婚約破棄された悪役令嬢ですが、辺境で冷徹軍師と最強国家を築きます!

林凍

第1話 誓う――婚約破棄の夜に、悪役令嬢は屈しない

 王城の大広間は、昼に飲み干された祝祭の杯の匂いをまだ喉奥に残していた。百の燭台がゆらぐたび、磨かれた大理石の床には、溶け残った蜜のような光が薄く伸びる。楽師たちが片づけをしているのか、遠くで弦がひとすじだけ間違えて鳴り、すぐに沈んだ。夜はいつもそうだ。終わったことの残響だけが、耳の膜の裏側でぬるく長引く。


 その響きの隙間に――王太子アルベルトの声は落とされた。


「クラリス・リンドバーグ。婚約を破棄する」


 その一言で、蜂蜜色の光は砂糖菓子みたいに粉になった。砕ける音はしない。音のない崩落ほど、ひどいものはない。理由はすぐに続いた。「嫉妬深く、他令嬢を陥れた悪役令嬢だから」。他でもない、私のことで、私のことでない言葉。侍女が差し出した重たい書簡束が、判決文の束であるかのように私の前に掲げられる。御前を護る近衛の鎖は、歩くたびに涼しい音をこぼして、それがどうしようもなく礼儀正しくて、余計に残酷だった。


 母の嗚咽は袖で丁寧に覆われ、父の沈黙は、古い鍵のように固く嵌められている。廷臣たちの口の端が、うっすらと上がっていた。上げたまま固定できるのが大人だとでも言わんばかりに。私は一度だけ、唇の裏側で言葉を探した。喉元まで上がったのは、反論ではなく呼吸の仕方の記憶だった。肺のどこを先に膨らませるか、背筋は何度で保つか。陛下の冷い視線が横から針みたいに刺さり、「御前で侮辱を重ねるな」と、静かに空気が言った。命令は声だけではない。礼装のコルセットが胸を締める。香の白い煙は喉の奥に薄く刺さり、目は刺青のような眠気に滲む。ああ、と私は心の奥で納得した。事実ではなく「構図」が先に作られているのだと。私の顔の輪郭も、声の高さも、仕草も、すでに誰かの脚本に塗りつぶされているのだと。


 追い打ちのように、アルベルトの声は滑らかに続く。


「侯爵家の爵位は剥奪、クラリスは辺境クレーゼンへ追放する」


 近衛の槍が床石に触れて、乾いた金属音を散らした。侍女の一人がわざとらしく目を伏せる。上げたまつ毛の影は濃く、彼女の唇の赤は夜に似合いすぎるほど似合っていた。私は視界を歪ませながら、しかし涙は落とさないでいた。涙は、熱と重さで地面に落ちるだけのものだから。あの人たちは私の涙を、綺麗な飾りか、汚らしい雨か、どちらかに振り分けて、また構図の中に収めるだろう。そんなものに、私の水分は使いたくなかった。


 「悪役令嬢」――とても便利な言葉だ。宮廷社会が気に入らない女へ貼るレッテル。物語の都合で必要な加害者像。誰かの選んだ白をより白く見せるために、隣に置く黒。けれど私は思う。黒は黒自体で美しい。夜の海の黒、熟れた葡萄の皮の黒、髪の湿り気の黒。どれも、混ぜれば何色にも染まるし、混ざらなければ何も侵されない。


 夜。馬車へ押し込まれる直前、私は大広間の扉口でひとつだけ振り返った。王太子の隣には、新しく選ばれた「清らかな」令嬢。白いドレスの裾は、小川の泡みたいに照明にきらめいていた。二人の笑みは、何も知らない子どもの勝ち誇り方に似ている。勝ち方を教えられた笑いだ。私は唇を整え、内側で言葉を置いた。


――必ず、真実を暴く。私を嘲ったすべての者に、ざまぁを返す。


 誰にも聞こえない誓いほど、骨に近く沈む。私は背筋をまた伸ばした。


 馬車の中は冷え、革張りの座面は夜露の匂いを帯びていた。小さな窓からは城壁が後退して見え、石の肌は思いのほか柔らかい色をしていた。侍女は離れ、従者は沈黙を盾にして遠のく。味方の不在は、思ったほど心細くない。味方であるふりをした傍観の数を、私は知っているからだ。私は手袋の縫い目を指でひと筋なぞり、呼吸の形を整えた。怒りは使いどころを間違えると、ただの発熱で終わる。今必要なのは、時間の上に積み上げる理性だ。辺境に落ちても、舞台はそこに敷ける。持ち出せるものは、意外と多い。読み書き、計算、領地運営の基礎、礼儀、交渉、そして人を見る眼。権勢は剥がれる。習熟は剥がれない。誰にも没収できない。


 路はすぐ泥に変わり、車輪は何度も小さく空を蹴る。古い街道沿いの柳は夜風に鳴り、梟の声が近く遠くを行き来した。肩口の留め金が冷えるたび、私は数を数えた。十六、十七、十八。数えることには形がある。形は、恐怖の輪郭を縁取る。縁取りのあるものは、たいてい手で掴める。掴めるものは、動かせる。


 やがて、車輪が深い溝に取られて止まった。護送兵のひとりが乱暴に扉を開け、「今夜は前線砦で一泊だ」と、吐き捨てるみたいに言った。吐き捨てる声がいちばん楽なのだろう。責任の形を持たないから。私は外気を吸いこんだ。湿った苔の匂い、獣の体温の残り香、崩れかけた石の粉。欠けた櫓が月の皿を割ったみたいな輪郭で立っていた。砦は、権力を守るために建てられたものが、権力の注意から外れると、こんなにも簡単に古びるのかと教えてくれる。私は足を降ろし、土の冷たさを踵で確かめた。冷たさに輪郭があった。よし、と心でひとつだけうなずく。


 屈しない。復讐は結果であって方法ではない。私は生き残り、資源を集め、人心を掌握する。物語の主語を「彼ら」から「私」に戻す。私の国を、私のサイズから始める。


 砦の中庭は、雨水を受けた桶がいくつも並び、薄い月の線が水面に震えている。馬屋の木戸の隙間からは、草と汗が混ざったやわらかい匂いがした。護送兵たちは焚き火に背を向け、薄い塩漬け肉を噛みちぎりながらカードを切っている。私はその横を礼儀正しく通り過ぎ、空いている兵舎の一角を指示された。藁の寝床。壁の石の隙間から風が通る。肩掛けをもう一枚頼むと、兵士は肩をすくめる仕草で「ない」と答えた。ないものは、ない。私はうなずき、代わりに手を動かすことを選んだ。


 藁束をほぐし、湿っていない層だけを抱えて寝具にする。壁際の隙間に石を詰め、風の通りを緩める。火に近い場所を譲ってくれた若い兵士には、持っていた干し葡萄を二粒だけ渡した。二粒は、数字としてちょうどいい。恩義を生み、依存を育てない。葡萄の甘さは、夜の歯にやさしかった。


 ひと段落してから、私は砦の周辺を歩いた。鉄の鉤は錆びているのに不思議なほど美しく、壊れた井戸の縁は、長く使われた器のように手になじむ。私は砦というものが嫌いではなかった。機能のために削られたものは、静かで誠実だ。豪奢は理不尽と仲が良いが、粗朴は現実と手をつなぐ。


 その時、闇の向こうから低い声が落ちた。


「生き残りたいなら、もっと良い誓いを立てるべきだ」


 灯りの届かない外縁に、ひとりの男が立っていた。黒い外套。無駄のない所作。感情を削った目。名乗りもしないのに、視線の刃は十分な情報だった。人を斬るのではなく、余分を削って形を露わにする種類の刃。私は足を止め、彼を見た。焚き火を背にしているせいで、顔は暗く、鼻筋だけが月光を拾っていた。


「良い誓い?」と私は問う。声は想像より落ち着いていた。


「復讐は、誓いとしては浅い。浅い誓いは、浅い味方しか連れてこない」


 彼は言い切った。教訓の調子は不快だが、言葉の骨は立派だった。私はほんのわずかに顎を上げる。


「では、こう言いましょう。私は――私の国を作る」


 焚き火がぱちりと音を立て、火の粉が飛んだ。男の目の奥にうすい光が走る。驚きではない。計算の途中で足し算の桁が合ったときの光。


「いい。だが、国は言葉では立たない」と彼は言った。「地図、道具、数字、そして、人」


「人なら、ここにいる」と私は言った。「今夜は二粒の葡萄でいい。明日には、藁束を乾かすための屋根を借りる。明後日は、馬屋の水桶を満たす係を買う。小さな範囲から、役目を回し、感謝ではなく習慣を育てる。習慣は裏切らない」


 男は少しの間、黙った。沈黙にも種類がある。相手を試す沈黙と、自分を測る沈黙。彼の沈黙は後者に近かった。


「名は」と彼が言う。「訊かなければ礼を失する」


「クラリス・リンドバーグ」と私は名乗った。「悪役令嬢、と呼ばれていた女」


「呼ばれていた?」と彼は片眉をわずかに動かす。観察者が、観察対象の言い回しに興味を示すときの角度だった。


「役割ほど、脱ぎ捨てやすい衣はない」と私は言う。「ただ、丁寧に畳んでおけば、寒い夜にまた着られる」


 男の口元が、見えないほど小さく笑ったのを、私は見逃さなかった。


「俺はリュシアン」と彼は言った。「姓は捨てた。亡命者だ。冷徹で、孤独で、刃物のように役に立つ。そういう評判だ」


「評判は便利ね」と私は答えた。「先に使い方が書いてあるもの」


 風が砦の旗の残骸を鳴らした。布の裂け目が音を持つのを、私は初めて知った。破れは、風の通り道になる。通り道は、新しい音を連れてくる。


「相談だ、クラリス」とリュシアンは言った。「お前は国を作ると言った。俺は国から捨てられた。俺に必要なのは、土地ではなく、もう一度選ぶ機会だ。お前に必要なのは、剥ぎ取られない力。互いの足りないものは、互いの手にある」


「盟約を」と私は言った。声が、焚き火の温度で柔らかくなるのがわかった。「私と共に、国を作る。私が『悪役令嬢』という烙印を逆手に取る間、あなたは『亡命者』の視野で冷徹に策を立てる。王都に抗い、物語を奪い返す。代わりに、私の作る国の机の上で、あなたの名を、もう一度選び直す」


 リュシアンはわずかに目を細めた。焚き火の音が遠のいた気がした。彼は手袋を外し、素手を差し出した。火にあたっていない指先は驚くほど冷たく見えた。私は手袋を外して、その手に自分の手を重ねた。薄い皮膚の下で血が行き来する。温度の違いが、約束の現実味を持たせた。


「共に」と彼は言った。「国を作る」


 私たちの影は、壁に長く伸びて絡まった。影同士が最初に距離を詰める。体はそのあとで追いつく。約束とはそういうものだ。先に先行してしまうもののあとを、人間は追いかける。


 手を離してから、私は砦の空を見上げた。星は都会のそれより粒が大きい。冷たそうで、しかし見ていると舌の奥に甘さがにじむ。遠い砂糖の反射みたいだ。私は息を吐き、これから必要なものを頭の中で並べた。明日の朝のための水。沸かすための鍋。砦の権限を持つ兵長の名前。井戸までの距離、馬屋の頭数、乾いた薪の在庫。譲渡できるものと、譲渡させるもの。配れる役目、集められる役目。交換は、力の最初の形だ。


「まずは砦の地図が必要ね」と私は言った。「紙でなくてもいい。歩数で刻む。十五歩で角、八歩で石段、二十二歩で崩れた壁。歩いた分だけ、私の領土が増える」


「お前は数字で国境を引くのか」とリュシアンが言う。


「最初の国境は、概念の中に引くのがいちばん安全よ」と私は答えた。「奪えないから」


 彼の目がまた、計算の光を拾った。私は気づく。彼は私の言葉に反論しない。反論よりも、先に別の選択肢を置く。冷徹が、誰かにとっての救いでありえる瞬間を、彼は知っているのだ。


 兵舎に戻る途中、私は焚き火のそばでカードをしている兵士たちに近づいた。ひとりが咳込み、喉の奥がひゅうと鳴った。私は腰を折り、持っている小瓶からハーブの粉を少し手に取り、湯に落とした。城勤めのころ、薬草棚を整理するのは私の役目だった。宮廷の病は、名前が長くてもやることは同じ。温める、休む、水を飲む。湯気が立ち、薄荷の匂いが広がった。彼は驚いた顔でそれを受け取り、罪悪感のような礼を言った。私は首を振り、「明日、井戸の滑車の油が切れているはず」とだけ告げた。彼は瞬きを一度して、カードを伏せた。伏せた一枚に、微かな尊敬の影が落ちた。尊敬は、忠誠の苗床になる。苗床に水をやるのは、楽しい仕事だ。


 夜が深くなる。砦の壁に、風の縞模様が走る。藁の寝床に戻る途中、私はもう一度だけ空を見た。星の間に、黒い筋が流れる。流星だと気づくまでに少しかかった。願い事を唱える余裕はない。願いは、叶えるか、捨てるかだ。私は肩掛けを首もとまで引き上げ、目を閉じる前に、心の中で誓いの文句を短く整えた。


――私は、私の国を作る。


 朝はひどく静かだった。砦の外は、霧で牛乳のように白い。濡れた草に小さな靴音が点々と続き、馬屋からは鼻息が漏れる。私は早く目が覚め、藁の寝床から出ると、靴の裏を確かめた。泥は薄く乾き、紙のように剥がれた。歩ける。歩ける日は、何をしてもいい。


 井戸の滑車は、やはりぎいぎいと鳴いた。油が切れている音だ。私は兵舎の倉庫から動物用の脂を少し借り、布に含ませて滑車に塗った。音は短く変わり、やがて止んだ。音が止むと、人は私の存在に気づく。音は紹介状だ。無音は信用状だ。私は桶を満たし、馬屋へ運んだ。馬の目は大きく、黒曜石のような色をしている。彼らは手に唇を押し当て、水の匂いを探ってから飲んだ。私は手の甲で額の汗を払う。汗は塩の味。労働の味は、心を軽くする。軽くなった心は、重いものを遠くまで運べる。


「朝から働く悪役令嬢も珍しい」と背後で声がして、私は振り返った。リュシアンが、昨夜と同じ黒外套で立っている。夜よりも顔が見える。頬の骨は薄く、目は深い井戸の底みたいに静かだ。


「悪役令嬢ほど、早起きしないといけないのよ」と私は言った。「遅く起きる善人は、誰かが起こしてくれるけど、私を起こす人はいないもの」


「自己認識が救いだ」と彼はからかいもせずに言った。「今日、砦の兵長と話す機会をつくる。お前は何を求める」


「砦の内側での自由」と私は即答した。「巡回路の一部、井戸と馬屋と倉庫に出入りできる許可。あと、使われていない物置を一間。そこに机と椅子を置く」


「机と椅子?」彼は少しだけ首を傾げる。


「国は、机から始まるのよ。書く場所、数える場所、分ける場所。椅子は人を座らせる。座らせた人から話を引き出せる」


 彼は黙ってうなずいた。そのうなずきは、肯定というより、今後の計算に変数を追加した者の動きだった。私は、彼の沈黙が好きだと気づく。言葉の間が、無駄なく美しい。余白は、恐れない人のものだ。


 兵長との話は、思っていたより容易かった。私は砦に残るつもりのない女で、彼は砦に残るつもりしかない男だ。見ている先が違う者同士の話は、意外とうまくいく。私は彼の机の上に、昨夜のうちに書いた短い目録を置いた。井戸の滑車、馬屋の桶、崩れた西壁、湿気の溜まる倉庫。必要な修繕の順序と、必要な人数、必要な時間。それらに対して、私が用意できるもの――洗い場の仕切りを布で作る、小麦粉の配給を曜日ごとに分ける、藁束の置き方を変えて乾きをよくする。彼は目だけで追い、時々短い合図でうなずいた。紙の上で話ができる男は、信頼できる。紙を怖がる人は、たいてい自分の言葉を怖がっているから。


「しかし、許可の対価は?」と彼は最後に訊いた。鋭い。私は微笑んだ。


「対価は、砦の手柄があなたの名で王都に届くこと。修繕の帳面も、食糧の配分の帳簿も、あなたの印で上げる。私は書く。あなたは署名する。代わりに私は、砦の中で自由に歩く」


 兵長は数秒の沈黙ののち、ゆっくりと笑った。笑いには、疲れが混ざっていた。疲れは、誠意の一種だ。彼は許可の紙を一枚書き、印を押した。紙は粗く、インクは少しにじんだ。完成した紙の重さが、指に残る。その重さは、鍵の重さに似ていた。


 砦の一角の物置は、壊れた木箱と、古い鉄鍋と、使えなくなった矢羽根でいっぱいだった。私は窓の板を半分だけ外し、光の細い帯を床に落とした。机はないので、板を二枚組み合わせて脚をつけた。椅子は、箱を裏返して高さを合わせる。紙は、糧秣庫から古い伝票を束でもらって裏を使う。最初の机に最初の紙。最初の紙に最初の線。線が領土になる。領土は、人の話で埋まる。


 昼前。砦に商品を届けに来た行商人が、疲れた馬の尻に鞭を軽く入れるのが見えた。私は彼に近づき、馬の足元を見せてもらい、蹄鉄の釘が一本ゆるんでいるのを指摘した。彼は驚いて、ありがとう、と言い、乾いたリンゴを一つくれた。私はそれを四つに割り、馬屋の若い兵士と、井戸で会った女房と、私で分けた。四等分は、公平の顔をしている。公平は、信頼より先に人を安心させる。安心は、忠誠より長持ちする。


 午後、リュシアンが物置――いや、私の部屋の扉に来た。彼は壁に立てかけた粗末な机を見て、短く笑った。


「本当に机から始めたな」


「ここからしか始められない」と私はペン先を指で確かめながら答えた。「王都に戻ることが目的じゃない。戻るとしても、同じ扉から出入りする私で戻るだけ。私が作る扉で」


「扉をつくる女か」と彼は呟く。「いい。扉は、閉じる時より開く時のほうが音がいい」


「閉じる音も、必要な場面があるでしょう」と私は笑った。「人を切り離すのも政治の一部よ」


「冷たいことを、あたたかい顔で言う」と彼は言った。「悪役の顔だ」


「悪役は、嫌われる役ではないわ」と私は紙の端に線を引いた。「嫌われる覚悟のある役よ」


 夕暮れが来る。砦の輪郭が紫がかり、風が少し冷たくなる。私は一日の記録を短くまとめた。配ったもの、受け取ったもの、話した人、話していない人。未解決のことには、小さな×印をつける。×は、あとで〇になるための仮の形だ。私はペンを置き、肩を回した。肩の筋肉が、こきりと音を立てる。体は、働いた分だけ自分のものになる。


 その夜、焚き火のそばで、リュシアンと向かい合った。彼は携えていた小さな鞄から、折り畳まれた布地を取り出した。地図だった。王都から辺境にかけての街道、監視塔の位置、補給路、合図の煙が上がる丘。私は息を呑んだ。紙の上では、恐怖がただの線に変わる。


「これを」と彼は言った。「お前の机に置け。だが、見せるのは選べ」


「選ぶ」と私は答えた。選ぶ――その言葉は、胸の奥に水を流した。追放という名の暴力から最初に取り返すべき権利は、選ぶことだ。誰を、何を、いつ、どこで。私は地図の端に指を置き、真新しい世界の端に触れた。


「改めて」と私は言った。「盟約を」


 焚き火が音を立て、火の粉が夜に弧を描いた。私は手を差し出し、彼の手と重ねる。指と指はぴたりとは合わない。合わないことが、かえって安心だった。違う形同士だからこそ、隙間に力が宿る。私ははっきりと、言葉にする。


「共に国を作る。私は悪役令嬢という烙印を逆手に取り、王都に抗う。他者が私に与えた物語を、私が書き直す。あなたは亡命者の知と冷徹で道を示す。嘘が必要なときは嘘を、真実が有効なときは真実を使う。勝つためにではなく、正しく存続するために」


「存続か」と彼はうなずいた。「いい言葉だ。勝利は一瞬だが、存続は手当だ」


「手当は、続けること」と私は笑った。「続けるのが、いちばん難しい」


 私たちの手は、少しだけ長く重なり、それから離れた。夜は深く、風は薄く、砦は小さく、空は広い。最下層から始めるしかない。だが、最下層は最も自由だ。積み重ねる順番を、自分で決められる。


 私は悪役令嬢という言葉を、内側から掴み直す。人が恐れる役割は、使い方しだいで最強の道具になる。松明のように、自分の顔を照らし、相手の顔をも照らす。相手の顔が見えれば、必要な刃の長さも見極められる。刃は長ければいいわけではない。適切に短い刃は、必要なときだけ深く入る。


 夜が終わる前、私は紙の片隅に、大きく一行を書いた。


――本日、国の最初の一頁を開く。


 インクが乾く。乾いた黒は、夜よりもはっきりしている。私はペンを横に置き、目を閉じた。耳の裏側で、昼の祝祭の弦の、最後の間違えがもう聞こえなかった。かわりに聞こえるのは、藁の衣擦れ、遠い梟の声、井戸の滑車の無音、そして焚き火の柔らかな吐息。ささやかなものだけが、確かなものだ。


 明日、王都に向けてひとつだけ手紙を書くつもりだ。宛て先は、父。内容は短くする。嘆きも、恨みも、謝罪も、今は要らない。ただひとつ――「生きている。私は私の手で、私の国を作り始めた」。それだけを伝える。誰がどんな構図を描いても、紙の上の文字は、私の手の震えを伝える。震えは弱さではない。立っている証拠だ。


 夜明け前、空のいちばん低いところが、薄い灰に変わる。砦の旗の残骸が、朝の風にまた鳴った。裂け目の音は、合図の音に似ている。私は肩掛けを正し、机の上の地図に目を落とした。点と線。線と線。交わる場所に、私の扉をひとつずつ建てる。出入りする音が、国の音楽になる。


 私は誓う。婚約破棄の夜に、悪役令嬢は屈しない。屈しないということは、怒りに身を任せないということだ。積み上げる。数える。分ける。書く。聞く。選ぶ。続ける。そうして、やがて――奪い返す。物語の主語を。私の名に、戻す。

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