第8話
「まあお風呂って言ってもドラム缶風呂なんだけどね」
満点の星空の下で、野外に大きなドラム缶が一つ置かれ、火に焼べられていた。本当にここに浸かるのだろうか?裸になって?東京にいた頃には考えられなかったが、今ここは山の中で僕たち二人しかいないのだから問題はないのかもしれない……だがそれこそが問題でもあった。
「おいで、春くん。一緒にお風呂に入ろう」
薫さんは一糸纏わぬ姿になり、僕を手招いた。僕は心臓が爆発しそうになりながら、その手をとって一緒にドラム缶の湯に浸かった。
立ち上る湯気と、熱と、仄かに香る薫さんの匂いのせいで、くらくらする。少々のぼせてしまったのかもしれない。狭いドラム缶のなかで肌と肌がくっつきながら無言で身を寄せ合っていると、夢か現実か分からなくなってきた。
なんだか自分がおかしくなってしまったような気がした。あの夢を見た時から、自分と薫さんの間になにか深いところで繋がっているような感覚があって、やけに意識してしまう。
薫さんを手に入れたいという気持ちが止めどなく湧いてくるのだが、それはどちらかというと、もう既に口につけたものを、喉の奥に流し込みたいといったような欲望で、これから新たに手に入れたいというよりは、既に深く繋がっているという奇妙な確信があって、それ故にどうしようもなく薫さんを求めていた。
もしかしたら、あの時飲んだジュースの中に何か薬が入っていて、それで薫さんの事を好きになってしまったのかもしれない。そんな妄想が一瞬脳裏に過ぎる程、僕にとって今の展開は急過ぎるし、この気持ちには脈絡なんてものがないように思われた。
「ねえ、春くん。夢と現実の違いって何か分かる?」
そんな僕の気持ちを見透かしたように、薫さんは問いかけてきた。
「実際にあった事かどうかだよ、たぶん」
「じゃあ夢に見た事が本当にあった事だったら?」
「それはどういう意味?」
「さっき、わたしの夢を見たでしょ?」
一番知られたくない事を知られてしまって、びっくりしてしまった。
「な、なんで分かったの?」
「わたしも君の夢を見たから」
その時、僕の心臓がどくんと跳ねて、薫さんのやわらかで鋭利な眼差しが、僕の一番深いところを刺したような気がした。
「だから、きっとあの夢は現実に起こったことで、私たちはもう愛し合っているんだよ」
そう言うと薫さんは僕に抱きついてきて、唇に口付けたのだった。その瞬間に丸い月が欠け落ちて鋭い三日月になったような気がした。僕の心のなかにあった建物の柱が奪われて、ガタガタの骨抜きになりながら、全く新しいものに生まれ変わっていくようだった。
僕たちは激しく口付け、抱き合いながら、お湯から出て、家の中に入って、体も拭かぬままに布団に二人して倒れ込んだ。薫さんが僕にのしかかってきて、深いところで繋がり、そのまま絡まり合いながら、奥の方で弾けて、果てた。
その快楽はじんわりと身に染みていくように、夢の光景と重なった。そしてあの夢はやはり現実のことで、今回は二度目の逢瀬に他ならないのだと僕は悟った。
情事の間に見上げていた天井は先ほど見た星空のようで、その染みの配列は夏の大三角によく似ていた。事が終わってからも、僕はずっとその星空の下で横たわっていた。
「ねえ、薫さんは幽霊じゃないよね?」
「まだそんな事考えてたの?もう子供じゃない癖に」
薫さんは相変わらず悪戯っ子のように笑っていた。だが隣で寝転びながら頬杖をついてこちらを見つめる薫さんと、僕との距離はほぼゼロに近しいものになっていた。
その仕草が、表情が、今までよりも魅力的なものに感じながらも、今までよりずっと身近で自然なものに思えた。
「だって、なんだか全部夢のようで……全然現実じゃないみたいだから」
僕はしみじみとそう呟いた。
「嘘じゃないよ。ほら、私ちゃんと生きてるし」
そう言うと薫さんは僕の手を取って自身の胸元にそっと置いた。どく、どく、と心臓の音が脈打っているような気がしたけれど、それは僕の心臓の音だったのかもしれない。
「それにこんなにも若さ真っ盛りで血色のいい幽霊なんているもんですか。あのねえ、幽霊って生きてないんだよ?食べたり飲んだりトイレに行ったりしないし、髪だって生えてこないし、匂いがしないからお風呂にだって入る必要もないんだよ」
そう言われると確かに薫さんは幽霊ではない気がしてきた。薫さんの魅力は溌剌とした生きるエネルギーそのものであり、滴る汗と夏の日差しの香りによるものだからだ。
そこでふと思いついたことを口にしてみた。
「じゃあ幽霊は妊娠しない?」
薫さんの表情は石化したように一瞬固まってしまったがすぐに元の笑顔に戻った。
「そうだね……その通りだね。幽霊は妊娠しない。うん、君の言う通りだ。もしも貞子のお腹が膨らんでいたら、誰も怖がったりはしないだろうね。でもその定義だと、私も幽霊ってことになっちゃうかも」
「薫さん……?」
反対側に顔を向けてしまったので、この時の薫さんの表情は窺い知れない。しかし程なくして再びこちらに顔を向けた。
「なぜならコンドームをつけていたからです!私って偉い!」
「あ、いつの間に……」
薄いピンク色のゴムの窪みには白くさらさらとした液体が溜まっていた。
「春くん、初めてだからゴムつけなきゃいけないの忘れてた?もしかして東京の人はゴムをつけないのかと思って焦ったよ」
あはは……という顔でそう呟くのを見て、こんな顔もするのだと思った。
「ごめんなさい……よく分かりませんでした」
僕は丁寧に頭を下げて謝った。
「いやいや、いいんだけど。ていうか本当に初めてだったの!?」
「はい、そうですけど……」
薫さんはとても驚いているようだったけれど、僕からしたらよく分からなかった。
「そっかあ……東京の人は皆んなこういう事を当たり前にしてると思ってた」
「いったい東京の人間をなんだと思っているんですか」
「だって、私はそう言われて育ってきたから」
薫さんは至って真剣な口調になっていた。
「村の人たちには内緒だよ、でも東京の人たちは皆んなこうしているのが普通なんだよって、教えられて育ってきたから」
その瞬間に、薫さんはこんな辺鄙な場所で生きながらにして幽霊のように暮らさなければいけない事情があるのだと悟った。
「ごめんなさい……もう寝ましょう」
「うん、おやすみなさい」
どこかまだ薫さんと体の一部が繋がっているような、お互いの全身が溶け合っているような、そんな感覚のまま眠りについた。
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