第14話 灰の中の印 3
港の黒煙は次第に薄れたが、街の空気はまだ焦げていた。
通りには炭の匂いが残り、住民たちは瓦礫の隙間を無言で掘り返している。
市庁舎の前では、報道機関の車両が列をなし、兵の姿も増えていた。
統治の名の下に貼られた布告が、風に揺れては破れていく。
[市の調査が完了するまで、港区の立ち入りを禁ず]
その文字は秩序を約束しているようで、同時に不信を煽る印でもあった。
杉原は庁舎の二階から、その光景を見下ろしていた。
広場に並ぶ民衆の顔は怒りと疲弊で曇っている。
彼らの中には、かつて自分が演説をしたとき拍手を送ってくれた者たちもいた。
だが、今はその拍手の記憶すら遠い。
「市長、避難所で暴動の兆しが出ています。配給の列で口論が――」
報告したのは若い秘書官の工藤だった。
額に煤がつき、声がかすれている。
杉原は短く息を吐く。
「警備を出せ。ただし武装はさせるな。盾と腕章だけだ。刺激すれば火に油だ」
「しかし、市長、人員が――」
「足りないのはわかっている。だが、恐怖での統制は一度使えば二度と戻れん」
その言葉を吐いた瞬間、杉原の胸の奥に鋭い痛みが走った。
戻れん――それはウェイドの指摘した選ばないという行為の延長線上だった。
守るために抑え込み、正義を先送りする。
その繰り返しが、いつしか街の呼吸を奪っていったのかもしれない。
そこへ、灰色の封筒が届いた。
封蝋には軍の紋章。差出人は記されていない。
中には一枚の写真。
――焼け跡の壁に、何かの印が刻まれている。
円の中に三つの線が交差し、中心には「R」の刻印。
そして、裏面には短い筆跡でこう書かれていた。
[港の灰は、まだ沈んでいない。]
杉原は唇を結ぶ。
その印は、数年前、軍需統制下の密輸ルートで使われていた識別記号だった。
本来、戦時中に廃棄されたはずのもの。
もし、あの倉庫の火薬がこの印と関係しているなら――港の爆発は単なる事故ではない。
「…高梨か」
小さく呟いたその名が、部屋の空気を震わせた。
責任を問われ、姿を消した男。
杉原の脳裏に、彼の苦い笑いが蘇る。
「市長、いつまで口を閉ざしていられますかね。沈黙もまた、政治ですよ」
皮肉のようで、諦めにも似た声だった。
そのことを思い出しつつも、すぐ現実に戻る。
「工藤秘書、すぐに港検査局に連絡を。焼け跡の金属片、全部再鑑定させろ。署名が偽装なら、製造元も洗い直す」
杉原は、秘書である工藤に要求する。
「軍の協力が必要になります」
「要請はする。だが、主導権は市だ。もう一度言う。市の手で調べる」
その瞬間、廊下の奥で靴音が響いた。
規律的で、乾いた音。
振り向けば、ウェイド少佐が立っていた。
今度は外套を脱いでいる。
肩口の埃が、そのまま街の灰を背負っているようだった。
「君の主導権という言葉、聞こえたよ」
ウェイドはわずかに笑った。
「君が理想を掲げるたび、現実が少しずつ壊れていく。皮肉な構図だ。だが――私は嫌いじゃない」
「目的はなんだ」
杉原は静かに問う。
「観察か、それとも、もう介入の段階か」
ウェイドは窓辺に立ち、外を眺めた。
「港の灰の下には、弾薬がまだ眠っている。君の部下の誰かが、それを知っているかもしれない。
――いや、もしかすると、君自身が気づいているんじゃないか?」
沈黙。
長い沈黙のあと、杉原は低く言った。
「気づいていなかったとは言わない。だが、気づいた瞬間、すべてが崩れる。秩序とはそういうものだ」
ウェイドは短く息を笑いで漏らした。
「崩れることを恐れるのは悪くない。だが、それが選ばない理由にはならない。
人は沈黙を正義に変えようとするが、それはただの遅延装置だ。爆発の時を遅らせるだけだよ」
彼の瞳には、かつて戦地で同じ光景を見た者の疲労が宿っていた。
それを見た杉原は、ほんの僅かに思う。
――この男もまた、沈黙の罪を知っているのではないか。
「ウェイド少佐、君はなぜそんなに冷静でいられる」
「冷静じゃないさ。君のように、理想を信じる力を失っただけだ」
その言葉が静かに落ちる。
室内の時計の針が音を立てる。
秒針の動きが、まるでこの街の呼吸のように聞こえた。
ウェイドは帽子を手に取り、扉へ向かう。
「君の市が沈黙を破るなら、それは私にとっても興味深い実験になる。
ただし、次の爆発は、もう君の言葉では止まらないだろう」
扉が閉じたあと、杉原は机の上の写真を見つめた。
灰の下の印。
燃え残った港。
そして、沈黙の果てに立つ人々。
――沈黙を破ることは、破壊と同義かもしれない。
だが、破壊の先にしか再生はないのかもしれない。
杉原はペンを取り、机上の書類の一番上に署名をした。
それは、外部監査と軍の合同調査を市の要請として正式に出す文書。
全てを晒す覚悟の証だった。
夜が落ちる。
窓の外で、黒煙の向こうに一筋の光が差した。
それは朝日ではなく、まだ炎の残滓。
けれども、その揺らぎが、彼にだけは希望の形に見えた。
「――沈黙は、もう終わりだ。」
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