第4話 灰の裂け目

 昼下がり。

 灰島市は、鈍い光の中で一層冷たく沈んでいた。

 広場に並ぶ配給の列に並ぶ人々は誰ともなく押し黙り、列の先にある僅かな量の煮物をじっと見据えている。その列の一番前にいる痩せこけた母親は子と一緒にまだかまだか待っている。


 配給は係員の手によって一人ずつ皿へ分けられていた。

 しかし、その配給量は極めて限られており、生活を維持するための最低限度に過ぎなかった。

 毎日の遅配や減配、さらには裏では闇市場や係員の密かな不正も囁かれ、配給所には疑心暗鬼が絶えず渦巻いていた。

 そうした空気の中で、母親が自分のわずかな分け前を子どもの皿に分け与えるその仕草は、周囲の視線を強く引いた。


 傍らにいた青年は眉をひそめ、小声で言った。

「おいっ! また順番守ってないぞ」


 実際、その配給に不正はなかった。

 だが、配給所の遠くにいた者たちは、子どもの皿にある配給の量を見て、「どこかに不正があるのでは」と強い疑念を抱いたのだ。


 配給の少なさから来る生活への焦燥が、人々の心に根強い猜疑心を植えつけていた。

 ほんの僅かな差がズルという言葉に変わり、配給所の些細な行動が争いの引き金になり得たのである。


 母親は困惑しながらも、子どもの必死な目を見て心が痛んだが手を引っ込めた。

 だが、その様子に不満を募らせた者が声を荒げる。

「ルールを守れよ! 皆必死なんだ!」


 その言葉を基点に、小さな取っ組み合いへと発展し、列全体の雰囲気は一気に緊迫した。


 その時、復員兵が静かに割って入り、両者の肩を押さえながら言った。

「争っても、食い物は増えねぇ。今は耐え忍ぶしかない」


 その言葉に群衆は渋々散ったが、残った沈黙は荒んだ心を覆い隠すには足りなかった。


 少年は列の端で呟いた。

「…やっぱり、市長は何もしてくれない」

 隣の商人が苦い顔で答えた。

「焦るな。静かな時ほど、恐ろしいことが始まるんだ」


 ◇

 黄昏。市庁舎。

 書記が震える声で報告を読み上げていた。

「…第三区の配給列で、軽い衝突が発生。死者はなし。ただ、不満は増しています」


 杉原は額に手を当て、短く息を吐いた。

「大きな炎にせぬように、初期の火種で摘み取れ」

「摘み取る?」

 議員の一人が机を叩き、苛立ちを露わにする。


「悠長なことを! 今こそ占領軍の力を借り、鎮圧すべきだ!」

「市民を異国の兵に撃たせる気か!」と別の議員が怒鳴る。

 会議は瞬く間に罵声の坩堝となった。

 その光景は、杉原の脳裏に過去の断片を呼び覚ます。


 ーー戦時中、彼はかつて似た場に座っていた。爆撃が迫る街を避難させるか否かで、軍上層部と議論した夜。 「動けば士気が下がる」と押し切られ、彼は沈黙を選んだ。その結果、翌朝の炎の中で救えたはずの命が失われた。

「……私はまた、同じ選択をしているのか」

 胸中で呟くが、声には出せない。沈黙こそが彼を「無能」と呼ばせる所以だと知りつつも、答えを出せば必ず誰かを裏切る。


 ◇


 夕暮れ。

 空には黒い筋雲が垂れ、遠く丘の先で火の光が点滅している。

「倉庫に火がついたぞ!」

 叫び声が通りを巡り、群衆は火種に引き寄せられて現場へと向かった。


 港湾倉庫群の一角。骨組みだけ残した建物の奥で、黒煙が空に吸い込まれる。炎はまだ小さいが、乾ききった資材に噛みついて離れない。

 人々は絶叫し、駆け寄るが、熱と煙に押し返され、思うように消火できない。


 復員兵が火元へ走り、右腕の欠損をものともせず毛布を引き寄せる。

「一人ずつ水を!」

 片腕で炎と格闘し、周囲に的確に指示を飛ばす。その存在が群衆の中で一種の秩序を生み出していた。


 だが、群衆の動揺は次第に別の対象へ向かう。

 誰かが囁いた。

「…放火だ。誰かがわざとやったんだ」

「占領軍の手先だ!奴らが街を混乱させている!」

「いや、役人の仕業だ。食糧をごまかしてるに違いない」

 猜疑心は具体的な怒りとなり、倉庫の扉をこじ開けようとする者も現れる。


「やめろ!食料がある。中を荒らせば燃え広がる!」

 復員兵の声は必死だったが、怒号に掻き消される。


 ついに若者の一人が詰め寄った。

「お前も分け前をもらってるんだろ。ここで出せ!」

 復員兵はゆっくりと首を振った。だが周囲の視線は冷たく、誰かが吐き捨てるように言った。

「示しをつけろ。見せしめにしてやれ!」


 やがて、占領軍の巡回部隊が到着した。

 黒い外套、整列した銃。冷たい金属色が、火の赤と煙の黒に鋭く映る。


 将校は群衆を見渡し、事務的に告げた。

「秩序を乱す者を確認次第、拘束し処罰する。犯人が出ない場合は、代表者を数名選出し、公開の場で執行する」

 その冷徹な言葉は、恐怖をもたらした。


 広場の誰もが聞いたその言葉に、深い恐怖が落ちた。

 それでも怒りは消えず、囁きは一つの名前に集まりかけていた。——復員兵。

彼は民衆の象徴、誰より人々に寄り添った人物。だからこそ標的になり得た。


 ◇


 市庁舎。

 書記が青ざめた顔で報告を差し出す。

「市長、正式な要求です。放火の首謀者、または協力者を三名。本日中に引き渡せ、と。名簿には復員兵の名が…市議の一部が賛成しています」


 杉原は紙を握りしめ、手帳の古い走り書きが脳裏に蘇る。

 「最悪を避けるための妥協を」



 杉原は呟いた。

「彼一人が、今の街の秩序を支えている。…だが、占領軍は見せしめを好む。渡せば、街は一時の安定を得るかもしれん。しかし…」

 年配の議員が声を荒げる。

「市長!理屈では人は救えん!従わねば街全体が封鎖されるのだ!」

 議場の窓の外で、群衆の怒号が遠く響いた。


 杉原は立ち上がり、低く言った。

「…一度、私に時間をくれ。二十四時間以内に、引き渡し以外の策を占領軍へ示す。そのために、軍とも正面から交渉する」


 書記は凍りつき、議員たちは口々に罵声を吐いた。

 だが杉原は窓を開け、灰の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 街は裂け目を見せつつあり、彼はその縁に立っている。


 選択は、いつも灰の中で行われる。


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自分の好きな分野での小説が少ないということで、いっそ自分で書いてみようとなり小説を書き始めてみました。


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