蒼い海に抱かれる二日月
ひとひら
第1話 夜に溶ける
※過去の傷や心の痛み、親密な描写が含まれます。
そっと耳を傾けるように、物語に寄り添っていただけると嬉しいです。
名前を呼ばれるたび、
僕はひと欠け、またひと欠けと削られていく。
それは、本当の名じゃない。
この街で生き延びるために与えられた、仮の音。
愛されるふりを繕うためだけの、記号。
呼ばれるたび、僕は少しずつ透明になる。
ネオンの光が肌に溶ける。
歌舞伎町の雑踏は、生きもののように呼吸していた。
午後十時を過ぎ、街は昼の顔を捨て、本当の姿を現す。
酔客の笑い声、呼び込みの声、遠くから流れる音楽。
すべてが混ざり合い、耳をくすぐる喧騒になる。
それが、嫌いじゃなかった。
むしろ、好きだった。
この喧騒に身を委ねると、心臓の音がかき消される。
考えることを止められる。
流されるままに、夜に溶けていける。
スマートフォンが震えた。
——『30分後、いつもの場所で』
短い言葉。既読をつけても返事はしない。
いつものことだ。
ポケットに戻し、コンビニで水を買う。
店員は僕を見ない。視線を交わさない。
それが、どこか救いだった。
夜の街へ足を運ぶ。
慣れた道。
一年前、この道を初めて歩いたときの震えはもうない。
あの時は、足が竦み、何度も引き返しそうになった。
——大丈夫。これは依頼された時間だ。ただの時間。
狭い路地を抜け、約束の場所に辿り着く。
既に彼女はいた。三十代ほどの疲れた顔。
結婚指輪が街灯に柔らかく反射している。
「遅かったわね、ルカくん」
微笑む彼女に、僕は言葉を返さず頷く。
ルカ。
夜のためだけに与えられた名前。
本名は、誰にも明かさない。
——結城朔(ゆうき さく)。
この世界では、朔は存在しない。
ルカとしてしか、生きられない。
部屋に入り、シャワーを浴びる。
白いタオルで髪を包む。鏡は見ない。
見れば、動けなくなる気がした。
ベッドに腰を落とす。
彼女の手がそっと触れる。僕は小さく震える。
——ガシャン——
皿が割れる音。怒声。
声がした。
「産まなきゃよかった」と。
壁に叩きつけられる背中。息が詰まる。
「……大丈夫?」
女性の声に、僕は作り慣れた笑みを返す。
「大丈夫です」
嘘だ。
でも、それ以外の言葉はなかった。
肩に触れる温度。僕は目を閉じ、遠い世界へ逃げる。
ここには、僕の心はない。
肌の上をなぞる指先。頬に触れる唇。
けれど胸の奥には、冷たさが広がっていた。
抱き寄せられる腕の中で、僕は役を演じる。
愛されているふり。欲望に応えるふり。
そのたびに、心は削られていく。
「ルカくん……」
耳もとで囁かれるたび、本当の名前は深く沈む。
結城朔はここにはいない。
ここにいるのは、夜だけの存在。
視界がぼやける。
温もりに包まれているはずなのに、遠い。
触れるたび、僕は透明になる。
——これは愛じゃない。
わかっている。
けれど、必要とされる錯覚に、ほんの一瞬だけ息ができる。
生きている、と錯覚できる。
一時間後。
すべてが終わる。
封筒を受け取り、中身は確かめない。
ポケットに押し込み、部屋を出る。
外に出ると夜風が頬を撫でる。
深く息を吐く。
またひとつ、終わった。
これでまた一週間、生き延びられる。
歩きながら、空を見上げる。
ビルに遮られ、星はひとつも見えない。
東京の夜空は、いつも深く、暗い。
——なぜこんなことを始めたのか。
答えは簡単だった。
愛が欲しかった。
十九年間、誰にも抱きしめられたことがなかった。
優しい言葉をかけられたことも、なかった。
親にも、誰にも。
愛を知らない。
でも、求めてしまう。
触れられたい。温もりが欲しい。
だから選んだ。
触れられる時間。
それが愛じゃないことは痛いほど知っている。
でも、これしかわからない。
コンビニ前で足を止める。
ガラスに映る自分の顔。
整った顔立ち。男でも女でもない、中性的な美しさ。
この顔は武器。
だけど、愛せない。
母の言葉が耳を掠める。
——「……その顔じゃ、愛さない」
僕は首を振り、歩き出す。
考えるな。思い出すな。ただ、前だけを見ろ。
帰るのは古びたマンション。
三階の八畳。
ここでは僕は、ルカじゃない。
でも、朔としての生きる実感も持てない。
シャワーで肌を洗い流す。触れられた跡も、言葉も、全部流し去る。
けれど、記憶は泡と共に消えない。
ベッドに沈み込み、天井を見上げる。
胸の奥で、問いがひそやかに響く。
——これで、いいのだろうか。
答えはない。
もう、何を信じていいかわからない。
でも――
それでも、心のどこかでまだ、誰かに救われたいと思っている。
こんな僕でも、触れられていいのだと、
抱きしめられても、許されるのだと。
誰か、そう言ってくれないだろうか。
そんな儚い願いを胸に、今夜も薄い口紅を塗り直す。
鏡越しに、ふと窓の外を見やる。
夜空には、か細く欠けた二日月が静かに浮かんでいた。
まるで、僕の揺れる心のかけら――
壊れそうで、儚く、それでもなおひそやかに光をたたえている。
ネオンの光が、瞳の奥で切なく滲む。
ただ、夜が来る。
僕はまた、夜の街に溶けていく。
それでも——
どこかで誰かが、僕の名を呼ぶ気がした。
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