ひとがた

中村いそら

第1話 死別

しんと張りつめた空気のなか、すすり泣く声がかすかに揺れる。

 

壁際には白菊で埋め尽くされた祭壇が広がり、花々の白さが灯りに照らされて、淡く光を放っている。


その淡い光が、場内の静けさを、いっそう際立たせていた。

 

中央に置かれた遺影の中で、彼は柔らかな笑みを浮かべている。




兄が死んだ。

 



真吾は宏樹にとって、たったひとりの兄だった。


脇見運転をしていた車に撥ねられ、即死だった。


葬儀は家族だけでしめやかに執り行われたが、訃報を知った真吾の友人、


勤務していた保育園の同僚、父兄らが次々と弔問に訪れ、


会場は白菊の香りとすすり泣きに包まれていた。


宏樹は最前列に座り、微笑む兄の遺影を見つめる。

 



「兄貴…… 意外と人望があったんだな……」

 



眼前の真吾の遺影を見つめながら、消え入りそうな声で呟いた。







宏樹は中学を卒業すると同時に故郷の高野市たかのし を離れ、


150キロほど離れた都市・涼風市りょうふし の名門高校へ進学した。


大学を経て同市の大手企業に就職し、そのまま涼風で暮らし続けている。


なので、中校時代以降の真吾の事を何一つ知らなかった。


知っている事と言えば生前、真吾は保育士として働いていた… 事くらいだ。


それも真吾本人からでなく、母から伝え聞いたのだった。







宏樹はそっと振り返り、会場を見渡した。


弔問客一人ひとりに丁寧に頭を下げる母の姿が目に映る。




昨日、宏樹は兄の突然の訃報を受け、急ぎ涼風から高野総合病院へ駆けつけた。


待合室には、すでに母がひとり座っていた。




その背中は折れてしまいそうなほど小さく、これまで見たことのないほど儚げだった。




昨日は胸がつまる思いでその姿を見つめたが…




今は悲しみを堪え、気丈に振る舞う母の姿は、偉大に見えた。







葬儀も滞りなく終わり、その後しばらくは役所での手続きや身辺整理に追われ、目まぐるしい日々が続いた。


やがてそれも一段落し、宏樹と母は少しずつ平穏を取り戻していった。




葬儀からひと月ほど経った休日、宏樹は久しぶりに母の様子を見に、高野の実家を訪ねた。







冷えたそうめんの入った鉢を挟んで、宏樹と母が向かい合って食卓に着く。


窓の外では蝉の声がじりじりと続き、冷房の風が微かにカーテンを揺らす。


箸を取り、宏樹はつゆにそうめんを滑らせる。


啜る音だけが静かな部屋に響いた。




「やっと、一段落ついたね…。」




母がぽつりとつぶやく。


宏樹は手を止め、顔を上げた。


母が続ける。




「『家族が亡くなった直後は、悲しむ暇がない。』って、よく聞くけど… 本当… よく言ったものね…。」




宏樹は無言でうなずき、箸先をつゆに沈めながら視線を落とす。


普段通りに振る舞っているが、その肩はわずかに落ち、目元には深い影があった。


いつもの爛漫な母の笑顔はどこにもない。




「でもまさかさ…、私より先に逝くなんてね。思ってもみなかったわ…。」




言いながら、母は頼りなく微笑む。


それがかえって痛々しく、宏樹は胸の奥で言葉をのみ込んだ。




広い家に母独り。




その光景が頭に浮かび、宏樹は箸を持つ手に力を込めた。




「あのさ、母さん… 俺、仕事辞めて家に…」




言いかけた瞬間、母が遮る様に箸を置き、宏樹の目をまっすぐに見た。




「大丈夫、心配しないで。あんたはあんたの好きなようにやんなさい」




母はそう言って笑った。




一瞬だけ昔の笑顔に近いものを見た気がして、宏樹もつられて口元を緩める。




「そっか…。」




二人は再び箸を取り、そうめんをすすった。


冷えたつゆの中で麺が踊り、氷が小さく音を立てる。




しばし、沈黙。




蝉の声と、遠くで車の通り過ぎる音が聞こえた。




母が顔をゆっくり上げ、口を開く。




「あんたは…… 平気?」




宏樹は箸を止め、視線を落としたまま固まる。


冷えた麺がつゆの中でほどけていく。




「俺は……」




小さく息を吐いて、つぶやく。




「俺は、昔と変わってないから……」




母は、ふっとため息をついた。


その吐息が重く食卓に落ちる。




「でもね… 真吾は、あんたのこと気にかけてたよ」




宏樹の箸が、ぴたりと止まる。


腕の筋肉がわずかに硬直するのが、自分でも分かった。




「冗談でしょ。そんなわけないよ」




声は低く、乾いている。


宏樹は顔を上げず、もう一度そうめんをすすった。




「冗談じゃないよ。」




母は一呼吸置いて、言葉を選ぶように続ける。




「宏樹、元気にしてる? とか、最近あいつどう? とか… 気にしてたんだから」




宏樹は短くため息をつき、ぽつりとこぼした。




「何を今さら……」




複雑な感情を振り払うように箸を動かし、勢いよく麺をすすった。




その音だけが、静まり返ったダイニングに響いた。

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