第51話 感情オナニー
「なるほどねー。君もずいぶん悩ましい立場にいたわけだ」
話し終わる頃には、神戸さんのついでくれたアイスコーヒーはなくなっていた。
それでも、喉が渇いて仕方がなかった。
初めて人に共有した自身の秘密。
その緊張感は、試合の比ではないほどに、俺の中の全てを締め上げていく。
「それで覚悟を決めた君は、どうして今ここにいるのかな?」
「覚悟を決めたつもりだったんですけど、時間が経つにつれてこのままでいいのかわからなくなってしまって……。もちろん、薫を裏切ってしまったのは俺なので、会う資格なんてないことはわかっています。でも、もう一度会って本当のことを伝えたいとも思うんです」
「悩みもますます悩ましいね。それで、私に何を相談したいの?」
「もし神戸さんが薫の立場だったとして、先ほどの事実を俺から伝えられたらどう感じますか?」
薫に聞けないから、似た境遇を経験した人に自身の想いを吐露し、あまつさえそれに対してどう思うかを聞くなんて、最低な話だと自分でも思う。
けれど、俺にはこうすることでしか前に進めそうになかった。
―――どう感じますか?
いや、どう思うかすら聞いていない。相手の優しさにつけ込み、自分が傷つくのをまだ恐れている。
本当に、嫌になる。
そんな俺の弱さにまみれた質問を受け、神戸さんは少しだけ視線を上に向ける。
「性が変わるってことがどれだけ大変なのか、薫君を見てきた君なら知ってるよね。あ、もちろん、君のように物心ついたころから自身の性に対して悩みを抱え続けるのも大変だというのは百も承知の上での質問」
「それは、はい」
「薫君は大丈夫みたいだったけど、私は駄目だったなー」
「え?」
神戸さんはどこか儚さすら感じる笑みを浮かべながら、指先付近まで隠していた長い袖をそっと捲った。
露わになった右手首には無数の線が刻まれていた。
それは、明らかにリストカットを繰り返した跡。
「これは……」
「あ、今はやってないから安心して。この傷はね、私が男の子になっていた時につけたものなの」
言って、彼女は左手の指先で傷を撫でる。
「性別流転症候群ってさ、世間では深刻に捉えられてないよね」
俺は動揺を抑えるように傷跡から目を逸らし、小さく頷く。
「医者も友達も親もみんな、すぐに戻るんだから、男の子を楽しめばってばかり言うし、実際に性別流転症候群になった人を訪ねた時もそう言ってた」
でもね、と彼女は続ける。
「私は違った。体と心のギャップに耐えられなかった。だって、私は女の子の自分が大好きだったから。毎日早くに起きて丁寧にメイクして、綺麗に髪を梳いて、制服を皺のないよう着て。そして、学校に着いたら友達と流行のメイクや芸能人の話をして。家に帰れば、一日頑張ってくれた肌をしっかりケアするためにクリームを塗って、翌日のメイクを楽しみにして。休みの日は、制服ではできないおしゃれをして街に出て、友達といくつもお店を巡って、途中疲れたら話題のカフェで休憩して。女の子を一生懸命に生きている自分が大好きだった。それなのにある日突然男の子になったかと思えば、一年間もそのままでいろって。何の冗談かと思った」
傷跡を撫でる指に力が入ったのがわかった。
過去をなじるように、憎むように、その細い手首に強い想いがのせられていく。
「私にとって、女の子でない一日は、私そのものの存在が消えた一日と同じだったの。朝起きて鏡を見て、私がそこにいないことを確認する。心がまともな形を保てるわけないよね。気が付けば、腕の傷が増えてた」
神戸さんの気持ちが痛いほどわかった。
理想ではない自分が、自分だと信じることのできない自分がいる感覚はどうしようもなく心にこびりつき続ける。
「正直ね、今でも思い出すたびに吐き気がする。私はね、ずっと男だったときの、自分が自分じゃなかった一年を背負って生きていくんだよ。ずっと誰にも理解されなかった一年間を背負って生きていくの。それは端から見れば馬鹿みたい見えるかもしれない。けれど、だからこそ苦しいんだよ」
「それは……わかります」
俺だってそうだった。
神戸さんは小さく頷きつつ、言葉を繋げる。
「そういう意味では、君が真剣に彼と向き合ってあげているのは素敵だったと思う。
「いえ、そんな……」
「でも、だからこそさ」
彼女の柔らかな言葉の中に、多くの棘が含まれていることに気づき、俺は視線を上げる。
そこには、こちらを軽蔑するような目を向ける木南さんがいた。
先ほどまでの柔和な雰囲気は微塵もなく、こちらへの敵意に似た圧を隠そうともしない。
「もし私が君の友達だったら君を嫌悪するかな。だって、君は心と体、想いが自分の中でちぐはぐなことが辛かったんでしょ? その痛みを、苦しみを知ってるんでしょ? だから、薫君のために動いたんでしょ? なのに、結局、薫君を利用した。自分のために」
「……っ!」
「君の友人は悩んでた?」
「君の友人は苦しんでた?」
「君の友人は君に何を伝えてくれた?」
「君はその子に何を伝えてた?」
「君はその子をどうしようと思ってた?」
「どうなってほしいと思って、声を届けてたの?」
矢継ぎ早に放たれる言葉が、こちらを逃がさないように向けられる視線が、彼女から発せられる全てが、俺の心に突き刺さってくる。
逃げ出したいはずなのに、俺の心は動いてくれない。
ただ、体と同じように、彼女の方を向いて、じっと耐えている。
「ねえ、君はもしかして、私が君とって都合の事を言ってくれる存在だと思ってここに来たの? 今度は、私の事を利用しようと思ってたの?」
「そんなわけじゃ……」
否定できなかった。
だって、図星だから。俺は相談と言いながら、どこか薫と同じ境遇を経験した彼女に、自身の今までとこれからを肯定してもらいたかったのかもしれない。
でも、利用しようだなんてことは思っていなかった。
いや、それは俺から見た自分の話だ。
目の前の彼女がそう捉えたんだ。
それ以上にもそれ以下にもなりようがない。
きっとそれは薫も……。
「君のこれまでの苦労や苦しみを否定するつもりはないよ。薫君が変わってしまったことで、そこに希望を見出してしまったことを責める権利は誰にもない。薫君以外はね」
だからこそ、と彼女は続ける。
「もう理解してくれたと思うけど、私が薫君の立場なら、君のこと嫌いになる。だって、相手の性別が変わったことを利用するだけ利用して、最後は自分を可哀そうな人、傍にいる資格ない人って勝手に感情に折り合いつけたふりして逃げ出したんでしょ? 何て言うんだろ、感情オナニーとでも言えば言いのかな? 想像しただけで、嫌悪感出て来たもん。でも、そうだね、実際に君の友人と同じようにされたら、きっと嫌いとかそんなちゃちな感情では済まないかな」
言って、目に憎悪にも似た光を携えた彼女は言葉を吐き出す。
その奥に、薫の姿が微かに覗いているようにも見えた。
「君とのこれまでを、君との今を、君との未来を、消してしまいたいって思っちゃうかも」
彼女から届く言葉は重く、俺の自分勝手な未来をかき消していく。
あまりにも、まっすぐに、しかしそれでいて否定のしようのな事実は、俺を湖の底へと沈めていく。
そうだとするのなら、俺が薫と繋がり続ける資格なんてどこにもない。
どこにもないじゃないか。
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