第5話 過去のトラウマ

「──おぉ! ここがしおちゃんのお部屋かぁ!」

「あまりジロジロ見ないで。べつに変わったものはないわよ」


 部屋に入るなり物珍しそうな様子で中を見回すチトに辟易する。 


 無遠慮なこいつを自室に招き入れるなんて絶対にしたくなかったのだが、私の中の恐怖心がいとも容易くその決意を崩壊させた。自身の無駄に鮮明な想像力が恨めしい。


「本人は毎日過ごしてるからそう思うけど、わたしから見たらインテリア一つとっても変わってるし、なんと言っても秘匿主義のしおちゃんのプライベートを知れてテンションが上がる上がる」

「私は有名人か。異性ならまだしも同じ女子高生なんだからそこまでの違いはないでしょ」

「いーや、わたしはこんなに可愛いナマケモノのぬいぐるみ持ってないもん。ベッドにちゃんと寝かせてあるし、いつも抱いて寝てるのかな?」

「い、いいでしょべつに」

しおちゃんの意外に可愛い一面いただきましたっ」


 指でシャッターポーズを作ってニヤニヤしてくる。


 やっぱり子供の霊と過ごしたほうがマシな気がしてきた。


「そんな睨まないで。わたしの中でしおちゃんの好感度がめっちゃアップしたよ」

「あんたからの評価が上がったところで何の利益もない」

「損得勘定で物事を考えるのはもったいないよ。誰であろうと人から好かれるって良いこと────あっ。これってもしかして朝に話してたやつ!?」


 机の上に置いてあるレトロな筆記帳を指差す。


「そうよ。高価な物じゃないけど、スーパーに売ってる自由帳よりかはマシじゃない?」

「マシどころかめっちゃ嬉しい! わたしの物語に厚みが出るねこれは!」

「見かけ倒しにならないといいけどね」

「そこはしおちゃんの文才に期待だね。ほらほら、忘れないうちに今日の物語を書こう!」


 私の手を引っ張って催促してくる。……チトの言うことを聞くのは癪だけど、面倒事は早く終わらせたほうがいいか。


 机の椅子に座り、引き出しから試し書き用のノートを取り出す。


 シャーペンを手にとって文章を綴る。


『今日は朝早くから公園に行った。そこでかくれんぼや鬼ごっこをしてとても大変だった』

「ちょい待ち!」


 書いている途中でチトが腕を掴んで制止させてくる。


「何よ?」

「何よ、じゃないよ! これじゃ日記じゃん! しかも小学生並みの文章だし!」

「べつに間違ったことは書いてないでしょ」

「間違い以前の問題っ。テキトーに書いて終わらせようとしたって許さないぞ!」

「変に小難しい表現にすると却って伝わりにくくなるからこれが正解よ」

「だからってこれは無味無臭すぎるよ……もっとあの時の五感を思い出して。情景がリアルに思い浮かぶような深みのある文章を所望します!」


 めんどくさ。


 しかし、このチトの不満げな態度から意見を譲る気はなさそう。


 後々ごねられて成仏の件を無かったことにされては今日の苦労が水の泡になる。作家の真似事なんてもう二度としたくなかったが、ここは腹を括るしかない。


「……分かったわよ。ちゃんと小説風に書くからしばらく一人きりにさせて。横でうろちょろされると集中できない」

「ほんとかなぁ。あとでチト編集者が拝読するからね!」

「どうぞご勝手に」

「オッケー。じゃあその辺をぶらぶらならぬふわふわしてくるね!」


 そう言うと、素直に窓を透過して外へと飛び去っていく。


 チトの姿が完全に消えたことを確認してから、私はふたたび机に向き直って考える。


 たしか私視点の三人称で書いてほしいって言っていたか。物語の中に自身の名前を登場させるのは何ともむず痒い。


 今日あった出来事を頭の中で反芻する。その大半がチトに振り回されている自分の姿だ。これを私視点で書くとなれば恨みつらみばかりになって重苦しい話になりそう。


 物語としての出来栄えを重視するなら脚色するほかないのだが、べつに商品化するわけでもなく、これはあくまでチトの自己満だ。それに本人の言葉からしても嘘を交えるのは思うところではないだろう。というか考えるのが億劫だし。


 何も傑作を目指す必要はない。最低限、小説のていを保てていればいい。


 どうせ私には関係のないことなのだから。


 それから、あれこれと文章を考えていき────


「そこで神崎かんざきミコ先輩と知り合い、成瀬なるせしおはチトともにトンネルをあとにした────よしっ、これで終わりぃ~!」


 椅子の背もたれに体を反らしながら、天井に向かってグーッと両腕を伸ばす。


 そのまま部屋の壁にある掛け時計に目を向けると、文章を練り始めてから二時間が経過していた。


 ここまで時間が過ぎていたなんて全く気がつかなかった。それほどに没頭していたのか。億劫に思っていたはずなのに我ながら言動に統一性がない。


「…………」


 書き切ったことによる心地よい疲労感が私の心をかき乱す。


 深い思考に囚われようとしていたとき、


しおちゃん、ただいま~!」

しおさん、お邪魔します」


 窓からぬっとチトとユウが入ってきた。


 ぼーっとした私を見てチトが動きを止める。


「もしかしてまだ作業中だったかな?」

「……いや、ちょうど書き終わったところよ」

「おぉ、さすがしおちゃん! わたしがパソコンに齧りついてるユウちゃんを引き剥がしてる間に終わらせちゃうなんて、やるね!」

「楽しみだったアニメ視聴を妨害されて今ムシャクシャしてます」


 私が頑張っている間に何をしてるんだこいつらは。他にやることはないのか。


「あんたたちの攻防戦はどうでもいい。それよりも、文章はこんな感じでいいの? 早いところ筆記帳に清書したいから確認して」

「あー……それなんだけど、やっぱりいいかな」

「確認しないでいいってこと?」

「うむ。途中経過のものより完成してから一気に読んだほうが面白そうだからね」

「私としてはそっちのほうが楽だけど、あとで文句を言わないでよ」

「もちろん言わないよ。わたしはしおちゃんが素敵な物語を書いてくれるって信じてるからね」

「期待という名のプレッシャーをかけてる自覚ある?」

「本心だって。その机に散乱した消しゴムのくずが根拠だよ」


 ニコッとするチトの表情とともに、何度も書き直したことが見透かされて無性に気恥ずかしくなり、顔を逸らして「……ただの字の練習よ」と自分でも苦し紛れの返ししかできなかった。


 チトが茶化してくる厄介な場面を想像していたが、そうなる前に、いつの間にか人のベッドを私物化して仰向けに寝転がったユウが、


「なるほど。意外にしおさんは努力家なのですね。あんな面白い話をかけるのも納得です」


 不意にそんな聞き捨てならない言葉をついた。


「ちょっと待て。あんな面白い話って何のこと……?」

「? 小説投稿サイトにあるしおさんの作品に決まってるじゃないですか。明るく快活な少女の日常を描いた『千都ちとと朗らかな日々』は人物の内面描写が秀逸で中々に読み応えがありました」

「──っ!? どうしてユウが知って……」

「ボクたち天の使いの情報収集能力を甘くみないでほしいですね。たかが一人の個人情報を得るのなんてちょちょいのちょいです」

「プライバシーの侵害よ! それにそもそも作品は非公開にしてあるのに……」

「ボクは天の使いの中でも随一を誇るほど万能ですので、機械を弄って盗み見ることなんて造作もないです」


 何が万能だ、何が天使だ。ただのハッカーの犯罪者ではないか。


 それにユウが知ってるってことは必然的に……。


 チトのほうに顔を向けると、チトは親指を立てて「偶然にわたしと同じ名前で運命を感じたし、しおちゃんに頼んで正解だったって改めて感じました」と読んだことを肯定するような発言をする。


 私は両手で顔を覆い、心のなかで『あああぁ~~~!』と叫ぶ。


 あの作家気取りの駄作を読まれたなんて最悪だ。しかも人をおちょくることに長けたこいつらに……。こんなことになるなら非公開じゃなくて消しておけばよかった……。


 ユウは起き上がってベッドの際に座る。


「どうしてそこまで恥ずかしがってるのですか?」

「素人丸出しの作品を読まれたからに決まってるでしょ……」

「全然そんなことないよっ。しおちゃんの作品わたしは好きだぜ!」

「卑下するのは心を疲弊させるだけですよ。ボクも続きが気になるので自信持って書いてください」

「……もう書かないって決めたの」


 どれだけ良い評価をもらおうが、私の心にはまっすぐ届かない。


「どうしてしおさんは小説を書くのをやめたのですか?」


 ユウのずけずけとした問いかけに、あの同級生の言葉が脳裏によみがえって胸を刺す。


「……べつに大層な理由はないわよ。ただ、趣味に飽きただけのこと」

「その割には言葉に感情が籠もっているように窺えましたが」

「ユウの捉え方が間違ってるのよ。私は創作活動について深い思い入れなんてない」

「そんな人が消しゴムを擦り減らしてまで良い文章を書こうとするでしょうか」

「文章に拘ってるのは私の本意じゃなくてチトにダメ出しされないためよ。勝手な想像で私の気持ちを履き違えないで」

「では、しおさんはもう二度と創作活動をするつもりがないと?」

「最初からそう言ってるでしょ」

「あなたの作品を待ち望んでいる人がいるとしても?」

「……さっきからあんたは何を望んでるの? また私に小説を書けってこと?」

「有り体に言えばそうですね。しおさんは知らないようですが、しおさんの小説に────」

「──まぁまぁユウちゃん、そこまでで」


 ユウの言葉を遮り、宥めるような口調でチトが割り込んでくる。


しおちゃんにはしおちゃんの気持ちや考えがあるからね。無理を言って今書いてもらってるわたしたちがあれこれ詮索や意見しちゃうのは道義に反してるかな」

「…………確かにそうですね。しおさん、質問攻めにしてしまってすみませんでした」


 そう言って素直に頭を下げてくる。


 急にしおらしい態度をされると反応に困る。外見が子供なのも相まって自分に非があるように思えてしまう。


「べつに私は何とも思ってないから気にしないでいいわよ。自分の中では終わった話だしね」

「ボクとしたことが素直に反省です。しおさんの作品が案外に面白く、このまま終わらせるには惜しいと思いまして。チトさんの自己満に付き合わせるのは才能の無駄遣いだと」

「それはひどくない!? わたしの物語を何だと思って……」


 いつもの滑稽なやり取りが始まる。場の空気を変えようとしているのか。そこを気遣えるんだったら私の気持ちも察して離れていってほしいんだけど。


 淡い期待を抱きつつも、掛け時計を見る。


 もう時刻は深夜に近づきつつある。今日は色々とあって疲れたし、筆記帳への清書は後日でいいか。


「はいはい、つまらない漫才はそこまで。今日はもう寝るわよ」

「えぇ、もっとガールズトークしてお泊り感を感じたい!」

「こっちはあんたみたいに体力が無尽蔵じゃないの。今日散々付き合ってあげたんだからもう休ませて」

「ボクも就寝に一票です」

「ぐぬぬぅ、二対一じゃ分が悪い…………しかたないなぁ。じゃあ、はい」


 なぜか私に向かって両腕を広げてくる。


「何のポーズよ?」

「わたし物体は透過してベッドに横になることができないから、しおちゃんに抱きついて寝ようかなって」

「え、普通に嫌だけど」

「なんでさっ!? わたし汚くも臭くもないよ!」

「それ以前の問題よ。小さな子供でも恋人でもあるまいし、抱き合って寝るなんて変でしょ」

「じゃあ今日一晩だけしおちゃんの恋人にしてください!」

「するわけねぇだろ。べつにベッドに拘らなくても空中で寝ればいいじゃない」

「それだと寝てる間にふわふわとどこかへ行って起きた時に迷子になっちゃうんだよ。だからね、お願い! 抱き枕代わりだと思っていいからさ」

「なら私じゃなくてユウに掴まってなさい」

「ユウちゃん、もういないよ」


 気がつけばユウの姿は部屋から消えていた。……こうなることを予見して私に擦り付けやがったなあの怠慢天使。


しおちゃんがどうしても嫌って言うならわたしは夜更かしするしかないかぁ。うるさくしたらごめんね」

「……あんた、最後は脅せばいいって思ってる節がない……?」

「正直言うとちょっとだけ」


 テヘっと舌を出す。


 私は嘆息する。チトというワガママ幽霊に纏わりつかれた時点で主導権はこちらにないらしい。


「……手を繋ぐだけじゃダメ?」

「だめ。途中で離しちゃうと怖いし、体が固定されないからね」

「……はぁ」


 私は机のライトを消し、ベッドに横になって一人分のスペースを空ける。


 それで降参の意が伝わったようで、チトが満足げな顔で私の隣に来て、そのままぎゅっと体にしがみついてくる。


しおちゃん良い匂いがするね、ぐへへへ」

「少しでも変なことしたら部屋から追い出すから」

「うそうそ、冗談だって。さすがのわたしでも人の寝込みを襲うようなことはしないよ」


 信用ならねぇ。けど、どうしようもねぇ。


 これ以上会話を続けるとどこで調子に乗り始めるか分からないので、「もう寝る」と一方的に会話を打ち切って目を閉じた。


「うん、わたしも寝よ。おやすみ、しおちゃん」

「……おやすみ」


 そのやり取りを最後に、辺りには小さな寝息が聞こえるだけの静けさが漂う。


 霊体だというのに仄かな熱を感じる。こうやって人と寄り添って寝るのは、両親に甘えていた小学生の頃以来か。


 慣れない状態だからだろう。精神はこれほど疲れているのに眠りはまだやってこなさそうだ。


 すると、暇を持て余した脳が勝手に思考しはじめる。


 先程のユウとの会話に触発されたのか、自然と過去の記憶が蘇ってきた。




 私は小説を書くことが好きだった。


 小説を書き始めたのは中学生に進学した頃。趣味の読書が高じて自分でも物語を作ってみたいという有り触れた理由からだ。


 父親のパソコンを借りて毎日少しずつストーリーを綴っていく。パソコンが借りられない時はノートにアイデアを書き溜めて次の展開を妄想する。


 物語を作る作業は想像していたよりも遥かに難しく、それでいてとても面白かった。まるで神様になったように自分の好きが詰まった世界を構築できることがとても。


 そして何より私自身の見方が変わった。


 日常で起こる何気ない出来事に対して、あのキャラだったらこうするだろうなとか、あのキャラだったらこう思うだろうなとか、自分とは違う視点で考えるようになり、それまでつまらなかった物事に楽しみの感情を湧かせることができた。


 私にとって創作活動は、現実さえも彩り豊かにしてくれる素晴らしいもの。


 それから一年ほど孤独に続けていき、やがて自己満足では抑えきれなくなった。


 私の世界に共感してほしいと思ったのだ。


 そんな気持ちとは裏腹に恥ずかしさもあり、家族に読んでもらうのは勇気が出ず、私を知らない誰かはいないかとなった時にちょうど投稿サイトを見つけてアップロードしてみることにした。


 投稿した作品は『千都ちとと朗らかな日々』。私の中で自信作であり、一番好きな物語だ。


 だけど当然それは作者の驕りで、他の人がそう思うとは限らない。


 酷評されたらどうしようという不安を抱きつつも、日を追うごとに(ポツリポツリと少ないものだったが)閲覧数が増えていき。


『面白かったです。続きも期待しています』


 そんな感想コメントが送られてきた。


 どこの部分が気に入ったのか書かれていない具体性のないものだったが、私はそれを見た瞬間舞い上がってしまうほどに嬉しさを感じた。


 私の世界が肯定された。私の世界は間違っていなかったんだと。


 その日からより一層創作意欲が駆り立てられた。


 家でも、学校でも、常に頭の中で面白いストーリーを模索することに夢中になった。


 その甲斐あって、話数を更新していくたびに着実に閲覧数は伸び、感想も増えていった。中には好意的でないものも混じっていてへこたれはすれど、私の筆が止まることはなかった。


 小説を書くことは私の人生の優先事項になっていたのだ。


 その生活を続けること二年の月日が流れ、私は高校生になった。


 そして、創作活動は思うようにはいかなくなっていた。


 エピソードを更新しても閲覧数は少数に留まり、それに伴って感想は減っていく。


 当たり前といえば当たり前だ。投稿サイトには日々新しい物語が生まれる。読む側からみれば私の物語なんてその一つに過ぎないのだから。


 べつの話を書いて新規の読者の気を引こうとも思ったが、今でも私の物語を読んでくれている人たちを裏切る行為に感じてなかなか踏ん切りがつかなかった。


 私の世界から人が離れていく恐怖を感じたまま、ただひたすらに物語の続きを書くしかなかった。


 あの時の私はアイデアを渇望していた。他の誰にも真似できない素晴らしいストーリーを。


 だから登校する時も、授業の時も、休み時間の時も、人と話している時も、食事の時も、お風呂に入っている時も、寝る時間も削って朝から夜まで一日中のありとあらゆる時間を費やして探った。


 けれど、見つからなかった。思い浮かぶのは既存のあるものばかり。


 そしてそれだけならまだしも、現状維持すら難しくなった。


 閲覧数が減り続けているのは私の書き方に欠陥があるせいだ。そう思い始めたら、新たなエピソードを公開するのを躊躇するようになり、一話にかける時間が多くなった。週一でやってきたものが月一になり、酷い時は二ヶ月経っても更新できず、おろか文章の量は前よりも目に見えて少なくなっていた。


 それは自身の才能の無さを裏付けているようで、いつも焦燥感に苛まれていた。


 でも私は書くことを止めなかった。


 いつか報われる時がくる。この悩んだ時間は決して無駄じゃなんかないと信じて。


 そんなある日、学校の休み時間中にクラスメイトが声をかけてきた。どうやら一人でスマホを弄っている私に興味を持ったらしい。


 その時の私は羞恥心を抱くほど心に余裕がなかったから、小説を書いていると正直に答えた。


 

『書いてて楽しいの?』



 そして、クラスメイトはそう訊いてきた。


 その瞬間、私の視界がスマホの小さな画面から現実に引き戻された。


 瞳に映るのは教室の風景。和気藹々とお喋りするみんなの様子。


 ──私だけが異質だった。


 勉学や交友に励むみんなを見ると、独りで面白いかも分からない話を書く自分だけが輪の外にいる感じがした。


 質問してきたその子に悪気がなかったのは分かっている。表情や声音は雑談をするように軽いものだったから。ただ単純に知りたかっただけだろう。


 だけど、私にはこれまで自分が送ってきた日々を否定されたように聞こえてしまった。


 そして思ってしまったのだ。


 私が心を疲弊させてまで一生懸命やっていることは、はたして正しいことなのだろうかって。


 売れっ子のプロ作家でもないのに、高校受験で志望校を一つ下げるほどに勉学の時間を費やして。誰からか将来を期待されたわけでもないのに、入学して三ヶ月経った今でも友達がいないほど交友の時間を費やして。


 私の今やっていることは、この先の私の人生において無価値なんじゃないか。


 心を惑わせる葛藤は一日中続き────


 その日を境に、私は小説を書くことを止めた。


 今までの私は間違っていた。空想をより良くする暇があるのなら、現実のことをより良くしたほうがよっぽど有意義だ。


 今日からはもっと価値のあることをしよう。学生らしく勉学や交友に励もう。


 みんなと同じように生きていけば正しい道から外れない。


 それから私は他人の真似をするようになった。


 他人が好むものを好み、意見に同調して、自身の意思を持つことを止めた。


 すると独りでいることはめっきり減り、いつしか心に募る焦燥感も消えていった。


 間違っていない。私は今度こそ正しい道を歩んでいる。


 なのに、なぜか心は前よりも空虚で。


 何をしても満たされない息苦しい中、棺桶の中で安らかな顔で眠る彼女を見て。


 だから私は────





 私は堪らず目を開けた。


 真っ暗な自室の様相が情報として脳に送られ、病んだ思考を止めてくれる。


 まるで金縛りにあったように体が重く、まるで悪夢にうなされていたように気持ちが沈む。


 静かに、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせた。


 まったく、私の悪い癖だ。今さら過去のことを掘り返して一体何になるというのか。もう今の私にはどうすることもできないというのに。


「……に……く……ない……」


 自省していたら、不意に隣から消え入りそうなほど小さな声が聞こえてきた。


 チトは痛みに耐えるかのように渋面で、頬には一筋の涙のあとが残っている。


 怖い夢でも見ている最中なの────


「…………死にたくないよ……」


 それはか細く、怯えるような声だった。


「…………」


 その生への執着が私の心を揺さぶる。


 私のしていることを非難しているように聞こえて。


「…………っ……」


 また暗くて惨めな感情が舞い戻ってくる。今度は視覚の情報だけでは止まってくれない。


 心臓の鼓動が速まり、呼吸が荒くなってきて、私はチトに抱きついた。


 恥を忍ぶ余裕もなく、この仄かな体温に助けを求めることしか思いつかなくて。


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