第6話 鉢合わせと涙
「危なかった」
教室のある校舎と渡り廊下を挟んで存在する別校舎。
その三階奥にある女子トイレへと僕は駆け込んだ。
いや、股を締めながらだったので、果たして客観的に見て駆け込めていたかどうかはわからない。
それでも間に合ったのだからよしとしよう。
すん、と鼻で息をする。
体に入り込んでくるのは男子トイレとはまた異なる匂い。
僕は思わず下を向く。
誰に見られているわけでもないのに、心の中に存在する罪の意識が僕を苛んでくる。
慣れなければいけないことかもしれないけど、慣れてしまっていいのかすらわからない。
そこからは、できるだけ色んな情報を体に取り込まないように気を付けながら用を済ませ、僕は女子トイレから出た。
「うわっ!」
「おわっ!」
「ま、誠……? どうしてこんなところに……」
トイレを出てきたところで誠と鉢合わせてしまった。
なぜここにいるのか。
わざわざ人気の少ないところを選んだというのに。
僕は顔から血の気が引いていくのを感じた。
いくら友人とは言え、こんなところを見られたくはなかった。
せめてもう少し、僕の気持ちと体とその他もろもろが落ち着いてきたところで見られたかった。
いや、積極的に見られたいわけではないけども。
「なんでって、桜井先生に日直日誌を持って行ってたんだけど」
僕の動揺を察したのか、少しだけ視線を上に向けながら申し訳なさそうに頬を掻いた誠。
「あ、あー、そっか。そうだよね」
桜井先生は僕らの担任で化学の先生。
うちの高校だと先生はどの科目関係なく職員室にいる。
けれども、桜井先生は大勢がいる空間にいたくないという理由から、今僕らがいるフロアに存在する化学準備室を一人職員室にしている少し変わり者。
日直は放課後、先生に日直日誌を届けることになっている。
そして、その日誌を届けることで仕事は終了する。
つまり、今僕の目の前にいる誠はすべての仕事を終えた直後ということになる。
「ああ、ほんとごめん。もうそこまで終わってたんだ。本当にごめん」
「日直の仕事なんて大したもんじゃないし、そんな気にすることでもないだろ」
「でも今日は、誠に全部してもらってしまったし。役に立てなかった。ごめん」
僕はうなだれる。
誠が言うように日直の仕事なんて大したことはない。
でも、女の子になり世界から外れてしまったような感覚を覚えている僕にしてみると、その大したことのない仕事すらこなせなかった自分が情けなくなってしまう。
悲しくなってしまう。
自分の居場所がどこにあるのかわからなくなってしまいそうになる。
怖い。
「本当に気にするな。それよりも薫、大丈夫か? 正直きつかったろ? 女として過ごすの」
「あー、でも誠がいろいろ調整してくれてたから、全然快適だったよ。変な風に見られたり、言われることもなかったし」
「そうじゃねえよ」
僕が笑顔を作りかけたところで誠が制する。
「俺が聞いてんのは薫の心の問題だ。俺が整えることができたのは外側だけ。でもお前の心の問題だけはどうにもできん。トイレ行くのだって放課後まで我慢してたんだろ?」
彼の言葉が、優しさが、纏う空気が、微かに痛みを発し始めた僕の心に染み込んでくる。
「だ、だって急に女の子になって、急に女の子として生活しろって言われて、でも心は男のままで。僕から僕は見えないから、僕はどこまでも男なんだ。周囲からしたら女の子かもしれないけど、僕は男なんだよ。でもだからこそ、どうしていいかわからない。今だって女子トイレに入ったけど、それでよかったのかわからない。きっと明日も明後日もその次の日も僕は同じように悩むと思う。それ以外だってきっと……」
ほろりと涙が落ちたのがわかった。
別に泣きたいわけじゃなかった。
ただ少しだけ、誠に心を寄りかからせてもらうだけでよかった。
なのに、勝手に涙が零れ落ちた。
僕はそれを拭うことすらできずに拳を強く握りしめる。
すると、そんな僕の頬を誠が拭ってくれた。
キャラじゃないだろうに。
少しだけ気恥ずかしそうに、それでもこちらをまっすぐに見据えながら彼は僕の涙を拭う。
「俺にできることは限られている。でも、友人として薫にできる限りのことはしてやりたい。それでどこまでお前の心を救えるのかはわからん。だからこそ、何でも言ってくれ」
「ありがと。ありがとね」
ほろほろほろりと落ちていく涙は、しばらく止まることはなかった。
優しく、そしてとても暖かく涙を拭ってくれた誠の心が嬉しくて、僕は静かに彼の前で泣き続けた。
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