第5話 監察の刃

 静寂。

 それは安堵の静けさではなく、見張られている静けさだった。


 封印区画での暴走鎮圧から三日。

 廊下に並ぶステンドの影はいつも通りなのに、足音の速さだけが微妙に違う。会釈は薄く、囁きは濃い。教室では席がひとつ空いて、誰もそれを埋めない。食堂ではトレーがふたつ分だけ広い間隔で置かれる。


「昨日まで“英雄”って呼ばれてたのに、今日は“禁忌”か……」


 中庭のベンチでパンをちぎりながら、僕――天城ユウトは小さく呟いた。噛むたびに粉が舌の上で音を立てるみたいに乾いている。


 隣でリリス・ノワールがスープを啜り、紅い瞳で僕の手の甲――**対等紋(パリティ・シグル)**へ視線を落とした。昼光に呼吸するように、紋が微かに脈動する。


「人は、炎を遠くから見ると綺麗と思うものです。でも、触れると怖い」


「……僕らが“炎”ってこと?」


「旗、です。ユウトの目に風が集まる。旗が立てば、近づくほど熱くなる」


 カイル・ハンフリーがトレーを抱えて駆けてきた。「おはよう。なあユウト、聞いたか? 王都から――」


 鐘が三度、塔から降ってきた。空気が一拍だけ止まる。

 掲示板に魔術印が灯り、銀の字が走る。


「王都監察局より通達。第二課監察官“セドリック・ハーゲン”来訪」


 食堂の空気が一斉にざわめきの向きを変える。

 通路の向こうでクレア・フォンティーヌが立ち上がった。金糸のリボンが凛と鳴り、青い瞳が細くなる。


「来たわね。完全に――査問よ」


 近くの柱に背を預けて様子を見ていたレオン・アルバートが眉をひそめた。「早すぎる。セレスティア学院長の公式報告より先行してる。……急かされたな、誰かに」


 急かした“誰か”を思う前に、二度目の鐘が鳴った。学院長室への招集だ。



 学院長室の扉が開いた瞬間、室内の温度が半度下がった気がした。

 黒い外套、銀糸の肩章。背筋まで軍人のように真っすぐな男が、規則正しい歩幅で進む。灰色の瞳は曇りがなく、刃の平のような冷たさを宿していた。


「王都監察局第二課――セドリック・ハーゲンである」


 名乗った声は、鞘に吸い込まれる剣の音に似ていた。

 正面の椅子からセレスティア学院長が立ち、薄い微笑のまま会釈する。


「ようこそ、ハーゲン卿。学院は静穏です」


「静穏、か」灰色の瞳が卓上の文書を横目に撫で、すぐに僕とリリスに止まる。「三日間で王都に届いた報告書は、暴走、禁忌召喚、魔王の娘の出現。どこが静穏だ」


 レオンが半歩前へ出た。笑顔はいつも通りだが、目だけが仕事をしている。「彼らは暴走を止めた側です。被害者であって――」


「結果として封印は破損し、学院結界は半壊。危険因子はなお学院に留まる」


 “危険因子”。言葉の端の温度が、室内の視線を一段硬くする。

 リリスの横顔がわずかに緊張して、けれど声は静かだった。


「居座るというのは、契約者の命令を無視する者への言葉です。私はユウトの命に従っています」


 セドリックの口元がわずかに歪む。「口が達者だな、魔族の娘。――君が学院にいる理由は、召喚主の不手際による契約事故かもしれない」


「事故じゃありません」僕は一歩、前に出た。「呼んだのは僕です。彼女が応えた。それだけのことです」


 室内の空気が一瞬だけ静まる。

 学院長の笑みが深くも浅くもならないまま、言葉が置かれた。


「学院としては、天城ユウトの召喚を正式儀式として記録しています。王都式の検分が必要というなら――」


「当然だ」セドリックの灰色の瞳に淡い光が宿る。「**聖印検査(アウスピキア)**を行う」


 刃は抜かれ、鞘は床に落ちて、音もなく止まった。



 夕刻。学院中央広場。

 円形の石畳の上に、王都式の聖印陣が組まれていく。塩で描かれる外輪、聖油を染み込ませた布紐、銅線、祈祷の刻印。周囲には聖堂騎士の白外套が風に鳴り、監察局の書記官たちが冷たい目で符を確認していた。


 観覧席は満員だ。

 クレア・フォンティーヌが前列で杖を握り、レオン・アルバートは通路側に立って視線を巡らせる。

 学院長席にはセレスティア。膝上の手は重ねられ、指先は動かない。目だけが働いている。


 セドリックの声が広場の中心に落ちる。


「天城ユウト、およびリリス・ノワール。契約の紋を展開せよ。王都正統術式に照らして検分する」


 喉が乾く。

 僕は右手を上げ、対等紋に息を入れた。青白い光が皮膚の下から立ち上がり、空気の筋を縫ってリリスの胸元の紅紋と繋がる。二つの鼓動が、やや早いテンポで重ねて鳴る。


 ざわめきが波紋になって広がる。

 遠くの誰かが「あれが対等――」と言いかけて、息を飲んだ。


 セドリックの眉がわずかに寄る。「対等……理論の上の話だと思っていたが」


 リリスの指先が僕の袖を一度だけつまむ。言葉の代わりの了解。

 僕は頷き、視界を広げる――グリッチサイト。


 光輪の外輪、二層目、継ぎ目。

 祈祷の刻印が、紙を重ねた時の微妙な段差を残している。

 それだけなら誤差だ。けれど、そこへ別の符号が――薄く、透明の膜みたいに――上書きされている。


(待て。これは王都式じゃない……)


 鼻の奥に金属の匂い。皮膚の表面を針で撫でられるような冷気。

 陣が鳴った。

 金属ではなく、世界の膜が軋む音で。


「リリス、下が――」


 爆ぜた。

 光の輪が逆相を起こし、聖油が白炎に変わって跳ねる。祈祷の布紐が燃焼し、銅線が赤く走る。悲鳴。氷の障壁がクレアの合図で立ち上がり、飛沫の熱を包む。レオンが剣で燃えた紐をはね、外輪を切り離す。


「外部干渉!」クレアの声が(怖れていない)とわかる音で響く。「層の書き換え――王都式じゃない! 混成!」


 僕は地面へ片膝をつき、継ぎ目を見た。

 透明の膜の文字列が読める。王都とも、学院とも違う、異界の記号。そして、その縁に――教会式の短い符丁が留め具のように打たれている。


(教会の符丁で、異界の記号を留めてる? 誰が――)


「ユウト」リリスの声。「命令を」


「光を一度沈めて、外輪を縫い直す。――被害ゼロで」


「承知」


 黒い影翼が広がる。

 影縫い・第弐式。

 影は“夜”ではない。縫い針だ。揺れる光のほつれへ返し縫いを落として遊びを作る。熱がいなされ、炎がほどける。僕は折り返し点を二箇所指示して、最短の逃がしを描いた。


 光が沈み、音が遅れて消えた。

 煙の匂い。床石の温度。

 立っている。僕と、リリスは。


 周囲のざわめきが戻るより前に、セドリックが歩いてきた。ブーツの踵が石をひとつずつ踏み鳴らす。


「……止めたのか。王都式の暴走を」


「壊したのは王都式じゃない」僕は顔を上げる。「学院の中から、異界の記号で層を混成させた。縁を教会の符丁で留めて」


 セドリックの瞳が微かに動く。「学院に裏切り者がいると?」


「断定はできない。痕跡は消されやすい。でも、式は“手癖”が出る。――いまの留め具は、祈祷師の癖だ」


 周囲でざわめきが震えに変わる。

 クレアが視線だけで「見たわ」と合図を送り、セレスティアは椅子から立って広場の中心へ降りた。

 長衣が石を撫でる。


「ハーゲン卿。学院を監査する立場として、慎重をお願いしたいわ。王都の術に異界が混ざる。それは、王都の名誉にも関わること」


「侮辱かね、学院長殿」


「事実確認です」セレスティアの紫水晶の瞳が微笑のまま細くなる。「学院は中立。種族にも、教義にも。中立を脅かす者は、王都であれ――例外ではない」


 広場の熱が一度、静まった。

 セドリックは短く息を吸い、背を向ける。「……話は後日、王都にて」


 外套の裾が翻り、騎士たちが動く。

 黒い馬車が門へ向かって進み、白獅子の旗が遠ざかるにつれて、観覧席の学生たちは一斉に息を吐いた。


 残ったのは、焦げた聖油の匂いと、粉になった塩の白さ。そして、黒い羽が一枚、地面に落ちていた。



 広場の修復作業が終わる頃には、空の色が群青と墨の間くらいになっていた。

 僕はリリスと横に並んで中庭を歩いた。芝の露が夜の匂いを濃くする。遠くでカイルが「大丈夫だったか」と手を振り、僕は短く返す。


「怒ってる?」リリスが尋ねる。声はひどく柔らかい。


「……悔しい。僕らが守ったのに、疑われる。あの人たちにとっては、僕らの無傷より“形式”のほうが大事なんだ」


「形式は、国の皮膚だから」リリスは空を見上げる。「皮膚は、ちいさな傷でも痛い。……だから、ユウトが縫う」


「見える限りは、ね。見なければ楽なんだろうけど、見ないで失うほうが怖い」


「それが、あなたの強さ」


 言葉が落ちて、ふたり分の影がベンチの上で重なる。

 風が少しだけざわめいた。屋根の上から黒い羽がひとつ、滑空するみたいに落ちてきて、僕の足元に触れた。


 拾い上げる。羽の根元に、細い焼き印――王都監察局の第二課印が半分だけ刻まれている。


「……セドリックの部下、残ってる」


「監察使い。影として置いていったのでしょう。監視と、内偵」


「だったら、隠れたままじゃいられない」


 リリスが小さく笑った。「では、こちらも影で迎えましょう。私の影と、あなたの目で」



 夜更け。風は天井の梁を撫で、月は薄い雲の向こうで眠そうに光っている。

 僕は机に肘を置き、今日の式の書き置きをまとめた。層構造、継ぎ目、留め具の符丁――異界の記号と教会式の接合部。紙に起こすほど、手癖の匂いが鮮明になる。


 扉が静かに叩かれた。

 レオン・アルバートが顔を覗かせる。外套の裾には夜露がついていた。


「少し、いいか。ユウト、リリス」


「どうぞ」


 レオンは部屋に入ると、机の上の書き置きを一瞥してから、小声で言った。「今夜、門番の報告で“白外套”を見た。王都の騎士の制服だが、縫い目が違う。工房北区の仕立て」


 リリスが瞬きを一度。「昨夜、黒羽の傭兵が使っていた油も、北区の工房筋」


「繋がるな」レオンはうなずく。「……ただ、ここで殴り返すのは得策じゃない。セレスティア様は学院の“皮膚”を守りたい。派手に動けば、王都に皮膚を裂かれる」


「わかってる」僕は羽の焼き印を見つめた。「でも、証拠がいる」


「証拠は僕の仕事だ」レオンが微笑む。「君の仕事は、明日も無傷で学院を守ること。――君のやり方で」


 立ち上がる前、レオンは扉の方へ歩きかけて、振り返った。「ユウト」


「なに」


「君の目は、味方にも恐れられる。だからこそ、言葉を置け。見えたものを、黙って抱え込むな」


 扉が静かに閉じた。

 リリスが窓辺に歩み、薄いカーテンを半分だけ開ける。夜の色が頬を撫で、紅い瞳が星をひとつ拾った。


「ユウト。あなたは今日、『差し出す』の反対を選びました」


「繋ぎ止める、だろ」


「はい。好き」


 胸の奥が、少し痛いみたいに熱くなる。笑うしかなくて、でも笑いが体温を戻してくれる。


「黒猫の約束、覚えてる?」僕は言う。


「忘れません。学院長が許したら、最短経路で」


「それ、僕の台詞」


「影は光の台詞を、ときどき反転します」


 窓の外に、屋根の縁の止まり木の気配。

 そこに、ひとつ、またひとつ、薄い影が増える。

 僕はゆっくり立ち上がり、灯りを落とした。闇に目を慣らし、ほつれを探す。


「ユウト」

「うん」

「風が、変わりました。王都の影が、まだ学院にいます」


「なら、見よう。見て、縫って、進もう」



 翌朝。

 セレスティア学院長の机上に、一枚の報告書が置かれていた。

 黒いインクが乾きかけ、墨の匂いが淡く漂う。窓の外には、一番星の名残りが白んで消えかけている。


『本学院は、召喚士天城ユウトおよび契約体リリス・ノワールの行動を正統と認める。

 ただし、学院周辺に未確認の干渉符号を検出。

 ――外部、もしくは内部の裏契約者によるものと推測する。』


 封蝋を押す音が、静かに響いた。

 セレスティアは朱筆を置き、窓辺に立つ。

 塔の上、風見の矢が一瞬だけ方向を変え、遠い街の方角を示した。


「嵐の中心は、まだ少年の掌にある」


 小さな独白が、部屋の本の背の間でほどけて消えた。

 外では朝の鐘が鳴り、澄んだ空に、その下の街の色がゆっくり立ち上がっていく。


 ――世界のほうが、先に鳴く。


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