ユキトハレ
江川オルカ
一章
1話
男・
春一番の風が吹き抜ける。城下町を抜け、小高い丘の上にそびえる、中世ヨーロッパ風の壮麗な邸宅。鉄格子とラウンドアバウトが、不気味な重圧を放っていた。
警備員は見当たらない。最新の警備システムがあるから十分だ、と現当主は言った。現実その通りでこれまで侵入者は一度もなかった。――そう、今までは。
黒い軍服に身を包み、抜き身の短刀を握った世那が門を見上げている。
月が雲間から顔を出した、その瞬間。世那は地を蹴り高く跳び上がった。人のものとは違う異様な白髪を靡かせ、獣のような真っ赤な瞳で辺りを確認する。
音もなく着地をすると、風を切るように走り出した。警備システムの盲点をまるで記憶しているかのようにすり抜ける。彼の動きには一切の迷いはなかった。
邸宅の前に着くと裏口のドアを開け、難なく侵入に成功した。
中は外側と変わらず厳かな佇まいだ。白い漆喰の壁、大理石の床。歪んだガラス窓や、小さなシャンデリアが重厚感を醸し出す。
普段の世那ならば反応しただろう。しかし、今の世那はまるで操り人形だ。光のない真紅の瞳でじっと廊下の向こう側を見つめ息をひそめた。
がちゃっと音が鳴り、部屋から執事が出てきた。執事は世那を見つけると大げさなほど肩を揺らした。
「だ、誰だ!?」
世那は握った短刀をだらしなく下に向けたまま、執事の声に反応しなかった。そしてそのまま、ゆっくりとした速度で歩き始めたのだ。
「おい、止まれ」
執事は低い声で短く命じた。するとどうだろう。世那は大人しく足を止めた。
執事は首を傾げた。目をこらして世那の二の腕付近に縫い付けられている黒の部隊章を見て息を飲んだ。
「まさか、お前……親なし吸血鬼か?」
世那は答えない。何を捉えるでもない座った目でじっと執事を眺めているだけだ。
通常は生まれついての吸血鬼・
だが、親なし吸血鬼は主人を持たず、社会では最も低い地位にある。近年、その数は急激に増え、国は保護・管理を名目に捨て駒として軍に所属させている。黒の軍服と部隊章が証だ。
妙だ、と執事は思った。
明らかに敵意を向ける様相にも関わらず、殺気がないのだ。親なしに主人はいない。だというのに、まるで何かに命ぜられたような、元人間の吸血鬼しか知らない喜びをこの闖入者は知っている。
「……排除するまでだ」
戸惑いを捨てるように呟くと執事はそっとポケットに手を入れ警棒を取り出した。一振りして獲物を長くする。その瞬間、執事の髪が白髪へ、瞳が真紅に染まった。執事は世那と同じ、元人間の吸血鬼だったのだ。
「久木野に侵入できたことは誉めてやろう。だが、その先は死のみだ」
世那の鼻先がくんと動く。
「くぎの……?」
世那は唇を真一文字に結び、短刀を構えた。柔らかな絨毯を蹴り、執事に向かって飛びかかる。執事は、ハッと口を開いたがすぐに歯を食いしばり、向かってくる短刀を警棒でいなした。
「くっ……」
世那と執事では圧倒的に力の差があった。間を置かずして世那はくるりと短刀を手の中で回して握り直すなり、壁を蹴って執事の上から飛びかかった。
「っぐ……、クソ」
間に合わなかった。警棒を握っていた手に短刀の刃がしっかりと刺さってしまった。執事は唸り声を上げながら、短刀ごと世那を振り払った。
その時、ダンッと鼓膜を突き破るような低い音が響いた。世那は途端に力を失い、床に伏した。
「大丈夫か?」
執事の背後からもう一人の執事が銃を構えたまま近づいてきた。先にいた執事の身体からは力が抜け、ふっと溜息を吐いた。
「銀弾か」
「お前が叫んでくれたからな」
「すまない」
「なに、大したことじゃない」
撃たれた男の腹部からは血がとめどなく流れ、はじめこそ荒く息をしていたが徐々に呼吸がか細くなっていく。
その様子を伺いながら銃を構えた執事は更に話す。
「旦那様がいないのが不幸中の幸いだったな」
「
「もうすぐおかえりのはずだが」
「はぁ……減給じゃすまないぞ。下手したら俺たちはクビか、最悪殺される」
「何の騒ぎだ」
低くもどこか澄んだ声が二人の会話を裂いた。
執事たちは背筋をピンと伸ばして振り向き、その者に深々と頭を下げた。
「お、おかえりなさいませ、……利津様」
執事の声は震えていた。
現れた男・久木野利津はきりっとした鋭い翡翠色の目を細め、倒れている男を睨んだ。
「倒れているそれは何だ」
「はっ、これは……」
「侵入者です!」
コツンコツンと硬い革靴の音が広い廊下に響く。
癖のある銀髪は、きっちりと後ろへ撫でつけられ、しっかりと固められている。端正な顔立ちもあり、髪と同じ色白な肌のせいで、一見すると体はひょろりとした体形に見える。だが、その歩き方からは、相当鍛えられた身体であることがはっきりと伝わってくる。
利津はゆったりとした足取りで近づき、ジロリと倒れている男を見下ろした。
世那は顔を動かし、近づいてきた者を見上げた。もともと浅かった呼吸が、その瞬間だけ止まる。
利津は
世那が身を固くするのは当然だったが、利津も何かを感じたのか、わずかに口元を引き締め、何の迷いもなく世那を持ち上げた。
「俺が預かる」
「え?」
「父に報告は無用だ。俺から伝える」
「それは、あの……」
翡翠色の目が細められ、ぎろりと執事たちを睨んだ。
「口答えをするつもりか?」
たった一言。その場にいるものは息を詰まらせた。元人間である吸血鬼にはない捕食者の覇気。二の句を告げられないほどの確固たる言動に誰が言い返せるものか。
「……いえ」
執事の一人がやっと声を絞り出す。
利津は無感情な目を執事から逸らして、世那を抱えたまま歩き始めた。執事たちはついてくることなく深々と頭を下げ続けていた。
利津が角を曲がったところでメイド服を着た少女が一人立っていた。送毛ひとつない茶色の三つ編みは、少女が頭を下げるとふわっと揺れた。
「おかえりなさいませ」
利津は少女を一瞥するだけで歩みを止めず、少女の横を通り過ぎた。少女は凛と背筋を伸ばして利津の三歩後ろをついていった。少女は抱えられている世那をちらりと見て話し始めた。
「どちらへ」
「三階の角に空き部屋があっただろう」
「かしこまりました。では、佐藤にも伝えておきます」
「あぁ」
少女は足を止め、今一度頭を下げて利津を見送った。
世那は意識が混濁する中、二人の会話をどこか他人事のように聞き、意識を飛ばした。
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