侯爵令嬢は謎を解く
桃神かぐら
第1話 舞踏会の毒杯 — 白扇は嘘の艶を見抜く
── 序章/光の海と影の譜面
王都迎賓館・大広間。三段のシャンデリアは星座のように輝き、金糸の房がわずかな空調の流れで揺れ、床へと粒の光を降らせる。白磁の皿は月光の反射を抱き、銀の冷却槽には細かな汗が散って、夜の涼しさが目に見える形になっていた。楽団は第一主題をさらりと通し、木管がさざなみのような装飾を散らす。扇の開閉、衣擦れ、控えめな笑い、囁き――社交の音は見えない譜面にしたがって呼吸している。
エリザベート・フォン・ヴァイスは白扇を閉じたまま、灰青の瞳で場の拍を数える。杯が持ち上がる角度、給仕の歩幅、皿の軌跡、席札の配置。美しい秩序は、破られるときにこそ美しい音を立てる。隣には護衛兼助手のカイル・アーデンが控え、黒礼剣の柄に触れて周囲を見張っていた。
「退屈しそう?」とエリザベート。
「いや、殿下から“必ず何かが起こる”と伝言だ。予言というより、経験則だと思うけど」
「舞台が整っているもの。幕は上がるわ。――ほら、席札を見て。全部乾いているのに、あれだけ縁が滲んでいる」
カイルが目だけで追い、「本当だ。インクの端が汗を吸ったみたいに」
「汗をかくのは誰かしら。紙? それとも指?」
── 前日挿話/小箱と印の欠け
前日の朝、厨房。菓子長フリードリヒは配膳表の末尾にひっそりと紛れた「小箱(要医務渡し)」の欄を見つけて眉を寄せた。中身は“消化補助の小菓子”。王宮常務医ゲツォフの依頼と添え書きがある。彼は小箱を布で包み、医務室へ持参した。
医務室では、薬瓶の影が棚の目に沿って整列し、窓からの光がガラスの腹で折れて机に楕円の明滅を落としている。ゲツォフは無言で小箱に手を置き、出納帳を開いて「療養補助/小菓子(1)」と記す。印を押す指先は僅かに癖があり、紙面の隅に小さな欠けを残した。本人は気づかない。だがその“四枚目の欠け”は、のちに譜面の休符のように意味を持つ。
フリードリヒは控えめに一礼し、厨房へ戻る。卵白の泡は角を作り、砂糖は乾いた雨のようにこぼれ、杏仁風味の冷菓はまだ白い湖で眠っている。総執事コンラートが席次表を腕に抱え、給仕のリハーサルに「右列を二重に、通りを良く」と声を飛ばした。誰も悪意など持っていない。だが舞台は、善意の微調整でも動く。
── 第一幕/乾杯と最初の崩落
第一曲が終わり、杯が一斉に掲げられた。伯爵子息アルノルト・フォン・ロートリンゲンは陽気な笑いで周囲に軽口を交わし、「今宵は杏の甘い香りが恋しい」と冗談を言う。杯が唇へ、液が舌へ。ひと口、ふた口。そこで彼の頬から血の色が引いていく。
皿が鳴り、誰かが息を呑み、扇が百羽いっせいに開いた。広間を横切ったのは、杏を思わせるのに甘くない、どこか薄い、記憶だけを撫でる匂い。
エリザベートは被害者の卓へ歩を移し、グラスの縁に指を沿わせた。光が乗らない――艶が死んでいる。触れた指先には、皮膜が戻るときのかすかな弾力があった。銀の冷却槽に触れると、そこにも微かな“戻り”。給仕のトレイ裏には、目を凝らせば見える程度の粗い粉が点々と付着している。
「カイル、列の向きと侍従の利き手。予備杯の棚の触れ跡も」
「任せろ」
アルノルトは吐き気に襲われ、侍従に支えられて控室へ運ばれていった。音楽は途切れ、ざわめきが指示待ちの沈黙に変わる。
── 控室/ゼリー片と目撃
控室は絹の匂いと薬品の薄い匂いが混じっていた。アルノルトは布団に横たえられ、額に汗、唇は乾き、胸が浅く上下している。枕元に、小さなゼリー片が落ちていた。淡色で、光にかざすと透明層に微細な礫が散っている。指を触れず、白扇で角度を変えて観察する。
「医師から、舞踏の前に“消化に良い小菓子”を、と」
侍従セルジュが震える声で言い、手袋を握りしめる。その手袋の親指は擦れて毛羽立ち、左手の方が明らかに使い込まれていた。
医務室の出納帳には確かに記載があり、署名も整っている。だが印の一辺――“四枚目”に、髪の毛一本分の欠け。エリザベートは視線だけでそれを拾い、胸の内にしまう。
(第一の介在物。弱らせるための前段。名前は要らないわ、構造で読める)
── 戻る舞踏と戻らない体
一時間ほどののち、アルノルトは嘘の回復を見せて戻ってきた。群衆は安堵し、扇を閉じ、音楽も表情を取り戻す。人は回復に弱い――一度落ちたものが持ち直すとき、信頼は過剰に戻る。
ディナーの終盤、杏仁風味の冷菓が広間へ運び込まれた。白磁の湖が整然と並び、銀のスプーンが光る。アルノルトはひと匙。笑顔。次の瞬間、顔の筋肉がこわばり、椅子ごと後ろへ崩れ落ちる。痙攣。皿が倒れ、銀器が転がり、人々の叫びが天井の丸天井に反響して戻ってくる。
エリザベートは皿の縁を見た。ごくごく微かな粉が付着している。控室のゼリー片に混ざっていた微粒とは、粒の角が違う。粒度の分布も、反射の散り方も違う。
(第二の介在物。致命の一匙。匂いは記憶を煽る飾り)
── 小結/三つの仮説
エリザベートは中央へ出て、静かに声を通す。
「仮説は三つ。
一、単一の即効作用。――なら同じボトルを口にした他席にも倒れる人が出るはずですが、出ていません。
二、偶発の体調不良。――ならば二度目が重くなる説明がつきません。
三、二段構え。――第一で弱らせ、第二で落とす」
白扇がひとたび開き、閉じる。その仕草だけで場は聴衆になる。
「支持するのは三。理由は五つ。**艶の死んだ縁**、**冷却槽の戻り**、**トレイ裏の粗粒と棚の微粒**、**ゼリー片と皿縁粉末の粒度差**、そして**出納帳の印の欠け**」
ざわめき。だが反論は“言葉の武器”を求め、まだ形にならない。
── 配膳と動線/左利きの侍従
カイルが戻る。「侍従セルジュは**左利き**。配膳列は**右側二重**で、最後尾で**一度予備を補填**している。総執事の指示だ」
「左利きで右列なら、被害者の**右側縁**を触りやすい。席次は?」
「被害者席は乾杯直前に**指一本ぶん**グラス脚が動いていた。席札は**縁がにじみ**。湿った指の痕だ」
「“置き直し”ね。――縁に極薄の膜。乾かして、冷気で戻して、唾液で溶かす系の仕掛け」
カイルが顔をしかめる。「名は?」
「名は**『夜鴉の露』**とでも。作中の鑑識が呼ぶ仮称よ。**名**よりも**構造**と**アクセス**が判決を決める」
── 四人の鍵持ち/正当の連動
エリザベートは四つの職掌へ短い聞き取りを行う。
・王宮常務医ゲツォフ:「出納は正当。印の摩滅は歳月」
・菓子長フリードリヒ:「配膳列は総執事の微調整。予備皿は一度出し、戻した」
・総執事コンラート:「通りを良くするために席次を動かしただけ」
・給仕責任者:「トレイが一枚不足し、棚から補った」
どれも正しい。だが四つの正しさが**同時に**起きれば、舞台は**設計**になる。
── 推理提示/フェアプレイの束
縮尺図が広げられ、記録官が指先で示す。
・被害者グラス脚の微ズレ=置き直し。
・席札のにじみ=湿指接触。
・トレイ裏の粗粒/棚の微粒=受け側/加工側の差。
・ゼリー片(第一)と皿縁粉末(第二)の粒度差。
・出納帳の改行と印章の欠け=記録の不整合。
「以上、全て場に開示済みの手掛かり。**推理は観客の権利**です」
エリザベートの言葉に、前列の老紳士が思わず頷いた。
── 容疑の矛先/“押した”のは誰か
視線はじきに、従兄ゲオルクへ集まった。彼は席次を直前に変更し、動線を“通りやすく”整え、予備皿の出入りを指示できる立場にいた。
「俺は……**押した**だけだ!」
ゲオルクの手が刃へ。鋼は鞘を出るより早く、カイルの鍔で跳ね上げられ、短い金属音を残した。
「あなたは押した。だけど“押せば落ちる”舞台を**設計**したのは――別」
エリザベートは絨毯の目に引っかかった**黒蝋の欠片**を摘み上げる。骨炭の深い黒。縁に**四枚目の欠け**。
「**権威の影**は、美しい嘘の色をしている」
── 心理吐露/嫉妬と譜面
ゲオルクは肩で息をし、椅子に崩れ落ちた。「あいつは……いつだって俺より上手くやる。席次の微調整くらい、俺だってできる。『譜面どおりに動けば良い』って言われた。俺は押した――それだけだ」
「譜面は**拍**。音を置いたのは、あなたじゃない」
エリザベートの声は静かだった。怒りは刃を走らせ、理性は刃を納める。舞踏会は人の矛盾をよく映す鏡だ。
── 群像カット/噂という香
白札の商人は隣の娘に囁く。「桂皮を焚くと他の香りは変わる。昨夜の杏は、記憶だけだ」
黒札の若い官吏はメモを取る。「層記述。花/果実/苦味――書式にできるかもしれない」
老侯は渋面で呟く。「法廷で香を語るとは」孫娘は扇で微笑む。「閣下、**礼**が語らせているのです」
── 鑑識補遺/粒度と戻り
監察官マリアンは場末席で静かに観察していた。彼女は顕微鏡へサンプルを運び、紙片に数式のような点と線を置く。「ゼリー片は溶解層に礫散在、皿縁粉末は角が鋭い。――二種の介在物。時間設計あり」
オスカー礼式官が頷く。「礼は器。器の壁に**時間**の目盛りを刻む者がいる」
── 余白/白扇と刃
騒ぎの端で、カイルが小さく息を吐いた。「吐き出すのが無礼、っていうのは厄介だな」
「**美**が人を縛る。だからこそ**礼**で解く。吐けないなら、**飲まずに済ませる形**を用意する。――次はわたくしが**拍**を取る番よ」
「拍?」
「**沈黙の拍**。次に来るのは、きっと**音の不在**」
── 終幕/序章は終わらない
警備兵が動き、料理人たちは手を止め、楽団は楽器を抱えて沈黙した。噂だけが柔らかな布のように廊下を流れる。
「これは序章。設計者はまだ幕を下ろさない」
エリザベートは白扇を閉じ、灰青の瞳を冷ややかに細めた。
――黒蝋の欠片は、廊下の角でもう一つ見つかった。誰かが置いたのか、落としたのか。四枚目の欠けは、同じ輪郭を描いていた。
── 付録/フェアプレイ手掛かり(読者提示済)
・グラス縁の艶消え(極薄の被膜痕)
・冷却槽縁の“戻り”(乾燥膜が湿気で復活)
・トレイ裏の粗粒/棚の微粒(受け側/加工側の差)
・席札のにじみ(湿った指の接触=直前操作)
・被害者グラス脚の微ズレ(置き直し)
・控室ゼリー片(第一の介在物:色・粘性・礫)
・デザート皿縁の微粉(第二の介在物:粒度・角の鋭さ)
・医務出納帳の“改行・印の欠け”(記録の不整合)
・侍従の利き手×配膳列の向き(縁に触れる位置バイアス)
・黒蝋片(四枚目の欠け)=設計者の暗号
── エピローグ/幕間の囁き
夜更け、迎賓館の回廊。燭台の炎は静かな楕円を作り、窓の外には薄い霧が降りていた。カイルは廊下の角で立ち止まり、壁の影に視線を向ける。人影はない。ただ、わずかな香と、紙を擦るような音。
「……誰かが、見ている」
「ええ。こちらに拍を合わせようとしている誰かが」
エリザベートは白扇で空気を撫でる。目に見えない譜面は、彼女の指先でひとつ形を変えた。
幕は、落ちない。序章は終わらない。次の事件のための前奏――**アウフタクト**が、静かな沈黙として置かれた。
── 追補1/厨房の会話と指の傷
翌朝の厨房は水音が支配していた。洗い桶の泡がはじけ、銅鍋の底が光り、包丁の背で落とした胡桃が卓の上で跳ねる。菓子長フリードリヒは、指先の小さな切り傷に薬草の軟膏を塗りながら、若い助手に静かに問う。
「昨夜、予備皿を一度出して戻したろう?」
「ええ、総執事の合図で。……菓子長、あれ、戻し場所は合ってますか?」
「合っているさ(――合って“いなかった”なら、誰が訂正した?)」
助手は言いよどみ、やがて口を閉ざした。彼の袖口には白い粉の痕がかすかに残り、指には絹糸のような繊維が絡んでいる。フリードリヒは気づかぬふりをし、棚の片隅――昨夜、**一度だけ空白になった場所**を見た。
── 追補2/礼法の盾と刃:法務卿の所見
法務卿アウグストは、一連の混乱の翌朝、短い所見を公表した。「礼は盾であって刃ではない。だが盾は、守るべき形を知らねばならぬ。形の乱れは、罰ではなく整序で正す」――この言葉は、エリザベートに一つの勇気を与え、オスカー礼式官には一つの宿題を与えた。
「沈黙の運用規定を、見直すべきだな」オスカーは呟く。「拍を誰が取るか、いつ合図を出すか」
「わたくしが扇で取るわ」エリザベートは笑う。「沈黙は器。器の柄は、こちらが握るの」
── 追補3/証人たち:四人四様の正当
王宮常務医ゲツォフは、出納帳を撫でて言った。「小菓子は療養補助だ。私が責任を持って……」。だが彼の視線はインクの“改行”を避けるように動いた。
総執事コンラートは、席次表を卓に広げて胸を張る。「通りやすい、というのは安全でもある。火事や急病に備えて通路は広く」――正論だ。だがその正論は、犯行計画にも微笑む。
給仕責任者は、指をすり合わせて粉を落としながら、「不足は補う、それだけです」と言い切った。落ちた粉は床で光り、彼自身が拾い忘れた“語り”になっていた。
菓子長フリードリヒは沈黙を選んだ。彼は自分の知らぬところで、誰かが自分の「正当」を利用したことに薄々気づいている。だが言葉は職人の刃であり、下手に振れば自分の手を切る。
── 追補4/観衆群像:十の囁き
1)「甘い匂いがしたわ」――「いいえ、私はしなかった」
2)「あの青年、左手で皿を置いた」――「右手が塞がってたのよ」
3)「予備の棚、空いてた」――「ほんの一瞬ね」
4)「印が欠けているなんて、誰が気づくの」――「気づく人がいたのよ」
5)「令嬢の扇の音、鳥みたい」――「鴉、ね」
6)「礼式は面倒だ」――「でも、礼がなければあなたは今ここで泣いている」
7)「毒だって?」――「名は問題じゃない、って言ってたわ」
8)「誰が設計者?」――「見えないから怖いのよ」
9)「楽団、再開しないの?」――「沈黙も音楽のうち」
10)「彼女が拍を取る」――「なら、私たちは踊れる」
── 追補5/犯人の心理:駒の独白
夜更けの取り調べ室。従兄ゲオルクは、油の切れた扉のきしむ音に肩を震わせた。彼は馬車の中で聞いた低い声を思い出す。「譜面どおりに、少し押すだけでいい」――その言葉は優しく、そして残酷だった。
「俺は、いつも“次点”だった。席次のメモは俺が整えて、主催の笑顔は別の者に向く。譜面は美しくて、俺は音が読めない。押せば落ちると、そう教えられたら、押すしか――」
「音を置いたのは、あなたじゃない」エリザベートは繰り返した。彼女の声は冷たいが、非難だけではない。駒の痛さを知る者の声だ。
── 追補6/記録の検分:筆圧と改行
監察官マリアンは、出納帳の“改行”の微妙な間(ま)を指で追った。筆圧はふつう、行の頭で強く、尻で弱い。だが問題の一行は、頭に力がない。借り物の手だ。印の欠けは、文書の“記憶”であり、偽装の“うっかり”だ。
「これは法廷で生きる」と彼女は言う。「名ではなく、手順の証拠」
── 追補7/礼と匂いの哲学
エリザベートは控室の椅子に腰を下ろし、扇でゆっくりと空気を攪拌した。香は、記憶を運ぶ。甘い香は安全を、苦い香は警告を、花の香は時間を遅くする。舞踏会とは香の演劇であり、礼はその器である。器に穴があれば、香は逃げ、記憶は嘘をつく。
「だから、器を直すの」彼女は独り言のように呟く。「名ではなく、形で」
── 追補8/白扇の実験:層記述の予告
翌日、彼女は市民と貴族から四人を選び、三種類の匂いを嗅いでもらった。花/果実/苦味――それぞれ一語で言ってもらう。驚くほど一致した。嗅覚は主観だが、言葉は合奏になる。これで次の法廷実験は準備が整う。
「沈黙の前に、香で拍を整えるわ」
── 追補9/黒蝋の譜面:四枚目の欠け
黒蝋は骨炭が深い。欠けは偶然のようで、同じ場所に繰り返し現れるものではない。だが二つの欠片は同じ輪郭だった。どこかで誰かが、印の縁を“設計”している。印章は権威の顔、顔を借りるのは顔のない者の手口。
「設計者は、顔を持たない」カイルが言う。
「だから、**拍**で捕まえる」エリザベートは答えた。
── 追補10/終夜の回廊:前奏は静かに
夜半、迎賓館の回廊は薄い霧を抱え、燭台の楕円が床に浮かんだ。遠くで鴉が一声。エリザベートは窓に手をかけ、冷たいガラス越しに自分の輪郭を見た。彼女は白扇を胸に当て、拍をひとつ、置く。沈黙に。
「次は必ず、沈黙の罠を使う」
「どうして分かる?」とカイル。
「音を止めたから。設計者は、止めたものを好むの」
── 追補11/読者への開示(フェアプレイ強化)
この章で提示された全ての証拠は、場面内で読者の視界に置かれている。グラス縁の艶、冷却槽の戻り、トレイ裏の粗粒、棚の微粒、席札のにじみ、グラス脚のズレ、ゼリー片の粘性と礫、皿縁粉末の粒度差、出納帳の改行と印の欠け、侍従の利き手、配膳列の向き、黒蝋の欠片――いずれも“名”を示さず“構造”を語る。フェアであることは、推理の最小礼法だ。
── 追補12/幕間の誓い
カイルは剣の柄に触れ、視線を正面に置く。「君が拍を取るなら、俺は二拍目で守る」
「三拍目で終止(カーデンツァ)。――こちらの和音に」エリザベートは微笑み、扇の骨を一本鳴らした。
── 追補13/公開審理・予告編(舞踏会の翌々日)
白石劇場の扉が開き、冬の光が舞台へ斜めに差した。公開審理の掲示が貼られ、人々はそれぞれの思惑を胸に並ぶ。記録官が砂時計を置き、礼式官オスカーは「審理における沈黙の扱い」を箇条書きにして机へ置いた。沈黙は語る。語らせ方は礼で決まる。
エリザベートは傍聴席の端で扇を細く開き、吸い込む空気の重さを測る。匂いは薄く、木の樹脂と紙の粉。人の声はまだ届かない。彼女は“音のない音”を数え、次の罠を逆算する。
「沈黙に割り込みを仕込まれたら?」カイルが問う。
「その瞬間、扇で拍を返す。――“礼の拍”で“罠の拍”を打ち負かすの」
「やれるのか?」
「やるの」
── 追補14/菓子長の夜:職人の矜持と恐れ
フリードリヒは家へ戻ると、流しに両手を突っ込んで粉を洗い落とした。白い粉は水に溶けず、細い線になって流れた。「私は皿を作る。器だ。器は中身の価値を邪魔しない。だが昨夜、器は中身のために殺意を運んだ」
彼は棚の目を一つひとつ撫で、どの段がいつ空白になったか、記憶を繋ぎ合わせる。目は嘘をつくが、手は覚えている。器の重さ、引っかかり、戻し際の“音”。音は小さくても、職人の耳には残る。
「――私は、何を知らない?」自問が夜に落ちた。
── 追補15/侍従セルジュの手袋
セルジュは左手の手袋を机に置いた。親指と人差し指の間が擦れて薄くなっている。「主の杯を支える手だ。俺は、失敗したのか?」彼は自らの手の形を見つめ、左利きであることを恥じた。しかし、利き手は罪ではない。配置が悪魔になるだけだ。
エリザベートは彼の前に座り、落ち着いた声で言った。「あなたは**押した**のでも**設計**したのでもない。――でも、あなたの手は**拍**を感じている。次は、その拍をこちらにください」
── 追補16/総執事の誇りと盲点
コンラートは席次表の控えを眺め、胸を張った。「私は火事にも病にも備える。人の流れは神経だ。詰まれば死ぬ。だから通りやすくする」――正論は正しい。だが正しいものは、別の正しさにも使える。犯人はそれを知っていた。
彼は小声で付け加える。「昨夜、もう一枚、古い席次表が紛れ込んでいた。廃止済みの書式だ。部下はすぐ捨てたが、誰が持ち込んだのか、まだ分からない」
「廃止印の欠けと同じ輪郭?」とエリザベート。
「……かもしれない」
── 追補17/医師ゲツォフの沈黙
ゲツォフは机の上のペン先を磨き、出納帳の角を揃えた。「印は欠ける。古いものだ」それ以上を言わない沈黙は、罪を示す沈黙ではない。だが沈黙は、聞く者の想像を肥大させる。エリザベートは沈黙の重さを量り、そこに“演出”の匂いを嗅いだ。
「誰かが、あなたの“正当”を借りたのです」
医師は長い息を吐いて目を閉じた。「ならば、私は借りられたままではいない」
── 追補18/手掛かりの再配列(読者向けの明示)
・席札のにじみ=直前接触(湿度の高い指)。
・グラス脚のズレ=置き直し(動線の再調整)。
・冷却槽縁の戻り=乾燥被膜の再活性化。
・トレイ裏の粗粒/棚の微粒=受け手と加工手の差異。
・ゼリー片の粘性・礫=第一介在物の存在。
・皿縁粉末の角・粒度=第二介在物の存在。
・出納帳の改行・印の欠け=記録偽装の可能性。
・侍従の利き手×配膳列=縁に触れる位置バイアス。
・黒蝋片(四枚目の欠け)=設計者のサイン。
これらは、名を言わずとも、**犯行の構造**と**アクセスの現実性**を語る。
── 追補19/“名ではなく形”の宣言
エリザベートは大広間に再び立ち、短く宣言した。「この件、**名**は裁かない。裁くのは**形**。礼は刃ではない、器だ。器を歪めた者を、形で正す」
観衆は一瞬、何を言われたのか理解できず、次に静かに頷いた。人は名に安心し、形に規律を見出す。推理とはその二つを行き来する航海だ。
── 追補20/アウフタクト(次章への前奏)
夜は更け、迎賓館の屋根に霜が降りた。鴉が遠くで鳴き、扇が一度だけ鳴る。エリザベートは目を閉じ、**沈黙の拍**を胸に置いた。
「設計者。――次は、こちらの番」
── 追補21/舞踏会の余白:衣装と眼差しの証言
青のドレスの令嬢は、被害者の隣の席の端にいた。「彼は一度、グラスの脚を持ち直しました。席札をずらして……。私、指が濡れているのを見たんです。汗というより、冷たい水。冷却槽からの滴でしょうか」
燕尾の青年は言った。「給仕が“右から右へ”配り直した。左の青年は器用に皿を回してたが、ひとつだけ、縁に触れた」
老人は杖の先で床を突いた。「扇の音は一度だけ高かった。あれは“場を止める合図”だ」
証言は不完全だ。だが、欠けたタイルはモザイクにした方が全体像が見える。エリザベートは一枚ずつ拾い、配置した。
── 追補22/助手の役割:ツッコミの推理術
カイルは眉をひそめる。「つまり、匂いは記憶を誘導し、礼は吐き出させない。被膜は冷気で戻り、唾液で溶ける。ゼリー片は第一、皿縁粉末は第二。改行と印の欠けは“うっかり”じゃなくて“設計”。――合ってる?」
「完璧。ついでに言えば、あなたの“素朴な反復”は観客へのガイドでもあるの。推理は独り語りにすると置いてけぼりになるから」
「俺、ガイド役?」
「騎士でガイド。最強じゃない」
── 追補23/最後の確認:美と罪の境界
「……一つだけ問う」カイルは声を低めた。「君は、あの場で名を言わなかった。名を言えば人は安心するのに」
「安心は時に、思考を止めるわ。私は読者――いえ、観客に考える権利を渡したかった。**名ではなく形**。礼は、そのためにある」
彼女は白扇を開き、光を一枚、掬った。美は罪にならない。だが、美は罪を隠す紙にもなる。だから今日、彼女は紙を器に変えた。
── 追補24/閉じ幕の一文
記録官はペンを置き、最後の一文を書き加えた。「本審理、二日後。証拠の構造に基づく公開実験を行う」――その文は乾き、光り、次章の扉になった。
── 終章の余白/白扇の休符
夜風がカーテンを揺らした。エリザベートは窓辺に立ち、遠くの塔の鐘を数える。四つ、そして一拍の沈黙。彼女はその沈黙に、扇の先で小さな休符を描いた。
「設計者。あなたの譜面、読み解いてみせる」
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