白明かり、中途半端な形の月、宝珠の煌めき、天子、陽毬さんたちの後ろ姿。この数ヶ月で、慣れきってしまった光景も、二日後、完全に非日常になる。何度噛み締めたって、実感は湧かない。そもそも実感なんて物が曖昧な世界だ。噛み締めようとすることが間違いなのかもしれない。それでも、三人で他愛もない話をポツポツ交わして、首筋にかいた汗を拭って、ウッドデカールのついた黒のセドリックワゴンを目指して歩く。その瞬間を、目に焼き付けておく。

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