「ノースキル」の烙印を押された侯爵令嬢、実は世界の管理者(アドミニストレーター)でした
柊ユキヤ
覚醒編
第1話 ノースキルの娘
そこは鈍い光で満たされた、白銀の部屋だった。
壁も床も天井も、その境界が溶け合って分からない。どこまでも無機質で息苦しいほど静謐な空間。窓の外には──窓? 本当に窓なのだろうか──底知れぬ漆黒の虚空が広がっている。闇の向こうでは星々が瞬くたびに微かに色を変え、声なき言葉を交わしているように見えた。
目の前に浮かぶのは淡く脈打つ光の文様。幾何学的でどこまでも精密なそれは、文字とも図形ともつかない。指先を寄せると、文様は水面の波紋のように広がり、視界の奥まで飲み込んでいく。
その時、意識の奥で水滴のような澄んだ音が響いた。いや、音ではない。言葉だ。意味は分からないのに、情報として胸の奥に直接流れ込んでくる。
──ああ、そうか。この光景を知っている。
幼いころから何度も繰り返し見てきた夢。正直うんざりもしていた。それでも触れずにはいられない。まるで、それが〝役目〟のように思えた。
光の文様に指を触れた、その瞬間──
「……お嬢様。……エミリアお嬢様」
現実の声が割り込んできた。白銀の世界は一瞬のうちに霧散した。揺らぐ視界の中、重い瞼を持ち上げる。そこには見慣れた天蓋と柔らかな朝の光があった。そして、メイドのアンナが心配そうに顔を覗き込んでいる。
「お嬢様、朝でございますよ」
「……もうそんな時間?」
「はい。お加減はいかがですか? 昨夜も遅くまで書庫に籠っておられたのでしょう」
「分かってるなら、あえて聞かないでよ」
強がってみせると、アンナはふわりと微笑んだ。そのあどけない笑みに、エミリアも思わず頬が緩んでしまう。
この冷え切った侯爵家の中で、彼女だけが唯一の温もりだった。他の使用人たちは皆、エミリアが『家門の恥』であることを理由に、腫れ物に触るように遠巻きに見ているだけだ。
「お顔色が少し青いように見えます。あまりご無理をなさらずに」
「ありがと。でも努力するのはやめないけどね」
「ふふ、そういうところは昔から変わりませんね」
穏やかな声に背中を押されるように、エミリアはベッドから身を起こした。
あの夢を最近はとくに頻繁に見る。まるで何かの始まりを知らせる前触れのようだ──そんな予感が、胸の奥でざわざわと騒いでいた。
朝食の広間は、今日も完璧な静寂に包まれていた。長いテーブルには銀食器が並び、父と母、そして兄が席についている。食器が触れる澄んだ音だけが、やけに大きく響いていた。
「父上、昨日の訓練にて、我が隊が最優秀の評価を賜りました」
沈黙を破ったのは兄のクロードだ。あえて抑えを効かせつつも、隠しきれない自尊心が滲む声で報告する。
「ほう、さすがだな。やはり我が家の『武の血脈』を色濃く継ぐ者は違う」
父ベルナードは満足げに銀のカップを軽く掲げた。母ディアーヌもまた、微笑んでうなずいている。だがその笑みは美しい仮面のように形式的で、彼女の視線は最初から最後まで兄にしか向いていなかった。
温かく、誇らしい空気。
──エミリアを除いた、家族の。
「……それに引き換え」
ベルナードの視線がナイフのようにちらりとエミリアをかすめる。言葉にしなくても、その意味は嫌というほど分かっていた。
(はいはい。優秀なお兄様と、誇らしげなお父様。ご立派ですね)
心の中で毒づき、さっさと食事をかき込むと、音を立てないように席を立った。
「ごちそうさまでした」
返事は、ない。いつものことだった。
エミリアは、廊下の突き当たりにある書庫の扉を押した。初夏にもかかわらず、ひんやりとした空気が彼女の頬を撫で、古紙の匂いが鼻腔をくすぐった。
そこには既に先客がいた。
「ラウル、おはよう。朝っぱらから本に埋もれてるなんて、あいかわらずね」
「やあ、エミリアお嬢様。君こそ朝から冷たい空気を浴びに行くなんて物好きだな」
「何が〝お嬢様〟よ。朝食はさっさと切り上げたわ。あんな空気、長居したら胃もたれするでしょ」
二人して、くすっと笑う。
ラウルは、エミリアの家庭教師である魔導士オルフェンの息子だ。幼いころからの付き合いで、遠慮も体面もいらない。実の兄よりも兄弟らしかった。
「そういえばさ。先週、親父が紹介した本。もしかしてもう読み終わった?」
「終わったわよ」
エミリアが指で辞書ほどの厚さを示してみせると、ラウルは目を丸くした。
「はは、また無茶したな。君のその知識欲は、ある種の才能だと思うけどね」
「血脈の代わりは努力しかないんだから、仕方ないでしょ」
ラウルの呆れ顔をよそに、えへんと胸を張ってみせる──本当は三日も寝不足で頭がふらふらだが、そんなことは絶対に言わない。言ったら負けだ。
「そうだ、来週の講義なんだけど、日をずらしてほしいって先生に伝えておいてくれる?」
「何かあるのか?」
「マチアスおじさまって分かる?」
「ああ、旦那様の従兄弟だろ」
ラウルは即答した。住み込み家庭教師の息子とはいえ、彼は侯爵家の親族関係をよく把握している。
「そう。あそこのミシェル、三歳になったの」
「なるほど、『生命図譜の儀』か」
「ええ。お呼ばれしてるのよ」
三歳といえば儀式。それがこの国の者にとって、息をするように当たり前の連想なのだ。
『生命図譜の儀』──この大陸で広く行われる三歳の儀式。
このイルスレイド王国でも例外ではない。血を一滴、『図譜陣』と呼ばれる特殊な魔法陣に落とすと、その子の『血脈』が浮かび上がるのだ。血脈──それは魔法、身体能力、特殊技能──つまり才能の証であり、貴族社会での価値を決める絶対の基準だった。
だが、エミリアの時は違った。浮かび上がったのは意味不明な記号らしきものの羅列。神官は困惑し、参列者は黙り込んだ。そして父ベルナードは──怒り狂い、その場で図譜陣を破り捨てたのだ。
まだ幼かったエミリアだが、羊皮紙の切れ端が床に散らばった光景だけは、今も鮮明に覚えていた。
そのせいで彼女は『ノースキル』の烙印を押され、家門の恥として扱われることになった。
──でも、もう気にしてなんかいない。血脈なんてくそくらえだ。才能? そんなものに頼らずとも、知識と努力で届く場所があるはずだ。
「じゃあ、私は稽古に行くわ」
「読書の次は剣か。本当に休まないな」
「一応、『武の血脈』の娘ですから。形だけでもね」
ニヤリと挑戦的な笑みを浮かべ、エミリアは埃っぽい書庫を後にした。
侯爵家の中庭、その奥まった一角に訓練場がある。砂を敷き詰めただけの簡素な広場だが、エミリアにとっては一番居心地の良い場所でもあった。ここでは誰も彼女を『ノースキルの令嬢』としてではなく、ただひたむきに剣を振るう一人の人間として見てくれる。
「お嬢様、構えが甘い。腰をもっと落として──そう、そこだ。剣は腕だけで振るうな。背中から、身体全体をしならせて振るんだ」
鋭い声が飛んだ。目の前で腕を組むのは、この屋敷の警備を預かる衛兵隊長。五十手前の筋骨逞しい男で、歴戦の兵だ。
「はいっ!」エミリアは必死に返事をし、両手で握った木剣を振り下ろす。掌は赤く、豆が潰れて血が滲む。それでも構え直し、振り下ろす。軋むたびに生きている実感が湧く。
「よし……今の踏み込みは悪くない。だが──惜しいな」
隊長は彼女の剣を見ながら、唸るようにつぶやいた。
「お嬢様、その剣筋は並の剣士よりもよほど筋がいい。血脈さえあれば、きっとひとかどの剣士になれるんだが」
「またそれ?」エミリアは木剣を肩に担ぎ、荒い息を吐きながら笑った。
「血脈なんて関係ないわ。私は努力でなんとかするの。そう決めてるから」
その言葉に、隊長は眉を寄せ、苦い笑みを浮かべた。
「……その心意気は大したもんだ」
エミリアも思わずニヤリと口角を上げた。
再び木剣を握り直す。剣を振っている間だけは、父や兄から向けられる冷たい視線を忘れられる──彼女にとって、何より大切な時間だ。
その時だった。
「……何をやっている?」
背後から聞き慣れた声が響き、ぞわりと背筋が粟立つ。振り返ると、兄クロードとその従者たちが訓練場を横切っていくところだった。
クロードは王国騎士団に属する王都警備隊において、若くして分隊を任される期待の星だ。背は高く、父に似た精悍な顔つきで、鎧に身を包んだ姿はそれだけで人目を惹く。
「……木剣?」
クロードは鼻で笑い、エミリアに氷のような視線を向けた。
「血脈のない者が剣を振るうなど、時間の無駄だ」
胸が強く締め付けられ、喉の奥がひりついて言葉が出ない。悔しさに木剣を握る手が震えた。
「せいぜい剣士ごっこで満足していろ。おまえにできるのはその程度だ」
何も言い返せないエミリアを鼻で笑い、クロードたちは去っていった。遠ざかる嘲笑が耳にこびりついて離れない。悔しさで視界が滲む。唇を噛みしめすぎて、口の中に鉄の味が広がった。
「お嬢様……」隊長が気の毒そうにこちらを見ていた。その同情すらも今は惨めだった。
エミリアは木剣を振り上げ、渾身の力で木人形に叩きつけた。
「血脈が……なんだっていうのよ!」
叫びが喉を裂き、訓練場に響き渡る。木人形の表面に深い傷が走り、木屑がぱらぱらと飛び散った。腕は痺れ、肩に激痛が走る。それでも止められない。
兄の言葉が頭の中で繰り返し響く。「無駄な努力」「剣士ごっこ」──私の血の滲むような日々は、全部ゴミだと言うの?
(違う──)
「私は……努力で、必ず……!」
ついには血と汗で手が滑り、木剣を落としてしまう。手をひざに当て肩で息をする彼女に、隊長がためらうように尋ねた。
「……お嬢様、オルフェン先生は魔導士でしょう? 魔法の勉強もしてみようとは思わんのですか?」
「え?」思わず振り向いた。意外な言葉だった。
「お嬢様は聡明で、学問にも熱心でいらっしゃる。剣の上達ぶりも見事なものだ。ならば魔法だって、学べばあるいは──」
思いもよらない提案に、沸騰していた怒りが少しだけ冷める。
「さすがに魔法は……できる気がしないわ。血脈がないのに、魔法なんて」
「ですが、息子のラウル君も魔法の血脈持ちでしょう。彼も力になってくれるのでは?」
ラウル。たしかに彼は魔法の血脈を持つ魔導士だ。だが、決してそれを鼻にかけず、いつも「血脈より努力の方が大事に決まってる」と熱く語っている。
「もし、私でも……ノースキルの私でも魔法が使えるようになったら」
ポツリとつぶやいた言葉が、胸の奥で種火のように熱を持った。
「それって、普通の人だって、頑張れば魔導士になれるってことじゃない?」
想像しただけで胸が高鳴った。兄や父が信じる血脈至上主義を根本からひっくり返せる。努力こそがすべてだと証明できる。
「たしかにそうね……面白いかも」
木剣を拾い上げ、泥を払う。
夕日が西の空を赤く染め、訓練場に長い影を落とす。汗で濡れた木剣を下ろし、大きく息を吐いた。
(才能? そんなの知らない。努力で全部ひっくり返してやる)
エミリアはもう一度木剣を振り上げ、夕焼けに向かって全力で振り下ろした。
その瞬間、脳裏にあの白銀の景色が鮮明に浮かび上がった。同時に、あの水滴が一滴落ちるような澄んだ音が鳴る。
《管理者第1次認証──成功。照合フェーズ移行》
(──っ!?)
頭の中に響いた無機質な声──水滴の音のはずなのに、意味が分かった。
パァンッ!
気づくと、乾いた音が鳴り、太い丸太でできた木人形が、なんの抵抗もなく上下に泣き別れた。斬った感触など微塵もない。まるで最初からそこが分断されていたかのように、上半身がずれて地面に落ちた。
「あ……」
エミリアは動きを止めた。
掌が熱い。木剣が内側からうっすらと光り、指先がピリピリと痺れている。今のは何? 人の声ではない。どこまでも無機質で冷たい響き。
隊長が絶句し、こちらを見ている。
「お、お嬢様……今のは……?」
隊長はぶるぶると首を振ると、自分の目を疑うように目をこすり、割れた木人形に駆け寄った。
「いかん、木人形が古くなっていたか。お嬢様、お怪我は?」
「え、あ、うん。私は大丈夫だけど……」
エミリアは戸惑いながら、綺麗に切断された木人形の断面を見つめた。
どう見ても、叩き折ったものではない。鏡のように滑らかな断面だ。木剣でこんなことが起きるはずがない。それに、古くなっていた? そんな感じにも見えないが──
まだ、熱の感触が掌に残っていた。
──それにしても、夢で聞いた音の意味が初めて分かった。声が聞こえた瞬間、世界が一変した感覚があった。それに、さっきの光と熱は何なのだろう。
(いったい、私に何が起きてるの? 『管理者』って何?)
背中にヒヤリとしたものを感じたのは、流れた汗のせいだけではなかった。
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