第5話 走る事
スタートは好調に行った。始まりこそ緊張はピークに達していたが、始まってしまえばそれ以上の緊張は無かった。寧ろ気持ちが良いものだった。
(このまま、このまま…)
前半は皆、ペースが早い。華はその中でも、早い方なので、スタートして直ぐは5番目程の場所にいた。といっても、抜いたり抜かれたり、一つの塊のようになっている。徐々に、自分のペースに持っていくために、前に行きたい華は、スーっと集団から抜け出せるよう自分の道を探っていた。
その時だった。突然、後ろ足に他の選手の足がぶつかってきた。
(え?)
視界が一気に、ガクッと前方から足元に来る。咄嗟に、華は踏ん張った。ここで転んでは、元も子もないと体が分かっていた。頭で考えるよりも、体の反応は早い。ぶつかってきた選手は、そのまま足がもつれ、体が倒れていく。その瞬間、ありえない事が更に起こる。
ずるっと、華のユニフォームの短パンが引っ張られた。咄嗟に後ろを振り向くと、必死の形相のショートヘアの選手が華の短パンに手を伸ばしていた。幸い脱げては居ないが、下半身が相手の重さに押し付けられてぐっと重くなる。名前は知らない、他校の部員だ。華はすかさず手を振り払い、前を向く。全てがスローモーションに見えた。振り払った手が、その選手が倒れ込む瞬間に華のふくらはぎを引っ掻く。
「!?」
ふくらはぎの痛みと、怒りで訳がわからなくなった。後ろにいた選手は、そのまま転び倒れた。そのまた後ろの選手もバランスを崩す。1人が倒れると、ドミノ倒しになるケースもある。
きっと、わざとでは無いだろう。塊の集団の中で、足がもつれ、ぶつかりバランスを崩したのであろう。咄嗟のことで、誤って手を伸ばしてしまったのかもしれない。そうだとしても、華はイラついた。
(何で?何で?)
走りながら、頭の中は怒りでいっぱいだった。しかしこのままのメンタルでは、いつもよりも消耗が激しくなってしまう。華はなるべく平常心を取り戻そうとしていた。
中盤、華は少しづつ自分のペースに戻ってきた。現在3位である。まだまだ優勝を狙える位置でもあるが、別のブロックで優秀なタイムが出てしまうと、絶対的に自分を許せない順位になってしまう為、後半に向かって体力を少し温存していた。
引っ掻かれた傷から、多少血が出ていた。華は気づいていない。ありえない事が起こったからこそ、どんどん前向きになっていった。
後半に入る。少しづつペースを上げていく。だんだん横の腹が苦しくなってくる。これこれ、と自分を苦しめる走りに華は酔いしれた。精神的に、いつもよりも疲れている筈が、何故かどんどん足が軽くなっていく感覚があった。
(何だこれ?)
足に羽根が生えた様な、不思議な感覚に包まれた。そして、何より楽しい。もうラストスパートになるというのに、何処までも走っていけそうな…。
そんな事を思いながら、華の顔はフワッと楽になり、スタートの時とは全くの別の気持ちになっていた。疲れを感じさせない走りを見せ、今迄よりも早く走ることが出来た。ラストスパートは、短距離走を思わせる走りで、1人、また1人と抜き、軽々走った。必死にと言うより、本当に軽々という感覚だ。
「ふ、はああ!!!」
ゴールテープを切る。
華は1位でゴールした。タイムは自己ベストだ。これなら、優勝間違い無いだろう。そう思った瞬間、足がガクガクし出し、視界が真っ暗になる。
華は倒れた。
直ぐに周りの大人達がやって来て、華を介抱する。顧問の飯塚先生も側にいた。
「先生…」
「月角!大丈夫?!今、氷とか色々冷やすもの用意するから…」
バタバタと飯塚が動く。
「ありがとうございます…ちょっと、最初ぶつかってきた人いて、イラついちゃった。そしたら、なんか、色々考えちゃって…」
「うんうん、でも1位だった。凄いよ月角は」
「…う」
何故だか、華は涙が出てきた。体調管理はしっかりやってきたつもりだ。だが、メンタルはどうだろう。そこに色んな要因が重なって、今に至ったのでは無いかと、少し情けなくなった。
少しずつ呼吸が落ち着いてくる。大人が何人かで華を抱え、とりあえず日陰に移動させてもらい、飲み物やら色んなものが素早く用意された。意識はハッキリしている。しかし、体が動かないので、相当体力を消耗した様だと思った。
(大事にはならなくて良かった…)
少し、頭がぐらんぐらんとする。飲み物を飲んで、首、手首足首を冷やし、ただぼーっとする時間を過ごす。もしかしたら、軽い熱中症かもしれないな、とも思った。そんな事を考えていたら、段々と競技も終わって来たらしい。
「つっきー!!大丈夫?びっくりしたよ、それでも1位は凄すぎだけど!」
同じ長距離の理香が、いの一番に華に駆け寄る。
「いやいや、私もびっくり。まさか転ばれるとは…何とか持ち越したけど…そして、この状態。ちょっと気持ち悪いし、熱中症かも…」
「体調気をつけてたのにねー、なる時はなっちゃうよ!今日暑すぎだし!!ほらほら、すみれパパが持って来た蜂蜜レモン食べよ!」
「うん」
理香の明るさには救われる。同じ種目だった事もあり、先のブロックだった華の走りを見ていたのだ。
「理香の走り、見れてなくてごめん。どうだった?」
「ふふん、大丈夫。かなり良く走れたからねえ…」
ニコニコしながら理香が言う。どうやらこの様子だと上位なのだろうと思う。
「みんな、良く頑張りました。今回もうちの学校が上位に入れて、私も嬉しいよ」
追加の氷や飲み物を飯塚先生が持って来てくれた。飯塚先生も上機嫌だ。自分だけではなく、みんなが良い結果が残せたなら華は嬉しいと思った。
「月角、体調はどう?もう少ししたら、表彰式もあるけど…月角は、文句なしの優勝。でも、体調戻らなければ表彰式は欠席にする?」
「出たい…けど…」
体が動かない。座って、冷やしている部分を撫でる。頭はまだぐわんとする。
「多分、軽い熱中症ぽいです。今、動けなくて…すいません」
「いいよいいよ、無理するな。確かに、この様子は熱中症ぽいな…じゃあ、表彰式は欠席という事で伝えるから。後藤は月角の代わりに貰って来てくれないか?後藤も今回は表彰式に出るから…」
「お?」
華が理香を見る。
「はい!へへ。今回は3位に入れたんだよねー!いやー、うれっしいなー。つっきーと表彰式に出たかったけど、仕方ないね。私だけ行ってくるね。」
「…うんっ!」
理香が3位。とても嬉しかった。たまに自主練で理香とは暗くなるまで走ったりしていた事が思い出される。あの努力はやはり無駄にはならなかったなと改めて思う。
理香が閉会式へと向かうのを見送り、華はふうっと息を吐き、近くにあった荷物に寄りかかる。
(ダメだ。疲れすぎて動けない。閉会式も長いし、暫く此処で休もう。)
ちりじりになっていた人の群れが、一箇所に集まり、閉会式が行われる音がする。華が休んでいる場所からは少し距離があるので、その音を心地よく聞いていた。
『ーー優勝、月角華さん。体調不良により、表彰式授与は欠席です』
自分の名前が聞こえる。自分の賞状やトロフィーは理香が受け取ってるのが見える。そして、理香が華の方に手を振る。
ふふっと華は笑い、小さく手を振りかえす。暑い中でも、心地よい気持ちになった。そういえば、と思いレース中に引っ掻かれた足の傷を撫でる。そこまで深くはなく、擦り傷の様だった。もう乾いて、かさぶたになっている。その流れで、ポケットに入れっぱなしにしておいたお守りを取り出す。
「何だこれ?」
思わず声が出てしまった。スタート前に握っていたのは覚えているが、力が強すぎたのだろうか。お守りに傷がついていた。華の足の引っ掻き傷よりも深く。爪で抉られている様な…。
(そんな力んでいたかなあ?)
華は疑問に思いつつも、握ってはいたしなあと自分を納得させ、またポケットに戻す。
(後で神社に優勝報告して、新しいお守り買おっと)
大会の結果に満足していたため、深く考える事なく華はその日を終えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます