[10月29日完結予定] 灰と秩序の市長戦記 〜この街を救うため、私は愚者と呼ばれよう〜
思想犯エル
第一部 秩序の陰影
第1話 焼け跡の序曲
巨大な爆音は、南東沿岸に位置する灰島市を震わせた。
港湾地区に集積した造船所や倉庫を、連合大陸国の爆撃機が無慈悲に攻撃したとき、街は炎と土煙に包まれた...
母親は幼い娘を抱え、瓦礫の路地を駆ける。
復員前の若い兵士は、負傷した戦友を背負いながら港湾地区の軍需倉庫を飛び越え、命辛々防空壕へ急ぐ。
逃げ遅れたことを悟った老爺は家の戸口に座り込み、空を仰いだ。
空が割れ、爆音が次々と聞こえ、港と丘陵地帯にまで響き渡る。
町の建物の多くは崩れ落ち、工場群は焼けただれる。
焦げた海風に混じる叫び声、泣き声、砕ける瓦礫の音...
全てが交差し、その無秩序さはまるで地獄の入口のようだった。
ーーそこにはもう「東邦国の工業の心臓」と呼ばれていた市は無い。
◇
数週間後
街は黒い煤に覆われ、燃え落ちた家々は骨のように立ち尽くし、通りには死臭が漂った。
瓦礫の隙間では、人々は残った米袋を見つけ、必死に持ち帰ろうと争った。その傍らでは、鍋にわずかな米とさつまいもを入れ、増量米を炊く人々の姿もあった。更には、水も乏しく、近くの壊れた水道管や井戸、雨水をかき集めながら、母親は子どもに少しずつ水を与える。
生き延びるための必死の争いは、助け合いと暴力が紙一重で交錯していた。
瓦礫の間を進む人々の耳に、かすかな雑音が届いた。しかし、誰も気に留める余裕はなかった。皆、生き延びることだけで精一杯だった。
そんな中、瓦礫の片隅で、若い商人が手慣れた手つきで小型ラジオのスイッチを入れた。
「――東邦国は、連合大陸国に降伏を受諾しました……」
声はか細く、しかし確かに届く。
その放送を聞いていた商人は、瓦礫に腰を下ろし、握りしめた布袋の上で小型ラジオを見つめた。耳を澄ますほどに、声は街の喧騒をかき消し、彼の胸にじわりと重く響く。
隣には、ほこりまみれの少年が立っていた。大人たちの沈黙や表情の変化を感じ取り、ラジオの声に思わず身をすくめる。
「降伏……」商人は呟いた。その言葉は、瓦礫の間に漂う煙と同じく、濁っていて、冷たく重かった。
少年が小さな手でラジオを覗き込み、震える声で聞き返す。
「ほんと……なの?」
商人は少し間を置き、瓦礫に目を落としながら答えた。
「そうだ……もう、戦争は終わったんだ。」
しかし、その言葉は二人を安心させるどころか、むしろ重苦しい現実を突きつける。街は焼け、家は崩れ、人々は今も生き残るために争っている。降伏の知らせは、希望ではなく、疲弊した街にさらに深い沈黙を落とした。
街の沈黙を切り裂くように、遠くで銃声が響いた。
敗戦の報せを受けてもなお、街の一部には火の手が上がり、崩れかけた建物の影で暴徒が炊き出しを奪い合っている。
商人はラジオを懐にしまい、隣に立つ少年の肩を軽く叩いた。
「行こう。ここにいても、何も変わらん。」
少年はうなずきもせず、ただ足を動かした。
彼の目には、かつて祭りが開かれた広場が映っていた。今は広場全体が瓦礫に覆われ、井戸は壊され、赤黒い染みが地面に広がっている。
その場所の一角に、人々が横一列に並び、何かを待っているのが見えた。
――配給列だった。
炊き出しに使われる鍋の前で、痩せこけた役人が名簿を片手に名前を叫んでいる。
だが列は長すぎ、声は掻き消され、やがて人々の苛立ちが口論と小競り合いへと変わり始めた。
母親が子を抱きしめて叫ぶ。
「列を守って! 子どもが死んでしまう!」
人々の視線が不意に一点に向かう。
煤にまみれた長身の男が、瓦礫の路地から現れたのだ。
右腕のない軍服姿の復員兵。頬はこけ、片目には深い傷跡が走っている。
彼は配給列をじっと見渡し、低い声で言った。
「……これは、戦場と同じだな。」
ざわめきが広がり、誰かが言った。
「帰ってきた兵隊じゃないか。あんたらは何をしてた? 戦って負けて、黙って帰ってきただけか?」
兵士は答えず、ただ母親の手から壊れかけた桶を取り上げ、列の前で鍋に水を注いだ。
黙々と火を起こし、米を研ぎ始める。
その滑らかな動きだけが、人々を一瞬静めた。
だが、その静寂を切り裂くように、再びラジオが雑音を吐き捨てる。
「――本日正午をもって、東邦国は連合大陸軍の占領下に入ります……行政機関は速やかに……」
静寂が、罵声に変わる。
「行政機関? 市役所のことだ!」老人が吐き捨てる。
「市長だ! 奴が街を売った!」
声は波のように広がり、罵声はやがて一つの方向へ向かった。市庁舎の石段。
役人に背を押されるように、一人の男が姿を現す。
黒い背広には煤がつき、白い手袋は汚れていた。疲労の色を濃くした顔。
――東邦国・灰島市市長、杉原誠一。
群衆は叫ぶ。「無能市長!」「売国奴!」
その中で杉原は言葉を返さず、ただ人々を見下ろしていた。目は曇天を映す湖面のように揺れも輝きもなかった。
やがて彼は庁舎に戻る。机の上には一枚の紙が置かれていた。
「市内の反抗行動を即刻鎮圧せよ。従わなければ市街制圧を行う」――占領軍司令部の通達。
机の隅には、空の食糧箱と灰のこびりついた灰皿。
外で飛び交う怒号を背に、杉原は煙草を取り出し火をつけた。
手元の震えは恐怖か、覚悟か――誰も知る由はない。
ただ一つ確かなのは、市庁舎の外に――「無能」「腰抜け」と罵る声がこだまし続けていたことだった。
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自分の好きな分野での小説が少ないということで、いっそ自分で書いてみようとなり小説を書き始めてみました。
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