ディープブルー・アクアリウム ~東京の路地裏、幼馴染が支配する深海ダンジョン~
初瀬灯
プロローグ 深海の少女
夜闇の中を後ろから二つの光がずっと着いてきている。
バックミラーに写るミニバンを見て、小室成美は不安げに眉を顰めた。車間距離は異様に近く、何度もパッシングを繰り返している。
――追ってきてる、よね……。
このミニバンに気がついたのは二十分程前のこと。成美の何が気に食わなかったのか分からないが、それからずっとこの調子だ。
何度かニュースで見たことがある、これがいわゆる煽り運転という奴なのだろう。
ニュースを見た時は酷いドライバーがいるものだと呆れたが、自分が標的にされてみるとその恐怖は想像以上だった。
こちらを追い越して先に進んで貰うようスピードを落としてみても、ぴったりと着くだけで追い越そうとする気配はない。ならばとわざと大通りから離れた脇道に逸れても着いてくる。
今のところ赤信号には引っかかっていないが、止まってしまったらどうなるのだろう。逆光で分かりづらいものの、向こうの運転席に乗っているのは三十代くらいの強面の男性に見える。
力に訴えられたら女子大生の自分ではどうにもならない。
泣きそうになりながらハンドルを切るが、やはりミニバンは着いてくる。
このまま運転していたらこちらの方が事故を起こしてしまいそうだ。
そうなったら後ろのミニバンは笑いながら成美を見捨てて去って行くのだろう。
――警察を呼ぶ? でも……。
自分ではどうにも出来そうにない以上、警察に助けを求めるしかない。
だけど移動したままではパトカーも追いつかないからきっとどこかで停まらないといけなくて、停まってしまったら警察が来るまでどうやって身を守ればいいのだろう。
男が降りてきてこちらに向かってきたら? 車内に立てこもれば大丈夫? 本当に?
相手は頭のおかしい人間なのだ。何をしでかしてくるのか分からない。
恐怖心に追い立てられるように車は先へと進んでいく。
ミニバンを撒こうとして無闇に曲がった結果、全然知らない通りに出てしまっていた。
道は細く、人通りもない。これならまだ人目につく国道にいた方がいくらかマシだった。
――やっぱり、警察に通報するしかない。
自分ではどうすればいいのか分からない。まずは一一〇番して警察官の指示を聞こう。
そう思って助手席に置いてあるバッグからスマホを取り出して画面を開く。
――は?
目を疑った。アンテナが一本も立っていない。
圏外。圏外だ。
そんな馬鹿な。見知らぬ横道に入り込んでしまったとはいえ都内なのに、電波が届かないなんてことがあるのか?
だけど現実に電波は届いていなくて、これでは警察に通報することも……。
「わっ!」
不意に光が溢れて来て、成美は反射的にブレーキを踏んだ。
甲高いブレーキ音を立てて車が停まる。
目の前には真っ白な壁があった。
行き止まりだ。どうしてこんな道の途中でいきなり……。
ハッとして成美は後ろを振り返る。電波が届かない、先にも進めない場所で停まってしまった。まだ男が追ってきていたら……。
しかし後ろにはミニバンの姿はなかった。あれだけしつこく追いすがってきていたのに、いつの間にか姿が消えていた。
――助かった。
心底ホッとして、成美はハンドルにもたれ掛かるように頭を着ける。
大きく息を吐いた後、顔を上げると、窓の外を透明な何かが通り過ぎるのが見えた。
それはガラスのように透き通っていて、釣り鐘のような形をした生物だった。
――クラゲ?
傘の下には無数の触手があって、間違いなく成美の知るクラゲという生物だった。
ただ一つ、宙を浮いているという点を除いては。
その時、コンコンと窓を叩く音がして成美はギクリと身体を震わせた。
例の男が来たのかと身構えたが、そこにいたのは違う人間だった。
黒いパーカーにフードを目深に被っていて分かりづらいが成人男性とは明らかに異なる、十代ほどの少女だ。
少女は車内を覗き込むようにしながら、再びドアウインドウを軽く叩いた。
この少女が煽り運転の男とは明らかに違うのにも関わらず成美がドアウインドウを開くのを躊躇ったのは、今この車の周りに起きている、ある意味では煽り運転に狙われるよりも異常な現象からだ。
不可思議なクラゲが周囲を漂流しているにも関わらず、少女はなんら意に介することはない。
何もかもおかしい。
――だけど。
少なくともこの少女は自分に対する敵意はなさそうに見える。
成美は意を決してドアウインドウを開いた。
「お姉さん大丈夫だった?」
「えっと、ここは一体……。それに、その浮いてるのは……?」
「ああ、この子? この子はツリガネクラゲだよ」
少女は微笑むと人差し指で宙をなぞった。
それによって流れが出来たようにクラゲが揺れる。
「ああいうの、煽り運転っていうんでしょ? 迷惑だよねぇ。まあ気にしなくて良いと思うよ。ああいう輩って違うところでも何度もやってるからさ。常習犯なんだよね」
少女は困ったように肩を竦める。
「ああいうのって……」
まるでずっと、見ていたみたいな。
「本当はお姉さんまでこっちに来るはずじゃなかったんだけど、あんまり危ないからさ」
よく見ると、少女の周囲に浮遊しているのはツリガネクラゲだけではない。半透明の見たことのないタコや、イカらしき生物が少女の傍を泳いでいる。
更に上の方に視線を向けると、成美にも見覚えのある生物……全長数メートルはあるリュウグウノツカイが彼女を見守るように旋回している。
夜の道を走っていたはずなのに、まるで海の中にいるみたいに。
「ほら、あっち」
少女が指で示す先に吸い寄せられるように視線が向かう。
そこにあったのは車の塊、とでも言うべき物体だった。巨大な貝のような物体を中心にして、多数の車が放射状にくっついている。成美が息を呑んだのは、その貝に着いている車の一つにヘッドライトが点灯したままだったからだ。
――さっきのミニバン……。
先程まで散々成美を追い回したミニバンが、巨大な貝に吸い付けられている。
「最近多いから。クマサカガイは自分の貝に別の貝殻をつっつけるんだけど、なんだか車だらけになっちゃって」
美しくないよねぇ、と少女がため息を漏らす。
「あの車って……」
「ああ、あれ? 光ったままなのは鬱陶しいけど、結構高いところに着いちゃったみたいだからわざわざ切りに行くのもなぁ。まあヘッドライトって、そのうちバッテリーが上がったら消えるんじゃないかな。知らないけど」
そう言った少女はもう、自動車にも巨大なクマサカガイにも関心を失ったようだった。
「じゃあ外まで案内するから、ちょっと乗せて貰ってもいい?」
成美が返事をするまでもなく、助手席のドアが独りでに開いた。
道案内する間の少女はよく喋った。
成美に対して害意はないらしく、特に海の生き物の生態について楽しそうに語っていた。言われるままに車を走らせて、ようやく見覚えのある国道に出て来た時、助手席に座っていたはずの少女の姿は消えていた。
――何だったんだろう。
何もかも夢だったのかもしれないと思った時、助手席に見覚えのない赤いクラゲのキーホルダーが落ちているのに気づいた。
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