第7話 デビュタント
朝の食堂に、父ベルナードの低い声が響いた。
「来月末のデビュタントに参加してもらう」
突然の宣言に、エミリアはスプーンを落としそうになった。思わず兄クロードと母ディアーヌの顔を見ると、二人とも思ってもみなかったという表情で、手元のスプーンが行き場を失っていた。
「デビュタント、ですか?」
「そうだ。もう十七だ。早い者は十六で社交界デビューする。いい加減、社交界に顔を出すべきだろう」
(去年は〝まだ世間知らず〟だから参加させないって言ったくせに……よく言うわ)
嫌味のひとつでも言いたかったが、また面倒なことになりそうなので飲み込んだ。エミリアの承諾にベルナードは満足そうにうなずいた。
(血脈があるかもしれないと分かった途端にこれ。本当に分かりやすいわね)
食事を終えると、エミリアは足早に自室へ向かった。自室で一人になると、エミリアは窓辺に立って庭を見下ろした。
(社交界なんて面倒くさいだけ。私は、やりたいことをやって気ままに暮らしたいだけなのに。でも……やっぱりちょっと楽しみだな)
自分の矛盾した気持ちに苦笑する。十七歳の貴族令嬢として、王宮の大広間で踊ることに憧れがないわけではない。どんな子だって憧れるだろうし、それは仕方がないことだ、と一人で納得してみる。
その時、ノックの音が響き、アンナが嬉しそうな顔で入ってきた。
「デビュタントのお話、聞きました! お嬢様、おめでとうございます!」
「そうね……でも正直、よく分からないわ」
「お召し物の件ですが、街の仕立て屋のマダム・シャルロットをお呼びしました。生地の見本をお持ちいただいております」
「ええ? ずいぶん手回しがいいのね」
「もちろんです! デビューですよ、お嬢様。準備は万全にしないと!」
すっかり自分のことのように拳を握りしめているアンナの勢いに、「そうね」という返事が思わず引きずり出されそうになる。
アンナに引っ張られるように、エミリアは応接室へ向かった。応接室には、王都でも評判の仕立て屋マダム・シャルロットが生地見本を広げて待ち構えていた。
「エミリア様、この度はおめでとうございます。デビュタントのための特別なドレスを仕立てさせていただきます」
テーブルの上は、シルクやサテン、レースといった色とりどりの生地が並べられ、すでにパーティー会場と化していた。
「こちらの淡いブルーのシルクはいかがでしょう? お嬢様のお肌によく映えると思うのですが」
マダムが差し出した生地は、光に透かすと真珠のような上品な輝きを放っていた。指先で触れてみると、滑らかで上質な手触りに、思わず感嘆の声が漏れた。
「素敵ね……でも少し派手かしら?」
「いえいえ、デビュタントにはこれくらいが丁度よろしいのです。王宮の華やかさに負けません」
「そう……では、これにするわ」
「承知いたしました。デザインはこのようなシルエットで……」
マダムは慣れた手つきでエミリアの採寸を始めながら、スケッチブックへ流れるように筆を走らせる。線はやがて、優雅なドレスの輪郭を浮かび上がらせた。
「お嬢様の体型でしたら、このシルエットが一番美しく見えますね。おまかせください。当日までに完璧にお仕立ていたします」
エミリアは、このドレスを着た自分を想像した──うん、悪くないかも。目の前に王宮の大広間が浮かんだ。
「ありがとう。よろしくお願いするわ」
マダムが帰った後もアンナは嬉しそうだった。
「あの生地でしたら、きっと素敵なドレスができあがりますよ。王宮でも注目を浴びますね」
「ありがとう、アンナ。でも、そんなに注目されても困るのよね」
「ふふ、お嬢様らしいお言葉ですね」
二人で笑い合っているところに、執事がやってきた。
「お嬢様、午後は講師の方が見えられます。応接室にお越しください」
午後、応接室には背筋をぴんと伸ばした上品な婦人が立っていた。
「エミリア様! お初にお目にかかります、ベルトランと申します!」
ベルトラン夫人──社交界に名の通った淑女教育の専門家である。五十代前半の貴族の婦人だが、その瞳には野心的な光が宿っていた。侯爵家の、しかも今後注目を浴びるであろうエミリアを教えるという大役に、腕が鳴るといった様子だ。
それにしても、こういう段取りの手早さには、まったくもって呆れるほかない。家長の一声で、本人の意思などお構いなしに物事が進んでいく。
「デビュタントは貴族の女性として当然の通過儀礼ですわ! これで正式に縁談もお受けできるようになりますのよ!」
前のめりで語る夫人の熱量に、エミリアは思わず半歩だけ後ずさった。
「一年遅れでのデビュタント、社交界では『侯爵家の深窓のご令嬢が満を持して登場』として大注目間違いなし! しかも『二つ持ち』の噂で、各家の視線は釘付けですわ!」
夫人は手をひらひらと振って、まるで舞台演出家のように熱弁する。
「しっかりとお教えしますので、立派な淑女におなりなさい! ああ、もう想像するだけで胸が躍りますわ!」
(貴族の女性の『あるべき姿』って何? 縁談のために着飾って、血脈を見せびらかすこと? それが私の人生の目標なの?)
当の役者は、まるで顔に貼り付けた仮面のように、完璧な愛想笑いを浮かべた。
「では、ダンスの実技指導に参りましょう! でもお相手が……」
夫人が急に困った表情を見せる。
「デビュタントまで日がございませんし、練習相手がいないのは困りますわね〜」
たしかに、ダンスは一人では練習できない。父や兄に頼むのも気が引ける。というか、イヤだ。
「少々お待ちください」
エミリアは立ち上がり、書庫へ向かった。分厚い扉を押すと、案の定、ラウルが本に囲まれていた。
「ラウル、ちょっと頼みがあるの」
「どうしたの?」
「ダンスの練習相手をお願いできるかしら?」
事情を説明すると、エミリアからダンスという言葉が出たことなのか、それとも、これまでろくに習ったことがないことへの動揺なのか、ラウルは困惑したような顔をした。
「俺なんかで……いいのか?」
「お願い! 他に頼める人がいないの」
エミリアの困った表情を見て、ラウルは短く息を吐いた。
「分かった。でも、俺も初心者だから、うまくいくかどうか……」
「あら、そちらのお若い方は?」
エミリアの後に立つ少年を見て、夫人が尋ねた。
「家庭教師のオルフェン先生の息子で、私の勉強仲間のラウルです」
「それでしたら、練習相手にちょうど良いですわ! あなた、エミリア様のダンス練習にお付き合いしていただけますか?」
ラウルは恐縮しながらうなずいた。
──侯爵家の広間は、王国の重臣にふさわしい、高い天井と磨かれた床、シャンデリアが輝く豪華な空間だ。
「では、お二人、まずは向かい合って立ってください」
夫人の指導で、エミリアとラウルは恐る恐る向かい合った。
「もう少し近く。そうです、右足の付け根同士が向かい合うように……はい、その距離で」
二人の頬がわずかに赤くなる。これまでこんなに近い距離で向かい合ったことはない。
「ラウル様、右手はエミリア様の肩の後ろに。手のひらで包み込むように、優しく添えてくださいね」
ラウルが恐る恐る右手をエミリアの肩の後ろに回す。温かい手のひらが背中に触れた瞬間、彼女の心臓がわずかに跳ねた。
(こんなに近くて……息遣いまで聞こえる)
「エミリア様は、左手をラウル様の右腕に。親指と中指の付け根を支点にして、自然に添えて……」
エミリアの指先がラウルの腕に触れると、今度はラウルの方が息を呑んだ。
(エミリアの手、こんなに小さくて……)
「で、もう片方の手はこのように組みます」
二人の指が絡み合う。二人は、自分の頬が紅潮していることに気づき、余計に胸の鼓動が感じられた。
「そうそう、完璧ですわ! では、音楽に合わせてステップを……」
お互い初心者だ。足を踏み合ったり、リズムが合わなかったりしている。それでも、この近い距離で練習を続けるうちに徐々に息が合ってきた。
「あら、お上手! もうワルツの基本は身についてきましたわね」
夫人の褒め言葉に、二人は顔を見合わせて微笑む。
「まず、基本はこんなところですわね。明日も続きをやりましょう。空き時間でも、お二人で練習してくださいましね!」
夫人は満足そうに手をぱんと叩いた。
「では、デビュタントまでに美しく踊れるようにいたしましょう!」
「教えがいがありますわぁ」と夫人は帰っていった。広間に残された二人は、今度は気楽に踊ってみた。
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ。俺も初心者だから、お互い頑張ろう」
さっきより自然に踊れているようだ。近い距離で見つめ合う瞬間、ラウルは何かが煌めいたような気がした。
(エミリアって……こんな……いや、何考えてんだ、俺は)
ラウルの心に、これまでとは違う感情が芽生え始めていた。
「上達が早いわね」
「えっ? あぁ、君がうまくリードしてくれるからだよ」
「私がリード? 男性がリードするものじゃないの?」
「あはは、そうだった。でも、君と踊ってると自然に動けるんだ」
二人の間に、これまでとは違う空気が流れていた。
その夜、エミリアは自室で日中に習ったステップのおさらいをしていた。──ふと、足が止まる。
(夫人の話を聞いてると、貴族の女性って、結局は家門のための飾り物みたい。でも、私にはやりたいことがある。不思議な出来事の謎を解きたいし、努力で何かを成し遂げたい)
窓辺に歩み寄り、宝石のように煌めく星空を見つめる。
(デビュタントも大事だけれど……それが私の全てじゃない。クラウディアに相談してみよう。先輩として、いろいろ教えてもらいたい)
星たちは、あの夢に出てくる星空のようだった。
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