本気で小説を書くために、覚えておきたいこと。

木村太郎

つまらない作品に出会ったなら、書け。

 面白い作品にしか触れたくない、という意見がある。

 もっともだと思う。


 ぼくだって、つまらない作品よりは面白い作品に常に触れていたい。読書だろうと映画鑑賞だろうと、お金を払っているのだ。よしんば無料のコンテンツであったとしても、時間は傾けている。 

 だから、つまらないものに出会うと本気で腹が立つ。

 なかでも腹立たしいのは、志の低い作品に出会った時だ。作者の情熱がかけらも見受けられず、「こんな感じでどうですかねえ」とこちらを上目遣いで探ってくるような作品だ。「こんな感じ、お好きでしょう?」

 おまえはどうなんだと問い返すと、連中はこうのたまう。

「いえ、私はね。こういうのは、あんまり……」

 じゃあ作るな。

 その一言に尽きる。


 ただしこれは、あくまで消費者としての意見ではないのか、とさいきんは思うようになった。


 面白い、という強烈な感情体験は、多くのものを心に植え付ける。

 細かな雑学的知識から、行動原理、思想、美学、人間像、あらゆるものが、自然とぼくたちの心に根を下ろす。脳髄がしびれるような「面白い!」という心の咆哮とともに、ぼくたちは人生を幾度も幾度も変えられてきた。

 価値観はアップデートされ、世界を見る目を改めさせられる。

 人間として、ほんのすこし成長を遂げる。

 面白い作品には、その強制力があるのだ。


 では、つまらない作品は?

 受け取るものは、少ない。強制力にも、乏しい。

 しかし、そういう作品との向き合い方によっては、さまざまなものを受け取ることができる。きみが作る人間であるのなら、なおさらだ。


 受け取るべき最大のものは、

 、である。


 きみは怒ったはずだ。

 この作品のあまりのくだらなさに、つまらなさに、憤ったはずだ。その怒りを書き出してみるがいい。どこがどのように舐めているのか、甘いのか、高をくくっているのか、すべてを書き出してみるのだ。どこでじぶんが冷めてしまったのか、どこで怒りを掻き立てられたのか、こくめいに、執念深く、書き連ねてみるのだ。


 そこに、創作の芽は存在している。


 きみの怒りは、きみというフィルターを通して現れた、きみ自身の価値観の表明だ。きみがなにを許せず、なにを真摯に捉えているのかが、その怒りのなかには内包されている。

 そして、それこそが、きみの書くべきものである。


 基本的に、作品に接するときには、ノートを広げておくといい。

 なんだこれ?

 なに考えてんだ?

 そう思った瞬間に、ふつふつとたぎる怒りを、すかさず白紙の上に叩きつけてやる。


 怒りとはエネルギーであり、原動力だ。

 既存のものに対する怒りが、この世の中を革新し続けてきた。つまらない作品に出会い、壁に本やディスクを叩きつけてやりたくなったときには、SNSやAmazonレビューに「クソ。星1つももったいない」などと書き込んでいないで、テキストエディタを立ち上げるべきときなのだ。


 技術なんて要らない。情熱しか要らない。

 いまはそういう時代だ。

 きみはうまく作る必要なんてない。エネルギーと愛に満ち溢れた、渾身の面白さをストレートで叩きこんでやればいいのだ。つまらない作品をつくった作者の鼻を、叩き折ってやれ。


 読め。

 怒れ。

 そして書け。


 世界を、面白い作品で満たしてくれ。

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