第20話 虚構の証言 2

翌朝。

港の方角から低い霧笛が響いた。

夜の冷気はまだ街の隅々に残り、石畳は湿っている。

市庁舎の前には、前夜の抗議の痕跡――破れた横断幕、濡れた新聞、押し倒された柵が散乱していた。

職員たちは無言でそれらを片づけながら、互いの顔を見ようとしなかった。


 庁舎の奥、監査室の扉には仮封印が貼られている。

 墨で書かれた「立入禁止」の文字が、わずかに滲んでいた。

 

石田はその封印の前に立ち、帽子を外す。

 「誰かが、原本を持ち出したまま戻していない」

 その声に、同席していた庶務係の女が肩を震わせた。

 「棚の鍵は壊されていません。管理簿の署名も……全部、整ってます」


 「つまり、正しい手順で盗まれた、ということだな」

 石田の義手がわずかに鳴った。鉄の指が封印紙をなぞる。

 そこには、かすかに押し直された印影が重なっていた。薄い朱肉の色が、灰の中でくすんで見えた。


 廊下の向こうで、杉原が早足でやってきた。

 その顔には、徹夜の痕がくっきりと刻まれている。

 「記録は、もう外に流れたのか?」

 石田は首を横に振った。

 

「新聞社が持っているのは、複写の方だけです。原本は……消えました」

 「複写はどこから出た?」

 「印刷所の版下を調べました。使われた紙は軍の官給品。番号から見て、港湾地区の通信所の備品です」

 「港湾通信所……ウェイドの管轄下だ」

 その名を口にした瞬間、空気がわずかに冷たくなった。

 杉原は窓の外を見やる。朝の光はまだ弱く、街全体が灰色の膜に包まれていた。


 「君の見立てでは、内部犯か?」

 「そうです。しかも、軍との協力がなければ成り立たない。印刷時間を逆算すると、昨夜の二十一時から二十三時の間。市庁舎は施錠済みのはずです」

 「つまり……誰かが、夜の庁舎を合法的に開けた」

 「ええ」


 石田は帽子を深く被り直した。

「鍵を持っているのは三人だけ。監査長、庶務課長、それに――」

 「私の秘書官だ」

 杉原の声は低く、抑え込まれたようだった。

 工藤の名が、誰の口からも出なかった。


 ◇


 その頃、工藤は市庁舎の北棟にある記録保管庫の前にいた。

 倉庫の扉は開いており、中では庶務係が棚卸しをしている。

 工藤は懐から小さなメモを取り出し、そこに並ぶ日付を確認した。

 

すべての帳簿が、同じ夜に手入れされている。

 「……こんな時間に、誰が記録を?」

 彼の問いに、庶務係の一人が顔を上げた。

 「監査長です。昨日の夜八時頃にいらして……点検だと」

 「監査長が? その時間、市の合同会議に出ていたはずだ」

 

女の顔が曇る。「でも確かに、あの方でした。帽子も外套も……」

 工藤は足元の床を見た。微かな汚れ、靴跡が交錯している。

 その中に、一つだけ靴底の模様が異なる跡があった。

 占領軍の軍靴――鋲の数が違う。


 ◇


 昼過ぎ、杉原は市長室に戻った。

 机の上には報道局からの質問状が山のように積まれている。

 「供述改竄は市長の指示か」「監査長が逃亡したとの噂は本当か」「占領軍が調査を主導するとの情報あり」。

 一枚一枚に、真実と虚構が入り交じっていた。

 杉原は答えを書きかけては破り、書きかけては破った。

 そのたびに机の上に紙くずが増えていく。


 扉がノックされた。

 「入れ」

 現れたのはウェイドだった。帽子を片手に持ち、もう一方の手には一枚の書類。

 「君の国では、夜の記録は夜のうちに消えるらしい」

 皮肉のような口調だったが、その瞳は冷えていた。

 

「港湾通信所で押収した複写原稿の一部だ。印刷に使われた版下は市庁舎の書体と一致した」

 杉原は書類を受け取り、黙って目を通した。

 英語の注釈が並び、端に赤い鉛筆で書かれた“Confirmed by C.O.”の文字がある。

 「軍が確認したと?」

 「いや、確認したのは誰かだ。だが、この署名は……」

 

ウェイドは言葉を切り、杉原の目を見た。

 「工藤の筆跡に似ている」

 「彼がそんなことをするはずがない」

 「信じるのは自由だ。だが、記録は君の信頼を待ってはくれない」


 ウェイドは机の端に腰をかけ、灰皿の煙草を一本取った。

 「真実というのはね、市長。誰が書いたかよりも、誰がそれを信じたかで形を持つ。戦争はそれを教えてくれた」


 煙の匂いが部屋を満たす。

 杉原は黙ったまま窓の外を見た。

 市庁舎の前では、まだ人が集まり始めている。

 昨日より人数は増え、手に持つ紙も増えている。

 [真実を出せ][沈黙は共犯だ]――手書きの文字が風に揺れた。


 「この街は、あなたの沈黙を許さないでしょう」

 ウェイドの声が低く響いた。

 「それでも沈黙を選ぶか?」

 

杉原は答えなかった。

 代わりに、机の上の原稿を一枚手に取り、真っ二つに裂いた。

 「言葉を出すなら、私の言葉でだ」

 「なら、すぐに決めろ」

 ウェイドは立ち上がった。


 「明日、占領軍は臨時発表を行う。もし君が何も言わなければ、我々が代わりに真実を語る」

 そのまま部屋を出ようとした彼の背に、杉原が静かに言葉を投げた。


 「君たちは、いつも正義の代弁を好むな」

 「正義じゃない。支配の手段だ」

 ウェイドは振り返らずに答え、扉の向こうへ消えた。


 ◇


 夕刻、庁舎の屋上で石田が煙草を吸っていた。

 港の方角は薄い夕焼けに染まり、工場群の煙突から白い蒸気が立ち上っている。

 工藤が後ろから来た。

 「探しましたよ。市長がお呼びです」

 「工藤さん」石田は振り返らずに言った。


「あなた、昨夜はどこに?」

 工藤の足が止まった。

 「報道局にいました。質問状の整理を」

 「誰かと一緒に?」

 「……監査長と、少し」

 石田は煙を吐き出し、灰を指で弾いた。

 

「監査長は今朝から姿を消している」

 工藤の表情が強張る。

 沈黙。風が灰を運んでいく。

 遠くで汽笛が鳴った。

 「真実は消えやしない。だが、誰の手に残るかは分からない」

 石田の言葉に、工藤は答えなかった。

 その横顔は、どこかで決意を固めているようにも見えた。


 ◇

 夜。

 市庁舎の前に再び人が集まり始めた。

 昼の新聞が新たな火をつけたのだ。


 『供述改竄 市政中枢に闇 監査長逃亡』

 紙面の見出しが街灯の光に照らされ、波のように揺れる。

 スピーカーを持った誰かが叫ぶ。


 「市長を出せ! 嘘を吐くな!」

 石畳を踏み鳴らす音。旗のはためき。

 工藤は庁舎の二階からそれを見下ろしていた。

 目の前の窓ガラスに、群衆と自分の顔が重なる。

 その視線の奥で、なにかが揺らいでいた。


 ――真実とは、声の大きい者の側に立つのか。

 あるいは、沈黙した者が最後に掴むものなのか。


 庁舎の時計が二十時を指す。

 鐘の音が、灰の街に静かに広がっていった。

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